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短編小説(朗読):相合傘/試作

 いつも通る一本道に、いつもと違う小さな三角形がぽつんと描かれていた。三角形を二つに割るように長い線が描かれている。相合傘だ。

 子供のおまじない。その傘の下に恋人になりたい者同士の名前を書くと恋愛が叶う、恋人同士がただその関係を書き記す。そのように使われることの多い模様。

 舗装し締め固められたばかりの暗い色のアスファルトの上に小さく、白くくっきりと描かれていた。その相合傘の下には誰の名前も書かれていなかった。傘だけが描かれている。軽く靴でこすって消えないか試してみた。あまり消えなかったし、時間もなかったのでそのまま通り過ぎて行った。

 懐かしい。が、あまりいい思い出はない。相合傘でからかわれたことがある。傘の下に書かれた相手は真っ赤になって誰がその悪戯をしたのかクラスメイトに問い詰め、もう一人の当事者だった私は黙って無視を決め込んでいた。当時、好きな相手だったということもあって私は内心喜んでいたのだが、相手がその悪戯を嫌がっている様子を見てがっかりもした。告白もせずに終わった恋だった。おまじないは所詮おまじない。かえってあんな風に現実を突きつけることもある。

 これだけなら青春の思い出で済んだだろう。けれど、私にとってはいつまでも残る傷跡になっている。

 犯人はあっさり見つかった。そして、駅のホームで走って逃げる犯人を追ったその相手は、つんのめって、走ってきた特急列車の前にふわりと飛び出し、ばん、という音をたてて、あごの骨が砕けたのか、顔を倍の長さに伸ばしながら私の視界から消えた。無視を決め込んでいた私の目の前で起きた事故だった。

 ホームは騒然としていた。その瞬間を見て吐いている人もいた。あっという間に駅員が集まり、人体を引き潰した車両をブルーシートで隠した。警察が来て何か記録をしていた。

 その様子を私は呆然として見ていた。全てを見たにも関わらず、何も感じることがなかった。好きだったならもっと反応があっていいはずだと思うものの、ただ成り行きを眺めていることしかできなかった。その無感情さが酷く気持ち悪く感じていた。

 帰り道。当然のようにそこにある相合傘。何もこんなところに描かなくてもいいじゃないか、と毒づいたとき、違和感に気づいた。相合傘の片方に、子供が落書きしたような、ぐちゃりと崩れた塊が赤のチョークで描きたされていた。

 不気味に感じて靴で消そうとした。ただの子供の落書きを気にしている自分を自嘲しながらも、完全にぼやけた跡になるまでこすり消した。

 翌日。消したはずの相合傘が描いてあった。その横には電車の絵。

 相合傘と電車。こんな組み合わせを描くのは事故を知っている人間しかいない。しかもわざわざ私の通る道に描くなんて悪意があるに決まっている。無性に腹が立った。いや、正直にいうと総毛だった自分を誤魔化していた。

 相合傘の下の片方には赤く潰れた塊。もう片方には白い棒人間。電車は赤いチョークでべっとりと色が塗ってあった。

 私はぞっとして、吐き気を覚えて、うずくまった。あの事件の時には何も思わなかったのに、絵を描いた誰かの悪意に晒されることで、初めて凄惨さをねじ込まれたような気がした。

 翌日。遠回りになるが、別の細道を通ることにした。横幅は両手を伸ばせないほどの狭さ。ブロック塀に囲まれてくねくねと折れ曲がった道で、人通りが少なく、普段は使わない道だった。

 一つ、二つ、三つと角を曲がるたびに人通りのない不安があったが、あの落書きを見ないで済むと思うと気分が良くなってきた。

 最後の角を曲がった。

 塀にばらばらと無造作にばらまいたように、白いチョークで相合傘が描かれていた。そして道路には真っ赤に染まった電車が伸びて、その先にはぽつんと相合傘が描かれていた。その相合傘は赤く潰れた塊が持っていた。

 思わず足を止めた。別の道を通ろうかと考えたが、もう遅刻してしまう。できるだけ見ないようにしてその場を走り抜けた。

 心臓の音が聞こえる。何もなかった。けれどこんな悪戯を考えたのは誰だ、実行しているのは誰だ。

 そう考えていると、雨が強く降り始めた。まったくついていない。鞄を傘にして走り出そうとすると、不意に雨が止んだ。

 いや、誰かが傘を私の上に被せたのだ。

 反射的に気配を感じた横を見ると、赤くべっとりと染まった手が傘を持っていた。驚いて振り返ると、地面の赤い塊から細長く伸びた腕がずるりと這い出しているのが見えた。

 声にならない叫び声をあげた。傘の下から逃げ出し走り出す。雨が目に入って視界が滲んだ。ガンガンと鐘の音が聞こえる。明るい光に横から照らされて……。

 「……お客様にお知らせいたします。当駅付近で人身事故が発生いたしました。ただいま列車に遅れが発生しておりますことをお詫び申し上げます……」

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