私のこと。
こんにちは。明後日は誕生日、43才になるオケイです。
43才ということは、おそらく人生の折り返しは終わっていて、残った半分をどう生きようかと結構真面目に考察している。
今回は私の自己紹介をしてみようと思う。
昭和52年3月30日。東京都北区、十条で産まれた。
十条は23区にありながら程良く下町で、母の故郷なので、なんとなくのんびりストレスレスな生活だったのではないかと思う。
その後4歳の時に埼玉県上尾市に家族で引越しをするのだが、そこもマンモス団地で周りとの格差もあまりなく、兄弟も弟が二人になり3人兄弟の長女として幼稚園時代を平和に過ごした。
思い出に残っていることも割と平和なもので、可愛いものやかっこいいものが好きだったから、可愛い子やカッコいい子の隣をどうキープするかとか、そんなことばかり考えていたなあ 笑
そして小学校へ入学する。
大石南小学校。今思い返すと私の人生の中でとにかくいい学校だったと最近になって気付いた。
私が今目標にしているインクルーシブ教育に限りなく近く、子供の独創性や個性をとにかく大事にしてくれた。
私は少し変わった子だったと思うのだけど、そんなことは微塵も気にすることなく、むしろ個性があることを自慢に思っていた。
多分、先生方がそういう私のことを受け入れて褒めていてくれたからだ。
その後、家を買って母の祖父母と一緒に暮らすため5年生で引越しするまで、私は自分のことを好きだったし怖がることなく自分というものを表現できていた。
その時は普通の感覚で当たり前と思っていたけど、小学校低学年の時にそういった学校で過ごせたことは奇跡みたいなことだったんだな。今更ながら感謝だなあ。。。と思う。
今で言うADHDのような子や不自由がある子もみんな一緒だったから、偏見やイジメなんて起こりようが無かったし、自然といろんな人がいる、いて当然で助けあうのが当たり前で。むしろ困っている子に我先に手伝いを申し出て、手助けの争奪戦を繰り返すような毎日だった。
そこで得たその当たり前は私の宝物だ。本当に感謝。
一人一人に与えられる”肥後守”と言うナイフで竹を削って作った箸で給食を食べたり、数珠玉?て言うのかな。。そんなような名前の植物の実を取ってきてお手玉を作ったり、藁を編んで作った草鞋を履いて生活したり。
その学校には養護施設から通ってきている子もいたのだけど、なんだか自立してカッコよく見えて、女の子が履いていて潔く見えたショートパンツを真似してたっけ。
そういう空気感も全てその時の校風が、先生方が作っていてくれたんだなと思う。
5年生。そんな恵まれた環境で過ごしていた私に転機が訪れることになる。
隣の市への引越し、転校だ。
それまでの価値観も自分への評価も全くの逆になり、私の個性は恥ずかしいもの、寒いもの、白い目で見られるものとなってしまう。。。
続きます。
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