【哲学】想像力は”理性的”でないのか?プラトンの「洞窟の比喩」の構造的欠陥から読み解く

 想像力が足らないとよく言われます。そんな想像力ですがなんとなく論理的思考とはイコールではない"情感的"なものだというイメージが膾炙しているように思います。少なくとも近世以降の哲学史においては"理性""悟性""知性"などガッチガチの概念に対して劣位におかれてきました。

今回はそんなフワフワの「想像力」概念を救い出す試みです。

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1. はじめに

「想像力」とは何なのか。それは哲学において不要なのか。

現代に至るまで詩的・比喩的想像力を評価する哲学的風流はほとんど皆無といってよく、現代形而上学と呼ばれる一派も経験主義に基づいた分析哲学の色が濃い。デカルト以来の理性偏重型人間観をはじめ、近世哲学への挑戦や照り返し、行き過ぎの反省として立ち上がる思想が少なくないのと比べると、想像力を正面から論じたものは稀少であり、そもそもそれを哲学と認知することすら敬遠されるかもしれないというのが現状だ。そんななかで坂部恵氏の『仮面の解釈学』における「<かげ>についての素描」という論考は、プラトンの「洞窟の比喩」における影の役割に焦点をあてつつ、想像力についての解釈替えを行うものであるが、これは先に述べた現状を鑑みると特異な位置をもつ。
さて、想像力を劣位におく哲学史の始点は、プラトンに置くのが一般的な仕方である詩人追放論においてその傾向が著しいのみならず、プラトンによれば、想像力の対象は真実在の「似像」であり、魂を向けかえてイデアの善性を視るようになるまでの前段階に過ぎない。このことを示しているとされるのが、『国家』第七巻に登場する「洞窟の比喩」である。おのれの影を「真実だと思いこむ」ところから始まり、洞窟の外の太陽へと目をこらしたひとは、再び洞窟へと還ってゆき、未だ思い込みから抜け出せない人々を「あわれむ」。それにしても示唆的なのは、すでに先人より多くの指摘があるところでもあるが、想像力を劣位におく哲学史の始源とされるプラトンの哲学が、覆いがたく比喩的想像力によって彩られている事実である。数々の卓越した比喩によって説き伏せるだけでなく、彼の言葉が織られる「対話篇」という仕方もまた、一種の比喩的想像力の産物と言えなくもない。だからプラトン自身は想像力を劣位に置いてなどいなかったと述べるのは憶断に憶断を重ねているけれども、再三語られてきた「洞窟の比喩」を、想像力という観点から解釈しなおすことは、冒頭に挙げた問いを実らせるのに一役買うことだろう。本稿ではまず、プラトンが「洞窟の比喩」によって意図した論点を改めて見てとる作業をしつつ、「洞窟の比喩」によって固定されてしまった、語ることが閉ざされてしまった要素を汲み出し、最後に想像力とプラトンの関係について考察を加え、哲学における「想像力」試論とする。

2. 「洞窟の比喩」によって意図された論点――「立ちくらみ」

 プラトンが「洞窟の比喩」をソクラテスに語らせたのは、「教育と無教育ということに関して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ」(514A)という文脈においてである。比喩の状況設定が述べられたあと、プラトンは容易した比喩が意味するところについて説明を付す。彼によれば、「視覚を通して現れる領域というのは、囚人の住いに比すべきものであり、その住いのなかにある火の光は、太陽の機能に比すべきものである」(517B)「上へ登って行って上方の事物を視ることは、魂が<思惟によって知られる世界>へと上昇して行くことである」(517B)ここからプラトンは「洞窟の比喩」において「魂の向けかえ」論を示唆したというのは極めてもっともな解釈である。

しかし、「洞窟の比喩」の含意するところは「魂の向けかえ」だけではないように思われる。プラトンは、魂が<思惟によって知られる世界>へと向き、そこにある<善>の実相であるとこのイデアを見ることの必要性を説いてから、さらにつづく一節を、少々長くなるが引用しておく。「神的なものを観照していた人々が、そこを離れて、みじめな人間界へと立ちもどり、その場の暗闇にじゅうぶん慣れないで、まだ目がぼんやりとしか見えないうちに、[…]影や像が<正義>そのものをまだ一度も見たことのない者たちによって、どのように解されているかをめぐって争わなければならないようなときに、へまなことをして、ひどく滑稽に見えたとしても、これは驚くに足ることだろうか?」(517E)ここでは単に「魂の向けかえ」という論点のほかに、魂を「神的なもの」へと向けていた人が、再び影と像の「人間界」へと還ってきた直後の、いわば立ちくらみの意味するところが述べられている。この「立ちくらみ」について、プラトンは他にも、洞窟から急に外界の太陽へと眼差しを向けたものの、あまりに眩しくて影へと視線を落とし直してしまった人間を描いている。それを避けつつ「魂の向けかえ」を遂行するためにも、段階を経て視線を徐々に上げていくような教育の必要性をプラトンは説く。「上方の世界の事物を視ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう」(516A)洞窟の奥底から外界へと目をむけるとき、人は「立ちくらみ」を起こす。外界から奥底への場合においても同様である。この「立ちくらみ」は、「上方の世界」へと魂を向けかえることを阻みうるだけでなく、影や像をめぐる問いに十全な状態で参加することができない原因ともなるから由々しき問題なのであり、それを解決するような教育プログラムをプラトンは考えざるを得なかった。『国家』はそうして展開する。

プラトンの「洞窟の比喩」は、このように、単に「魂の向けかえ」の必要性を説くだけでなく、その際起きうる「立ちくらみ」の含む問題も描き出しているのである。その根拠は、「洞窟の比喩」冒頭の状況設定においてもみられる。「人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできない」(514A)ここでは、洞窟に住まう人間たちが、外界に対して徹底的に無耐性であるように設定されている。それをはじめとする設定をひとしきり繰り広げた後、その人間たちが影以外のなにものも見たことがないというプラトンの念押しに対し、グラウコンは「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう(引用者注:「そのようなこと」とは「影以外のなにものかを見ること」である)」と答える。さて、この「手足も首も縛られ」るとか「一生涯、頭を動かすことができない」などの徹底した状況設定は、単に視線を洞窟の奥底から外界へと向けかえるというだけの物語をほのめかすにあたって必須ではない。この外界に対する無耐性は、まさに「魂の向けかえ」の際に「立ちくらみ」が生じる危険性があることを強調するための仕掛けであると解釈できる。

 では、この「魂の向けかえ」における「立ちくらみ」はどのような議論をもたらすだろうか。洞窟と外界のあいだ、影と真実在のあいだにおいて生じる「立ちくらみ」のいわば対称性をすでに説明したが、しかしながら他方、ここにはある非対称性があり、それが原因となって「洞窟の比喩」はある凝固したイメージを有し、後世に影響を及ぼしてしまったものと考えられるのだ。次の項でそれについて詳らかにする。

3. 「洞窟の比喩」によって凝固された論点――洞窟は悪の世界であるか?

 先の項でわれわれは、洞窟に囚われた人々が視線を急に外界へと向けかえることによって生じる「立ちくらみ」、外界にて真実在を目の当たりにした人々が再び洞窟へと還ってきた際に起こす「立ちくらみ」が、「洞窟の比喩」において位置を占めていることを明らかにした。ここに一見、洞窟と外界のあいだに、「立ちくらみ」を媒介とした対称性があるようだが、しかしながら、プラトンは前者の「立ちくらみ」に対し、後者のそれについてあることを語っていない。それは端的に、「立ちくらみ」を起こさない対処法である。

 確認してみよう。洞窟から外界にあたっては、「上方の世界の事物を視ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう」(516A)という想定から、まずは太陽の影がうつる水面から、といった要領で視線を徐々にあげていく教育を囚人に施すことで、「魂の向けかえ」は完遂されやすくなる旨を説いている。

 では、外界から洞窟への段階ではどうだろうか。プラトンは徐々に下降していく施策については語らず、「神的なものを観照していた人々が、そこを離れて、みじめな人間界へと立ちもどり、その場の暗闇にじゅうぶん慣れないで、まだ目がぼんやりとしか見えない」(517E)と、「立ちくらみ」を起こした結果を固定している。上昇については目がくらまないように教育が必要とされてそれが説かれるのに、下降については目がぼやけることを前提として議論が進む、このことによって、洞窟の世界、<見られる世界>をば、真実在を見たことのある人間にとって「立ちくらみ」を起こしてしまうような世界、というイメージが凝固してしまう。上昇することが正義で、下降することが悪だというイメージがここに作られ、影の世界としての洞窟には、真実在を把捉した人間にとって目がぼやけてしまうという悪しきイメージが帰せられる。上昇することは徐々に行うことができるが、下降に関しては重力に抗うことができない。「洞窟の比喩」は構造上、「立ちくらみ」を起こさない仕方での下降を、正義をもって説明することを不可能とするのである。
 この洞窟への下降に価値を見出そうとする動きは多くはないけれども、その一例が坂部恵の『仮面の解釈学』における「<かげ>についての素描」である。そこでは下降が囚人に、上昇のときと同じようなポジティブな衝撃を与える可能性をとりあげつつ、影および想像力を劣位においたプラトンを批判的に検討している。下降の相対化という観点では白眉であるけれども、プラトンが影と想像力を劣位においたという哲学史観は、他方まだまだ相対化の余地があるものと私は考えている。次の項で論じることにしよう。

4. 想像力をきっかけとして立ち上がる哲学——結びにかえて

プラトンは、「似像」に対する囚人の「想像力」という関わり方自体を否定したのだろうか、という問いへ移ることにする。プラトン自身の意図は解釈以上のものへと昇華させることはできず、確言はできない。しかし、「洞窟の比喩」が構造上はらむ、影の世界への下降が必ずや「立ちくらみ」を引き起こしてしまうことによる、影の世界への悪しきイメージの凝固が、影と囚人への見方の相対化を阻んだとは言えそうである。
 詩人、つまり「似像」に関わる人間をプラトンが批判したとされるのは『国家』第十巻である。うち一節を引いておこう。「真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになるし、またそれがすべてのものを作り上げることができるというのも、どうやら、そこに理由があるようだ。つまり、それぞれの対象のほんのわずかの部分にしか、それも見かけの影像にしか、触れなくてもよいからなのだ。たとえば画家は[…]どの職人の技術についても、けっして知ってはいないのだ。だがそれにもかかわらず、上手な画家ならば、子供や考えのない大人を相手に、大工の絵をかいて遠くから見せ、欺いてほんとうの大工だと思わせることだろう」(598B-C)ここで批判されているのは、「見かけの影像」にだけ触れて作り上げたものを、「欺いてほんとうの」ものであると思わせるひとのあり方である。このような傾向をもつ詩人的な人物たちは、哲人国家の成立にあたって端的に追放されるべきだという。しかし、次のような解釈も可能ではないだろうか。プラトンが重きをおいて否定しているのは、あくまで「似像」を「欺いてほんとうの」ものであると思い込み、他人にもそう見せかけることであり、「見かけの影像」にだけ触れることで作るという営み自体ではないという解釈だ。否定しているのは似像を真実在と思いこむことであり、似像にかかわる想像力自体、そして似像自体ではない。「洞窟の比喩」に立ち返ると、囚人たちは、徹底した外界への無耐性ゆえに、「あらゆる面において、ただもっぱらの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」(515C)あるいは、外界から再び洞窟へと還ってきた人々が巻き込まれるところの、「法廷その他の場所で、[…]そういった影や像が<正義>そのものをまだ一度も見たことのない者たちによって、どのように解されているかをめぐって争わなければならない」(517D-E)法廷で起こる争いは、<正義>とは何と捉えることが真であるかの論議を含むのだとすれば、ここでも「影や像」だけをもとに真の<正義>を把捉しようとする囚人の滑稽さが指摘されている。ここで否定されているのは、あくまで影を真実と思いこむ囚人であり、影を眼差すこと自体ではない、そして影自体ではないという解釈は、少なくとも不可能ではない。

 影を眼差すという営みは、「魂の向けかえ」にあたって一定の位置をもちうるということを指摘して本稿を締めくくることにする。太陽=真実在へと視線を向ける際、「立ちくらみ」を避けるために段階的な教育プログラムが措かれていることをすでに述べた。しかし、太陽=真実在が、まさに善性を帯びたものであると、他の人にそそのかされるのではなく自分自身の目によって気づくためには、自分がかつて洞窟という暗がりにいた経験のあることが有用であるといえる。すなわち、いくら教育によって向けかえの急激さを軽減するのがよいとはいえ、多少の「立ちくらみ」がなければ、太陽が眩しいこと、それがかつて自分の目にしていた影とは異なることに気づけない可能性があるのだ。それはさながら、ひねもす冷房の効いた部屋にいた者よりも、炎天下での活動から部屋へと還ってきた者のほうが、冷房のありがたさをずっと容易に認識するようなものである。魂を向けかえてイデアへと至るのならば、向けかえる前の影もイデアの認識へ至るのに与していた、というテーゼが、仮にここで得られるものとしよう。これは言い換えれば、「似像」を捉える想像力が、真にあるものを見出そうとする哲学的思索の発端であるということである。

 こうしてみると、さして不自然でもないように思える。思いなしでなくイデアを認識したいというプラトンの目論見は、同時代のソフィストに抗った彼の哲学的姿勢であるが、彼は自身の思索を語るさいに様々な比喩や、対話篇という形式を用いた。「洞窟の比喩」においては、性急な思索の展開による「立ちくらみ」を避けるべきことが示唆されているけれども、他方、ある程度の「立ちくらみ」に身をおくことが、イデアの認識に至るにあたっての必要悪であった。想像力に彩られながらそれを劣位に置いた始源とされるプラトンの奇妙な立ち位置は、以上の解釈によって多少なりとも説明が可能である。そしてここにおいては、想像力そのものが否定されているわけでは決してなく、想像した像を真実在と思いこむあり方が退けられているのであり、それはまさに、プラトンの哲学的姿勢をある意味で形づくったともいえるソフィストの典型的なふるまいなのである。

※文中の『国家』の引用は、すべて藤沢令夫・訳(岩波文庫、2017年版)を用いた。

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