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クリームソーダのチェリーみたいに

悩みや悲しみに暮れる人へ、絞り出してでも言葉を贈るのが正だと思っていた時代があった。狭苦しい自分のワードローブから似合いそうな服を引っ張り出して着せつけた言葉は思うように伝わらなくて、逆にそんな善意を受け止められないことだって何度もあって。

良いことを言われたら救われる訳でもないし、自分の欲しい言葉が他人にとって辛く聞こえることもある。ただ背中をさすったり手を握ったり抱きしめたりすることが言葉以上に何かを伝えることもある。どんなにリモート化が進んでも、確かな温もりの強さには敵わない。


これでも結構くらってしまっているのだけど、自分なんかより思い出と思い入れのある友人知人が居る中で悲しむことが申し訳なく口を噤んでいる。推しとか担当とか、そういう概念は解り合えないと知ってはいたけど、こんな場面で実感するとは思っていなかった。好きだったことを知っていて、あまつさえゴシップの話題を振るのは、良かれと思っているのだろうがパワハラで訴えられても仕方ないくらいだ。忌引明けで失くした存在の話をしようとは思わないだろうに。


誰かにとっての取るに足らない存在が、誰かにとって酷く大切で奪われてはならない神様だったりする。クリームソーダのチェリーみたいに。


返事は要らないし、読まなくても良い。ただぽつりと呟いているとき、其処に居てくれていることへの安堵を覚えている。エゴだと解っていても、生きていて欲しいと願ってしまうことが許されるのだとしたら。よく知りもしない人が俳優さんに軽々しくそう思うのは受け入れられなかったのに、自分の友人にはやっぱりそう思ってしまった。

前に進もうとも頑張れとも勿論言えない。泣くのは苦しくて体力を消費するし、哀しすぎて涙が出ないときだってある。埋めることは出来ないけど、他の部分が満たされていくことで穴が小さくなれば少しは息も吸いやすくなる。今まで埋めてもらった分、それ以上でも、満たす手伝いが出来たら良いのに。そう願う一方で、それを伝えるのもまた押し付けのようで、取り留めもなく此処に綴ってしまっている。

誰かを好きになり応援すること、心酔することの怖さを改めて知らされた。心を救われる一方で、足元を掬われる危険を孕む。近づいた分だけ離れてしまうのは実生活での人間関係だって同じだけど、近づけ方が自由だから離れる幅が実際以上に拡がってしまうのだと改めて思わされる。


それでも私は近づいてしまうことをやめられないし、大切な存在を大切にすることを諦めたくない。

クリームソーダのチェリーみたいにはなれないとしても、氷の一欠片でも炭酸の泡の一粒くらいの存在感でも良いから、あったほうが良かったなと一瞬でも思ってもらえるなら。その瞬間の為に手を尽くすことを厭わないで居たい。

アイスが溶けても炭酸が抜けても夏はまだ続く。グラスに注がれる美しい夢をまた一緒に見つめて味わえる日まで、クリームソーダを愛する友人を静かに想っている。何も出来ない歯痒さに溺れかけながら。



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