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愛と感謝を18年分、嵐の5人に伝えたかった

結成20年記念の展覧会があまりに素晴らしく、本記事とは分けて書いた。

改めて、私の人生に寄り添い続けてくれた"生身の偶像"との話を綴らせて欲しい。これは足掛け18年分の弔いだ。


2003年の1月。インフルエンザで学校を休んでいた小学5年生の私の目に飛び込んできたのは、初主演ドラマ『よい子の味方〜新米保育士物語〜』の番宣をしていた櫻井翔の笑顔。ドラマを見始め、主題歌を披露する歌番組もチェックし、私は「松潤」しか知らなかった嵐を気にするようになった。

周りの誰もまだ好きじゃないものを好きになりたくて、アイデンティティが欲しくて「嵐を好きになろう」と決めた。これは受動的に恋に落ちた訳ではなく、能動的に好きになりにいったのだ。

この恋を正解にしたかった。

小学6年生の夏、初めて買ったCDが3rdアルバム『How's it going?』。これが私にとっての「音楽」との出会いだった。ジャンルレスに散りばめられた楽曲たちに興奮が止まらなかった。

"刻まれた想い出が騒ぎ出す"
(PIKA★★NCHI DOUBLE - 嵐)

小学校を卒業する年、櫻井翔が慶應大学をストレートで卒業した。彼が紡ぐエモーショナルな言葉の数々を自分にも重ねて、いつかこう思える様に大学まで行きたいと思った。嵐史上で一番売れなかったシングル曲が今でも一番好きな曲になった。

中学1年生、当時流行っていた巨大ファンサイトのBBS(!)で全国のファンと交流し、逃げ場の無い学校生活のストレスを慰めていた。普段の生活では嵐を好きな人は私しかいないのに、全国にはこんなに沢山ファンが居るのかと思うと早くそちらの世界に行きたくて堪らなかった。

中学2年生、ギターに興味を持ったのは二宮和也の影響だ。アイドルが自分で作った曲を歌っているなんて最高にかっこいいと思った。亡くなった祖父がめちゃくちゃ喜んで自分のギターを貸してくれたのだけど、ごめんね、孫はニノが好きなだけだったんだ…。この頃「自分の紡ぐ言葉で仕事をする」という夢が生まれて、その為に何とか生き延びた。いろんな作詞家さんのことを調べた。自分の言葉で歌うより、他人に、誰より嵐に、歌って欲しかった。

ファンクラブに入らせてもらえず、何度かコンサートに行けなかった場面を悔しさと共に覚えている。中学2年生の冬、大野智と櫻井翔のソロツアーがあった。櫻井翔が地元に来ていたその日は英検の受験日で、めちゃくちゃ泣いた覚えがある。行ける訳でもなかったのに、行かせてもらえなかったと親を恨んだものだ。

中学3年生、初めて友人と子供だけで観にいったのが、櫻井翔の単独初主演映画『ハチミツとクローバー』だった。まだ見ぬ大学生活の切なさと甘さに憧れながら悶絶し、大学受験頑張ろう、と改めて思ったものだ。

高校1年生、せめてコンサート会場に一度行ってみたくてグッズ目当てに向かってみた。道中でダフ屋に声をかけられた。応じてはいけないと知っていたので堪えたが「チケットあるよ○万円だよ」「要りません」「そうかぁ、そうだよね、学生さんでしょ? お金無いよね」みたいなやりとりが本当に悔しかった。1つくらいグッズを買って、バスがあるとも知らず遠い道のりをとぼとぼ帰った記憶がある。

高校2年生、10周年くらいから事務所に推され始め、嵐はどんどん遠くなった。私も手を伸ばすのを諦め、邦楽ロックバンドに夢中になっていった。テレビは見るけどWSをいちいち録画なんてしないし、ラジオも地方だからほぼ聴けずに諦める。だけど東京に行ったらこの状況が変わるかもしれない、抜け出せるかもしれないと思った。まだ彼らを好きで居たかった。

高校3年生、東京の大学を受験した。

英語を活かした仕事に就きたい一方、食糧問題に関心があった。二宮和也がCMのナレーションをしていた「WFP(世界食糧計画)」がまさにドンピシャなのでは?と思い、大学に入りたての頃は国連や外務省に勤めたいと思っていたが現実を知り一瞬で諦めた(笑)。

いざ大学に入ってみても結局ファンクラブに入るほどの情熱は失っており、ドラマも観ないし、アルバムだけを毎年買うくらいで落ち着いてしまった。「嵐? 昔好きだったよ」くらいの立ち位置に収まる人たちのひとりになってしまった。住んでいた町が大野智の地元の近くだったり、櫻井翔や松本潤が近所でドラマを撮っていたり、相葉雅紀の実家の中華料理店に行ってみたりしたけれど、勿論会うことなんてなかった。

しかし大学4年生、私は再び彼らに救われた。

自己も企業も分析が甘く早々に持ち駒を失くした私は、彼らが関わる会社を調べて片っ端からエントリーを確かめた。ひとつ、ダメ元で調べたら二次募集にまだ間に合う状況だった。今までが嘘の様に面接やグループディスカッションをとんとん拍子でこなし、めでたく新卒で入った会社は、嵐の存在があったから好きになった会社だった。入社以来、道が交わることは無かったけれど、彼らと関わった上司の元で働くことができた。


嵐は国民的アイドルとして誰もが認める「トップ」になっていた。2004年の24時間テレビで相葉雅紀が「トップになりたいって夢絶対叶えようね」と涙ながらに手紙を読んだ時、「トップになりたかったのか!!」と心底驚いたものだ(当時は深夜番組でゆるゆるな様子ばかり見ていたのでそんなにギラギラしてると思っていなかった)。だからこそ、どんどん高みに上っていく彼らは永遠に存在するのだと信じて疑わなかった。脱退も活動休止も無く、5人が5人のまま居てくれると当たり前のように思っていた。

活動休止の知らせが出た時は、悪い冗談だと思った。

ただ、大野智がお休みしたいと言ったことも、話し合いを重ね4人でなく5人で在り続けることを選んだ彼らのことも、すんなりと受け入れられた自分が居た。嵐が5人の嵐で居続けることが何より尊いと思った。むしろ活動休止を発表してなお2年も活動しなければいけない彼を不憫に思ったし、今でもテレビで見る度に大変だなと思っている(最後の時間と思えば気持ちも違うのだろうけど)。オリンピックなど大人の事情があり、嵐の代わりが居ないのは解るけれど、彼だけは休ませてあげてほしいと切実に祈ってしまっている。


要所要所で前に進むきっかけをくれた嵐は、間違い無く私の人生に必要な存在だった。彼らのおかげで生かされたと心から言える。

この先の私の人生で、素敵な人、憧れる人、応援したいと思える人にはきっと沢山出会える。それでも嵐の様な、人生に寄り添う、代わりの無い存在にはきっと出逢えない。だからこそいつまでも愛を抱き続けたいし、個々の活動が続くのなら応援していたい。演技を続けてくれるならドラマも観るし映画も観に行く。キャスターを続けてくれるなら月曜23時は日テレ系列局で固定するし、選挙に出るなら1票入れる(笑)。そして一旦足を止める人も進み続ける人も、少しでも心安らかに過ごして欲しい。


どんなに想っても綴っても完全な形で届くことは無いし、顔を合わせることなど無いと解っている。それでもどうしても振り返り、残しておきたかった。

愛と感謝を18年分、嵐の5人に伝えたかった。



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