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さびしいと言わんばかりのヒガンバナ

「多種多様な生き方を認めて欲しい」と声が上がる世の中、終え方だってそう在っても良いはずなのに。別れに直面した時、その意味を考え、ハテナを浮かべてしまうのだ。

"まだ若いのに、あんなに人気があるのに、どうして?"

その人の孤独はその人にしか解らないし、その人の気持ちはその人にしか(或いは、その人でさえ)解らないものだ。生きたい人が生きられず、死んでほしくない人が死に、死にたい人が死ねない。ずっと生きたい人、ずっと死にたい人、生きたいと死にたいを行き来する人。理由なんて(山ほどあって)ひとつも(選べ)ない。

私自身は長生きしたい訳でもないが、死にたい気持ちを抱き続けている訳でもない。自分には死ぬ勇気が無い。終わらせたいと思うことが無いとは言わないが、面倒さと、未来への期待が勝ってしまう。もう少し呼吸を続けたら、何か世界が変わるかも……そうやって信じ続けて幸せになった経験が何度もあるから、諦めることが出来ていない。

名が知れた存在だからこそ人々は関心を持ち、真偽不明の"連鎖"などと口にするのだが、名も知らぬ複数の魂が日々自ら旅立っていることも見過ごしたくはない。命に大小があってはならない。誰しもが大切にされる存在であれたら良いのに。


他人に、自ら人生を閉じては駄目だと言う権利なんて無い。パートナーにも友人にも親にも、誰にだって無いのだ。何も知らないくせに、と散らばる言葉を苦々しく見つめる。

それでも矛盾するように、好ましく思う人たちには生きていて欲しいと残酷にも願ってしまうのだ。それが隣に居る人でも、話したことすら無いような遠い存在でも。人間のエゴが人間を殺し、生かしていく世界のことわり。

狂ってしまった歯車が軋み、その悲鳴に耳を塞ぐ。耐えきれなくなった時、その糸が途切れる前に、救いの手を差し伸べられるのか。或いはその手を、握り返せるのか。答えの出ない問いを子守唄に、うなされる予感のまま目を閉じる。稀有な才能をかき鳴らした、同い年の彼女へ手を合わせて。




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