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変えようとすると立ちはだかる壁

「子どもが主役になる授業づくり」を自分だけですすめるのもいいのですが、わたしは実践し始めた当初、研究主任という立場上、校内全体で取り組めるように広げる必要がありました。
また、学年が4クラスあること、教室がオープン(壁のない教室)になっていることもあり、おのずと”自分だけ”ということになりづらい環境でした。

自分以外の教師に広めるということになると…
それぞれ「変えたい」「変える必要がある」と感じる熱量は様々。熱量が少ない教師にとって「変わる」「変える」ということは大きなストレスになります。しかも、現状に不具合が生じていないと思っていたらなおさらです。さらに、多忙感極まる学校という環境の中では、新しいことや何かを変えるということを歓迎しない空気も否めません。

今回は、広める上でブレーキになることや、進める上で向き合わなくてはいけないことをまとめます。それが、壁です。
校内で全ての教師が、全ての壁を乗り越えるのは難しいし、わたし自身も越えられなくて、後回しにしたり、逃げたりしているものもありますが、続けていると繰り返し似たような言葉や状況になるので、まとめてみようと思いました。

新しいことに対する「ずるい」という気持ち

以前投稿した記事にも書いたとおり、
国語の対話から始めた研究だったのですが、わたしはまず「座席」を変え、クラスで完結する「ルール」を子どもたちとともに考えるという、見えるところから変えることにしました。その「見える」ということに大きな価値があるのですが、それが壁になりました。
わたしが担任するクラスでは、何度も話し合い合意形成を行ったことも、外からはその結果しか見えません。それが、他のクラスの子どもの目に止まり、「〇組だけずるい」「それはルール違反じゃないか」となったのです。
その具体的な内容は、教室内に設置した「リラックスコーナー」でした。そこにクラスの子が持ってきてくれた「ドンジャラ」「オセロ」が標的になりました。”学習に必要のないものはもってこない”という生活指導上のきまりに違反する…ということです。わたしは、持ってくることで起こりうる心配なこと、そのきまりがある意味を子どもたちと話し合い、その上で必要と判断して「持ってきたい」という気持ちを尊重しました。ところが、その経緯は見えません。うらやましいと思うのであれば、それを自分のクラスに置き換えて、自分の周りを変えるエネルギーにすればよいのにと思いますが、そのクラスの状況が厳しかったこともあり、わたしのクラスの方を変えることにしました。
簡単にいうと、教師が「変えよう」と提案して変えたら「やっぱりやめよう」という結果になってしまったので、わたしから素直に謝りました。子どもたちと信頼関係ができていたことや、大人な考えの子どもたち、きっと完全に納得していたわけではないと思うのですが、「仕方ないよね」と受け入れてくれました。
わたしは担任として職員室で相談すればよかったのでしょう。ただ、当時はそういう今まで起こりえなかった状況を望んでいたのだと思います。実際に、考えるチャンスになるなと実感しました。

わたしにはできないという、根拠のない無力感


自分の実践を広めるために、日常的に話をしたり、教室・授業を見てもらったりします。すると、「〇〇先生だからできるのよ」という言葉が返ってきます。本人はほめるくらいの気持ちで言っているのでしょうが、わたしには謙遜しているフリして、「No thank you」に聞こえる。同じようにやれって言ってないのにと、こちらが無力感を感じてしまいます。
やってもいないのにできないなんて言わないでほしいな~と何度も何度も思いました。

続いて、授業で子どもを主役にしようとすると立ちはだかる壁です。これは、もう完全なる「あるある」で、教師の未知や変化に対する不安によって出来上がっているものです。校内だけでなく、他校との交流、所属の市区町村での研修などで何度も出てきた内容です。

クラスや学年が落ち着いていないとできない


これは、さっきの「わたしにはできないという、根拠のない無力感」に似ています。逃げの姿勢があふれている。
わたしは、「子どもが主役になる授業」はいいクラスだからできるという、順序のある実践・考え方ではなくて、クラスの人間関係、教師と子どもの関係をつくっていく中にできあがっていくものだと思っています。さらに、実践すると、教師としての自分の存在が少しずつ薄れていくことが分かってきます。子どもたちが「~したい」と考え、教師不在で子どもたちが自立していく過程で、おのずとクラスは落ち着いていくのだから、~~だからできないはないと考えます。


「教えなくてはいけないこと」が多すぎる


教師が、その名の通り「教える人」であることから、授業が文字通り「授ける」というスタイルである以上、こういう考えの壁は変わらずあり続けるでしょう。なにかよい呼び名が出来上がらないかな…
例えば、2年生では、算数で九九を教える。4年生では、都道府県の漢字を覚える。
と、学習指導要領に記載され、それに準じた教科書を使って授業が行われている。もうそれは一教師が、一学校が、どうにかできることではないので、その決められた枠の中でどうやっていくかを、教師が考えることが大切だと思います。令和3年答申で現在の学習指導要領が「コンピテンシー重視」「資質・能力の育成」を大切にしているとされていることを、しっかり理解すること。そして、教師が知識を授ける部分と、子どもが主役になって考える部分を分かって授業をつくることが大切ではないでしょうか。

標準時数を大幅に超えてしまう


「子どもが主役になる授業づくり」を進めると、1単位時間の45分間の限界を感じます。だから、大きく単元全体で授業を考える。しかし、それでも教科書に8時間程度と書かれているものが、10時間程度になってしまう。これをすべての授業でやっていたら、時数のバランスは崩れてしまうし、単純に終わらない。これは、持続可能ではないとなるのです。
しかしこの状況は、まだまだ教師も子どもも「初めまして」の転換期だから起こることだと思います。わたしは、この実践に取り組み始めて5年目になりますが、なにより子どもの変化を感じます。5年前は、授業に関することや、学級づくりの一部を子ども自身が「考える」「選ぶ」「決める」機会も考え方もほとんどありませんでした(少なくともわたしは)。そこから、少しずつ子どもにオーナーシップを渡していくと子どもが「考えていい」「意見を言っていい」と変わっていきました。そのマインドが少しでも広がっていると、クラスや学年、担当する児童が変わっても着実に子どもは変化していると感じます。
すると、先の授業時数の問題は、一から説明していたものが省かれていくし、学び方を知っている子どもたちは自分なりの解をもって取り組む。すると、5年前に担任していた5年生よりも、いま担任する3年生の方が学びがスムーズに進んでいくという状態になります。


以上、「変えようとすると立ちはだかる壁」をまとめてみました。
この壁の乗り越え方に正解はないと思うのですが、共通点は、ずばり!

やってみるしかないのよ!


です。やる前から、あーだこーだ言ってないでやってみて!挑戦して!ということです。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございます!感謝です!