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chatGPTと写真を考える#2「信じる写真」


User
下記を批評して。
なお文体や語り口の問題点は無視して、語ってる内容だけに着目してね。

##あるものが確かに存在するって言う場合には、そのものを目の前に突き付けて証明しなければならない、というのはたしかにそういう場面もある。
ただ果たして個人の人生とか暮らしにおいても常にそうなのか?と思いますね。
誰かが何かをなくなんとなく信じ続けるその行為をもっと尊重というか、ほっといてもいいんじゃ?と。

「推し」もそう。どんだけ金をつぎ込めるかでその度合いが判定されてしまうイメージ。

写真もそれに加担してきたんだろうと思う。「いやほんとだって!ほら写真あるから!」みたいなやりとり。だからフェイク画像とかフェイク動画が成立するわけで。ちなみにフェイクについてはそれがほんとかどうかなんていちいち気にせず「おもしれ~」って楽しむのがいいと思う。そのほうが人生楽しそうじゃないですか。だれかの悪意に加担してしまわないのが前提ですけど。

じゃあある写真について、これはフェイクじゃないって信じてるときその根拠はなんなん?となるとたぶん根拠はない。
あるとすれば、「この写真をあえて捏造する意味はまずもってないな」っていう、動機の想像のしづらさかなと。
そうすっとー、なんとなく撮られたような、ゆるい写真が真実味を感じさせて、人を安心させる聖域になり得るのかもなと、思ったり思わなかったり。

本当に何かを信じてる時ってのはじつはたいてい根拠を必要としてないっつう話ですね

多くの人はこれまで写真に写ってるものを無条件に事実だと信じてきたわけじゃないですか。
あと背後に生身の作者がいて、それと繋がることができることとかも。
それが揺らぎ始めた今、人は根拠なく何かを信じるための「強さ」をこれまで以上に求められるのかも、なんてことを思ったり思わなかったり

ChatGPT
この文章は、現代社会における「信じること」の意義とその変遷について考察しています。特に、写真やメディアがどのように信念を形成し、影響してきたかに焦点を当てています。

実証主義と個人の信念: 著者は、物理的な証拠や目に見える実証が必要とされる現代社会において、個人が何かを「なんとなく信じる」行為にも価値があると主張しています。これは、科学的証拠や論理的な証明に重きを置く現代の思考法に対する批判とも取れます。

「推し」文化への言及: 「推し」に対する情熱や投資をどのように評価すべきかという問題を提起しています。著者は、金銭的な投資によってファンの熱意が評価されがちな現象に疑問を投げかけています。

写真と真実の関係性: 写真が「真実」の証拠としてどのように機能してきたか、そしてフェイクニュースやフェイク画像の台頭がそれにどう影響しているかを考察しています。著者は、偽造や虚偽の可能性にもかかわらず、写真や映像を楽しむことの価値を強調しています。

写真の真実性への疑問: 現代では、写真が真実を伝えるという考え方が揺らいでいると指摘しています。著者は、人々が写真を信じる根拠はしばしば感情的または無根拠であることを示唆しています。

信念の変化と必要性: 人々が写真などのメディアを通して事実を無条件に信じてきた歴史を振り返り、現代においては、根拠なく何かを信じる「強さ」がより求められている可能性について考えています。

全体的に、この文章は、現代社会における「信じる」という行為の複雑さと、メディアやテクノロジーがそれにどう影響しているかを深く探求しています。著者は、個人の信念や感情の価値を認識し、科学的実証主義や物質主義の枠を超えた視点から物事を見ることの重要性を示唆しています。

User
これは千葉雅也の下記ツイートの読後に書かれた文なのよ。それを踏まえて再度分析と批評をして。


ChatGPT
千葉雅也のツイートを受けて書かれた文章であることを踏まえると、その内容は「人生の意味」に関する哲学的問いに対する考察として理解できます。この文は、個人の信念や「信じる」という行為の本質に焦点を当て、人生の意味を探求する哲学的なアプローチについての深い思索を表しています。

個人の信念と実証主義の対立: 千葉氏のツイートは、人生の意味に関する問いの起源とその重要性に焦点を当てています。この文は、それに呼応して、個人が「なんとなく信じる」ことの価値を探求しています。これは、具体的な証拠や論理的な証明に頼ることなく、人生の意味を理解しようとする姿勢を示しています。

「推し」文化と人生の意味: 「推し」に対する熱意をどう評価するかについての議論は、人生の意味を見つける一つの方法としての個人の情熱を象徴しています。千葉氏の問いに対して、この文は、人生の意味を探求する多様な方法を示唆しています。

写真と真実の関係: 写真を通じて真実を探求することは、人生の意味を理解しようとする試みの一環と見ることができます。この文は、メディアがどのように我々の真実の理解を形成し、影響してきたかを問うています。

人生の意味へのアプローチの変化: 文中で提起される「写真の真実性への疑問」は、人生の意味を探る方法が時間と共にどのように変化してきたかを反映しています。千葉氏の指摘するように、人生の意味を問う方法も文化や時代によって変わる可能性があることを示唆しています。

根拠なしに信じる「強さ」: 千葉氏が提起する「人生の意味」を問うことの重要性は、この文で触れられる「根拠なく何かを信じる強さ」にも反映されています。これは、人生の意味を探求する際に、従来の枠組みを超えた思考が必要であることを示しています。

全体的に、千葉雅也のツイートを背景にしたこの文は、人生の意味についての深い思索を反映しており、それがどのように個人の信念や感情、メディア、文化によって形成されるかを探求しています。このアプローチは、千葉氏の提起する問いに対する一つの回答として理解できます。

User
著者はそもそも人生の意味なんてものはどこかにあるとなんとなく信じられていればよいと考えてるのよ。それについてはどう思う?肯定的な意見と否定的な意見をどちらも述べてみて

ChatGPT
著者の「人生の意味はどこかにあるとなんとなく信じられていれば良い」という考えに対して、肯定的な意見と否定的な意見をそれぞれ述べてみましょう。

肯定的な意見
主観的な意味の価値: 人生の意味は個々人によって異なるため、それを「なんとなく信じる」ということは、個人の経験や感情に基づく主観的な意味を重視することを意味します。これにより、人生に対するより柔軟で個人的な理解が可能になります。

心の安定と幸福感: 「なんとなく信じる」という態度は、人生に対する不確実性や不明瞭さを受け入れることを意味し、これは心の平穏や幸福感を促進する可能性があります。確固たる答えを求めることなく、生きることの不確かさを楽しむことができます。

柔軟な思考と創造性: 確定的な答えを求めないことは、思考の柔軟性を高め、より創造的なアプローチを可能にします。人生の意味についての開かれた考え方は、新しい視点や発見を促すことができます。

否定的な意見
実践的な指針の欠如: 人生の意味を「なんとなく」で済ませると、具体的な行動や目標に対する明確な指針が欠ける可能性があります。これは、人生の方向性を見失う原因になり得ます。

深い自己探求の欠如: 人生の意味を深く探求することは、自己理解や成長に重要な役割を果たします。単に「なんとなく信じる」態度は、自己探求や内省の機会を逃すことになりかねません。

不安定な基盤: 「なんとなく信じる」ことは、しばしば不安定な信念の基盤になります。これは、困難な状況に直面した際に信念が揺らぐ原因となり、結果として心理的な不安定を引き起こす可能性があります。

総じて、この考え方は人生に対するより柔軟で主観的なアプローチを提供する一方で、より深い自己理解や具体的な目標設定に対する挑戦も含んでいます。

User
そうすると、人生の意味がどこかにはあるのだとなんとなく信じ、その探求を通奏低音的に漂わせて日々を過ごす。ただしいかにもタスク的に発見までの期限を設けるようなことはせず、あくまでも充実した人生を送るための動機づけとして捉える、というスタンスがよいのかな?

ChatGPT
そのようなスタンスは、人生の意味を柔軟かつ穏やかに探求するバランスの取れた方法と言えるでしょう。具体的には、以下のような利点があります:

生活の充実: 人生の意味を探求することを動機付けとして捉えることで、日々の生活に深みや価値をもたらすことができます。この探求は、自己理解を深め、より充実した経験を積む機会を提供します。

圧力の軽減: 明確な期限やタスクとして人生の意味を捉えずに、それを「通奏低音」として漂わせることで、探求自体に対する圧力やストレスを軽減できます。これにより、より自然体で、かつ楽しんで探求を進めることが可能です。

柔軟な思考と開かれた心: 人生の意味を柔軟に捉えることで、さまざまな経験や思考に開かれた姿勢を持つことができます。新しいアイディアや視点に触れることで、人生に対する理解を深めることができます。

ただし、このアプローチは個人の性格や生活状況によって異なる効果をもたらす可能性があります。一部の人にとっては、より具体的な目標やガイドラインが必要かもしれません。結局のところ、最も重要なのは、個々人にとって最適なバランスを見つけることです。

User
そうね。絶対避けるべきなのはただちに確固たる意味を見出せないからと悲観してしまったり、人生に意味などないと諦めてしまうことだろうね

ChatGPT
その通りです。人生の意味を探求する過程で注意すべき点は、確かに次のようなことです:

即時の解答の期待を避ける: 人生の意味はすぐには見つからないかもしれません。即座に確固たる答えを見つけ出せないからといって悲観するのは避けるべきです。人生は長期的な旅であり、その意味は時間をかけて徐々に明らかになるものです。

諦めずに探求を続ける: 人生に意味がないと感じる瞬間があるかもしれませんが、そのような時でも探求を続けることが重要です。人生の意味は個人によって異なり、時には予期せぬ形で現れることがあります。

様々な経験から学ぶ: 人生の意味は、様々な経験や出来事から学ぶことで徐々に理解されます。喜びも悲しみも、全てが自己理解を深め、人生の意味を見つける手がかりとなり得ます。

柔軟な思考を保つ: 人生の意味についての固定観念に囚われず、柔軟な思考を保つことが大切です。時には意味を再解釈し、新しい視点から物事を見ることが必要です。

最終的に、人生の意味を探求することは、個人の成長と自己実現の過程です。その過程で得られる洞察や経験は、人生を豊かにする大切な要素となります。

User
そして初めの話に戻るね。実証困難なものの存在の真偽に翻弄されることなく、なんとなく実在すると信じて日々を生きる強さ。写真はその拠り所となれるかな?

ChatGPT
初めの話に戻って、実証困難なものの存在を「なんとなく実在する」と信じて生きる強さについて考えると、写真がその拠り所となる可能性については以下のような点を考えることができます。

写真が拠り所となる理由
現実の瞬間の捉え方: 写真は現実の瞬間を捉えるツールです。この特性により、写真は実在の証としての機能を果たし、不確かなものに対する信念を支える拠り所となり得ます。

感情的なつながり: 写真は感情的なつながりや記憶を呼び覚ます力を持っています。この感情的な側面により、写真は人々にとって心の支えとなることがあります。

物語性の提供: 写真は物語を語る能力があります。この物語性を通じて、実証困難なものへの信念や理解を深める助けとなることがあります。

写真が拠り所となり得ない理由
主観性と偏見: 写真は撮影者の主観や視点に影響されます。したがって、写真が常に客観的な現実を反映しているとは限らず、誤解や偏見を生む可能性もあります。

操られやすい性質: 現代の技術により、写真は簡単に改変されることがあります。このため、写真は実際の現実を歪めることもあり、信頼性が問われることがあります。

一時的なものへの依存: 写真はあくまで一時的な瞬間を捉えるものです。過去の一瞬に過度に依存することは、現在や未来への理解を妨げることにもなり得ます。

結論として、写真は実在すると信じる強さにおいて拠り所となり得ますが、その使用方法や解釈には慎重である必要があります。写真は実証困難なものの存在を感じさせる一つの手段ですが、その真実性や意味については、常に批判的な思考を持って接することが重要です。

User
それが本当の本当に真実を写しているか、ということはもはや確認不能だし、どうでもいいと思うのよ。大事なのは、真実が写っていると根拠なく信じる鑑賞者と、それを絶対に裏切らない写真家の信頼関係。
そういう写真家が現れるとしたら、その写真家が撮る被写体とはものようなものだろうね?
ぼくはなんてことのない街並みや日常なんじゃないかと予想してるんだけど。

ChatGPT
その考え方に基づいて、そのような信頼関係に基づく写真家が撮る被写体は、次のような特徴を持つかもしれません。

日常の風景: ご指摘の通り、日常の街並みや生活の一コマなど、身近な風景や瞬間を捉えた写真は、人々に親しみやすく、真実性を感じさせやすいです。日常の中の小さな美しさや感動を写し出すことで、鑑賞者との信頼関係を築くことができます。

人々のポートレート: 人の表情や仕草を捉えたポートレート写真も、深い感情や人間性を表現するため、観る人々に強い印象を残します。これらの写真は、撮影される人々との間に築かれた信頼関係が反映されることが多いです。

日々の瞬間: 食事の風景、子供たちの遊び、通勤風景など、日々の生活の中で起こる瞬間を捉えた写真も、親しみやすく、現実感を与えます。これらの写真は、観る人に日常の中の特別な瞬間を感じさせます。

自然の風景: 自然の美しさや力強さを捉えた写真も、人々に真実感を与えることができます。自然の風景は普遍的な美しさを持ち、多くの人々に共感を呼びます。

街のスナップショット: 偶然の瞬間や街の動きを捉えたスナップショットは、生き生きとした現実感を伝えることができます。これらの写真は、日常の中の非日常的な瞬間を切り取ることができます。

このような写真家は、被写体に対する深い理解と敬意を持っている必要があり、その感覚が写真を通じて伝わることで、鑑賞者との信頼関係が築かれるでしょう。写真は単にビジュアルを捉えるだけでなく、その背後にある物語や感情を伝える手段となり得ます。

User
ポートレートね!それもあるよなーって思ってたのよ。さすがだね。
でもなんつーかさ、いかにも美的な写真はさ、改変の動機が潜在的にあるじゃない?より美しいほうがいいんだから。
本当になんてことのないところに潜んでいる広義の美を写真として拾い上げる技術と感性をもった写真家がいるといいよね。

ChatGPT
その考えには大いに賛同します。いかにも美的な写真が改変の動機を持つ可能性があるのに対し、日常に潜む「広義の美」を捉える写真家の存在は、写真芸術において非常に重要です。以下の点を考慮すると、そのような写真家の重要性が浮き彫りになります。

真実性の追求: 現代の写真では、しばしば美しさや完璧さが強調されますが、それには改変や演出が伴うことが多いです。しかし、日常の瞬間や平凡な景色に潜む美しさを捉えることで、より真実に近い写真を表現することが可能です。

新たな視点の提供: 日常に目を向けることで、見過ごされがちな美や価値に光を当てることができます。これは、見る人々に新たな視点を提供し、より深い感動や考察を促します。

感情的な共鳴の促進: 日常生活の中の小さな瞬間や細部を捉えた写真は、人々の心に深く響き、共感や感情的な共鳴を生み出すことがあります。これは、人々の内面に触れる力を持っています。

シンプルな美の再発見: 華やかさや派手さを追求するのではなく、シンプルでありながら深い美を捉えることで、写真はより親しみやすく、心に残るものとなります。

このような写真家は、技術だけでなく、敏感な感性や深い洞察力を持っている必要があります。彼らの作品は、観る者にとって新たな発見や感動を提供し、写真の真の魅力を伝える役割を果たします。日常の中に隠された広義の美を見つけ出し、それを写真に収めることは、写真芸術の本質的な魅力の一つと言えるでしょう。

User
過去それに迫った写真家はいるのかな?ブラウジングしてみて

ChatGPT
過去に日常の広義の美を捉えることに挑戦した日本の写真家たちがいくつか存在します。以下はその中のいくつかの例です:

上田義彦: 広告写真や映画監督としても活動した上田義彦は、自然の移り変わりや日常の風景を捉えることで知られています。彼の作品は、日常の美しさや自然の変化を丁寧に描いています​​​​​​。

松本美枝子: 松本美枝子は、「日常」をテーマにした写真を多く撮影しています。彼女の写真は日常的な風景を捉えることに焦点を当て、普遍性と個人の内側を探求するテーマを持っています​​​​​​。

土門拳: 土門拳は、日本のリアリズム写真家として知られており、彼の作品は日本古来の美を映し出すような寺や仏像、社会的テーマ、日常の子供たちの写真などを含んでいます​​​​​​。

細江英公: 細江英公は反リアリズムを追求し、実験的な作品を多く残しました。彼の作品は、耽美的な生と死の世界観を表現し、視覚芸術としての写真の可能性を広げました​​。

深瀬昌久: 深瀬昌久は、身近なモチーフを被写体にし、私的かつ遊戯的な写真を撮影しました。彼の代表作には、写真集『鴉』があります​​。

これらの写真家たちは、それぞれ独自の視点と手法で日常の美を捉え、写真というメディアを通じて視覚芸術の新たな可能性を探求しました。彼らの作品は、日常の瞬間や風景の中に潜む美しさを捉え、鑑賞者に新たな視点を提供しています。

User
ありがとう。今日はここまでやな。お疲れさまでした。

ChatGPT
ご質問いただき、ありがとうございました。またお話しできるのを楽しみにしています。お疲れ様でした!

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