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【小説】菊理、骨折れなり 下

筒城岡は、大王のいる高津宮から北に三里の所にある。元々は豪族である葛城一族の屋敷を改築したもので、屋根は全面茅葺。それが大小八つ塀に囲まれており、皇后の気まぐれで移り住んだとは思えない豪勢さであった。
「磐井姫様は奥の大広間にいらっしゃいます」
 屋敷内の案内のため目の前に立つ下女は、どこか敵を見つめるかのような鋭い目をしている。ちらほら横切る下女たちも、仕事中とはいえ必要以上に素っ気ない。己は招かれざる客であると、必要以上に教えてくれていた。
「的臣口持でございます」
 大広間の戸越しに張った声は、己でも震えているのが伝わる。
〝連れ戻さねば、死〟
 この筒城岡に訪れる間に何度も己に言い聞かした。もう心の芯から覚悟したはずなのに、いざその場に立つと、緊張というものが纏わりついてくる。
「入れ」
 閉ざされた戸から高らかな高貴な女人の声が聞こえてくる。
 口持臣は一つ、小さく吐息を吐いた。武内宿祢様のあの目は本物であった。磐井姫様を連れ戻さねば、己は間違いなく命はないだろう。それで誰が特をするかなどは関係ない。役目を果たせねば、責任をとる。それが国家に仕える役人の宿命だ。国に仕えるとは、そういうことだ。
「失礼致しまする」
 戸を開き、磐井姫の広間へ力強く踏み入れる。
〝連れ戻さねば、死〟
覚悟と胸の鼓動が頂点を迎えた時、ふと、陽代が衣服と共に短剣も入れていたことを思い出した。
「もしもの時は、もう一つ頂こう」
 少し、笑みがこぼれる。
 
 
「お初にお目にかかります。大王の使者として参りました的臣口持でございます」
「口持臣か、よく参った。お主の妹にはよく世話になっておる」
「勿体なきお言葉でございます」
「して早速じゃが、わらわは高津宮には帰らぬよ?」
「………」
 広間は、一瞬にして静寂を生んだ。中庭の水音が良く響く。
「それは、何故でしょうか?」
「お主も知っておろう。夫が憎いからじゃ」
 口持臣は少し、左の頬を吊り上げる。
「夫………。お言葉でありますが、そのように思うからいけないのではないのでしょうか?」
「どういうことじゃ」
「まだお子を作れるかどうかも分からぬ皇后を差し置いて、側室を招き入れ、挙句の果てにその側室の姉まで娶ろうとしている。大王は、夫としてみるならば下の下の御方でございます」
「国家の役人がそのようなことを言っていいのか?」
「しかしです。夫ではなく、大王として見るならばいかがでしょう。大王は、聖人君主仁徳天皇です。あの御方の側にいれば、きっと民の支持を集め、大きな墳墓を拵える皇族になれるでしょう」
「結局、何が言いたい」
「私は別に、夫婦として高津宮にお連れしようとしているわけではないのです。ただ、形だけの、官位だけの皇后になればいい。それならば、今のような屋敷に閉じこもるだけの生活よりも遥かに富も幸福も手に入るのではないでしょうか?」
「………」
 磐井姫は暫く黙りこくった。この無言の時間は、相手の心が揺らいでいる時間であると、陽代に教わったことがある。その教え通り、ただただ、黙りこくる磐井姫をじっくり見つめていた。
「わかった。ではこうしよう」
 磐井姫は暫くの静寂の後、不敵な笑みとなって。
「国依姫よ」
 と、ぱんぱんと手を叩く。
「はい、ただいま」
 慌てた様子で広間へと入ってきた妹は、兄へ深々と頭を下げる。大王の使者としての待遇であった。
「主ら兄妹は、仲はよいか?」
「わ、悪くはないかと………」
 口持臣は動揺した口調で返答する。皇后と大王の使者が謁見する間において、妹とはいえなぜ下女を呼ぶのか、真意がわからないでいた。
「そうかそうか。それはいいことじゃ」
 磐井姫はわざとらしく頷くと、にやけ顔となり、
「口持臣。わらわはお主の言葉で少し心が揺らいだ」
「では………」
「じゃが、問題があっての。もし本当に高津宮に戻るとなると、宮にも多くの下女がおるであろうから、筒城岡の下女を少し削なればならぬ」
「………。と、言いますと?」
「高津宮に戻った暁には、お主の妹に御暇を与えようと思う」
 広間にまたもや不穏な静寂が訪れる。妹の国依姫は、今まさに自分の首が宣告されたにも関わらず、身分を弁え一言も声を発さない。それだけで国依姫がよくできた下女であることはわかる。
「何故、そのような意地悪を………」
「意地悪ではない。お主の覚悟が見たいだけじゃ。妹の勤め先を守るか、己の名誉を守るか」
 磐井姫はにやけ顔の眼を細め、口持臣を見透かすようにじっと眺めた。その目には、寸分の狂いもない。本気であった。
「………。少し、考えさせて頂きたい」
 口持臣は弱々しい口調を残し、この場から立ち去るしかなかった。
 
            *
 
「私の御暇のことはいいですから、どうか兄様は磐井姫様を連れ戻すことだけに専念してくだいさい」
 筒城岡の表門で、妹の国依姫はどこか悲し気な表情で小さくお辞儀をした。
「いやしかし、我が家のような下級役人の家柄では一回御暇を賜れば、なかなか次の勤め先は決まらぬ。どうにかいいさ…くを………」
 妹の、鋭利のような目線に思わず言葉が詰まる。
「兄様は、命がかかっているのですよ」
「………。わかっておる」
 口持臣は、己の拳を強く握りしめた。
己の役目のせいで、妹にまで飛び火がいってしまった。そもそも、なぜ、磐井姫はあのような意地悪をなさるのか。大王が八田皇女や雌鳥皇女に現を抜かすのはあの性格のせいではないのか。それに、大王の皇后を連れ戻すというだけで、なぜ命まで駆けなければいけない。理にかなっていない。役人は、上の支持が絶対。そのようなことはわかっている。しかし、あまりにも理不尽。元々見向きもしないでいた事象が、少し政治に関係するやもと思った途端、何も言い返せない役人を脅してくる。大君も、皇后も、その側近も、やり方が卑劣ではないか。国家に尽くすとは、こういうことなのか。こんなことでいいのか。
「兄様?」
 無言のまま、眉間の皺を険しくする兄に国依姫は心配の表情をみせる。
「ああ、すまん。大丈夫だ。次の謁見までにいい方策を考えてくる」
「信じておりますが………」
「大事ない。いざという時は陽代に土下座して謝って、知恵を借りる」
「最初からそうしてください」
 妹に、多少の笑顔が浮かんだ。
 何も確証がないが、妹、妻。この二人がいるならば何でもできる。世の中には理不尽なことや不確かなことが溢れているが、この二人がいればそんなことはどうでもいい。ただただ、己の大切なもののために全力を尽くせばいいことであった。
 
「簡単なことではないか………」
 妹が屋敷内に戻った後、口持臣は表門を眺めながら不敵な笑みを浮かべた。
 
          *
 
 陽代は、元々は農家の娘である。幼少期は一日中、田畑の仕事の手伝いをして過ごしてきた。別に有力な農家というわけでもなく、毎日己らの食い扶持を稼ぐのがやっとの、とても国家の役人の妻になるような人間ではなかった。
 ただ、少し違ったのは、自分たちの村を見回る役人が身分などに捉われず、気さくに村の人々と話をしていることであった。
「陽代」
「どういう………意味ですか?」
「漢王朝の言葉で、太陽に代わるという意味がある。お主のヒヨという名前に当ててみた」
 しかも、学問をしてみたいという小娘のために、わざわざ木簡を持って直接指導もしてくれた。
 普通の役人とは違う、どこか不思議な雰囲気を纏うこの男と出会ったことが、陽代の唯一にして最大の転機であった。
「十七か。わしと同じだな」
「本当ですか?」
 同い年ということもあり、その役人とはすこぶる話があった。宮廷内で起こったことを面白おかしく話す、その必死な眼差しが、話以上に面白かった。
 不器用で、単純で、感情を抑えられない。それでも全力で、純粋で、一切手を抜かない。その姿勢が何よりも愛おしく、出来ればずっと傍にいたいと思うようになった。
「陽代………」
「はい?」
「わしは下級の役人だ。仕事は激務でなかなか帰れぬわりに、与えられる米はそこまで多くない。わしと共に暮らす者は、何かと苦労が絶えぬだろう」
 一生忘れないあの日も、いつもと変わらない全力の姿勢だった。
「それでも、お主がいい。わしと、婚儀を結んでくれ」
 胸がいっぱいで、なかなか返答が出来なかったのを覚えている。
 
 
目の前に、掘っ立て柱の梁が見える。古い農家の家には、窓以外にも所々、朝の光が差し込んでいた。
「あんたぁ、実家に帰って来たんなら仕事の一つでも手伝いなさいね」
「じゃらかし。今起きよう思ってたち」
 地元の田園風景は実家を出ていったあの時とちっとも変わっていない。よく二人で腰を下ろした田んぼの土手も、何も変わっていなかった。
「あんた、思ってたより衰えてないね」
 十月の農家は米作りが一折り終わり、一年で数少ない休息の時期である。陽代の家も最近は田んぼへ出張らず、来年の稲を束ねるための藁づくりをしていた。
「役人の妻も色々働くもんでね。手先は衰えないのよ」
 藁づくりの工程は、手が勝手に覚えているため頭を真っ白にすることができる。
「この作業なら、何も考えなくていいに」
「え?」
「何があったか知らんが、気が済むまでいりゃあいいかんな」
 母の目は、慈愛に満ちた優しい目であった。その優しさに、思わず涙腺が緩むのをぐっと我慢する。
 そこに、
「陽代さんは、いらっしゃいますか?」
 聞き覚えのある女子の声が、ぼろぼろの戸を叩いた。
「は、はい………」
 まさかと思い、戸を開けてみるとやはり目の前には義妹の国依姫が息切れしながら立っている。
「どうしたのですか、急に………」
「そ、それが………大変…なんです」
「とりあえず水を飲みましょう」
 井戸から組んだ水を一杯飲ませ、息を落ち着かせると、国依姫は神妙な面持ちとなって、
「兄様が、筒城岡の表門の前で土下座したまま、動かないんです」
「ど、どういうことですか?」
磐井姫との謁見が終わり、屋敷内の者は皆、口持臣は高津宮に戻ったのだと思っていた。
しかし翌朝、表門の掃除のため表へ出た下女は腰を抜かしてしまった。何と、口持臣は一晩中表門の前で土下座していたのである。
「な、なぜそんな馬鹿げたことを………」
「私にも分かりません。ただ、押しても引いても、一切土下座の姿勢を崩そうとしないのです」
 陽代は苦しそうな笑みで首を傾げる。
「もしかしたら………兄様は本当に命を懸けているのかも知れません」
「え?」
「どうせ責任を採るならと、最後の意地を見せているのかも知れません」
「………」
「陽代さん、もうあなたしか兄様を説得することはできないです。何を考えてるのか分からないですけど、どうか、一緒に筒城岡に来て下さい」
 
        *
 
「は? 口持臣が、筒城岡で土下座をしている?」
 高津宮の居間において、龍を模した椅子に座る武内宿祢は思わず眼を見開いた。
「何を意図してやっているのか分かりませぬが、もう一晩中あの様子だと」
「何を考えておるのだ………」
 武内宿祢は二回ほど己の顎髭をさする。
 脅しの薬が効きすぎ、訳のわからぬ行動をしてしまったか。それとも、なにかの策なのか。真相は分からないが、皇后の屋敷の前でずっと土下座をしているという珍事件は、老体を動かすのに十分な理由となった。
「このような場所でとやかく言っていても始まらぬ。とりあえず、筒城岡へ向かうぞ」
 武内宿祢は意気揚々とした表情で漢風の居間を後にした。
 
 
「何をやっておるのだ………」
 口持臣が表門の前で土下座をしているという知らせを受け、たまらず表へと姿を現した磐井姫は頬を少し引きつらす。
「この姿勢のまま、ずっと動かぬのか?」
「はい………」
 側に控える下女が弱々しく答える。
「国依姫、国依姫はどこか!」
「それが………今日の朝から、姿が見えないのです」
「何?」
 全くもって事態を把握できない磐井姫は、眉間に皺を寄せるしかなかった。
「ん? まて、あれは何だ?」
 はるか遠方から、二人の娘がこちらに向かってきているのがわかる。
「あれは………国依姫ではないか! もう一人は分からんが」
 国依姫がこちらに向かっていることに多少の安堵感を感じた矢先、
「あ、あれは何でしょうか………?」
 筒城岡に向かう二人の女子の背後から、五騎ほどの高貴なしたたれを羽織った者達が駆けてきた。
「………。どういう、ことじゃ」
 表門の前は、土下座をする男、それを見つめる二人の女子、五騎の馬に跨る貴人、それに下女を引きつれる磐井姫。という奇妙な図となった。
「はははは! これは面白い」
 武内宿祢が馬に跨りながら高らかな笑い声を漏らす。
「兄様、兄様。たくさんの人に見られていますよ。恥ずかしいですよ」
 国依姫が肩を揺すえど、口持臣は一項に土下座の姿勢を変えない。
「国依姫! これはお主の企てではないのか」
「い、磐井姫様………」
「これはこれは、磐井姫様」
 国依姫、武内宿祢は表門にいる磐井姫に頭を下げる。
 あたりは、土下座の口持臣を中心に、ぐるりと周囲の人間が輪になって取り囲むような状態となっている。皆、この不思議な状況が呑み込めず、土下座の男を眺めるしか術がない。
 そんな混沌とした中、
「いつまでそうしているつもりですか‼」
 土下座のちょうど背後で仁王立ちをする陽代が、怒鳴り声をあげた。必然として周囲は陽代の方へと目を向ける。
「土下座をして、何か変わりますか? 新しい方策を考えるんじゃ無かったんですか?」
「………」
 口持臣は変らず、無口を決め込んでいる。しかし、この怒鳴り声に両肩が多少動いたことに、陽代は気付いていた。
「こんな大勢の中で頭など下げて、恥ずかしくないのですか? あなたにはもう少し、器用に物事をこなすということが出来ないんですか?」
「………」
 陽代は一つ、大きなため息をついた。
「無理なんでしょうね。あなたには物事を器用にこなす事なんて。こうやって、周囲の目を引き付けて、何とか磐井姫様の心情が変わるのを期待する。そんなことしか出来ないんでしょう?」
 武内宿祢は左隣に控える従者に、「あの女子は何者だ?」と聞けど、従者も「さぁ……」と答えるしかない。
「あれは、口持臣の妻でございます」
 馬上での貴人の会話に、国依姫は明るい声色で答える。
 そんな会話などいざ知らず、我が夫を見つめる陽代は、
「だったら、器用にできないのでしたら、命を張るなど軽々しく言うな!」
 青銅の短剣を夫の背中へと投げつける。
武内宿祢は思わず、「あ!」と声が漏れるも、威厳を保つため直ぐに口を閉じた。
「不器用なら不器用なりに、責任だの役人だからだの、くだらないしがらみは置いといて今みたいに泥臭く這いつくばればいいんです‼」
「ん? 土下座をするのを………容認してる?」
「うるさいな」
 大王の側近を、皇后の下女が𠮟責する。
 その時
「す……まん………」
 細々と、蹲った口から、声が聞こえた。
「聞えません‼」
 陽代は仁王立ちしたまま、険しい表情をやめない。
「すまなかった! 己では何もできない癖にお主に頼ろうともせず、大事なことを隠して、すまなかった‼」
 口持臣は頭を上げ、陽代の方へと向き直り、
「わしには、お主への信頼が足りなかった………」
 眼は赤らみ、頬は涙によって濡れている顔で、再び頭を下げた。
 
          *
 
 磐井姫様は結局、高津宮に戻ることなく筒城岡でその生涯に幕を閉じた。
 その後、八田皇女が大王の正式な皇后になり、雌鳥皇女も皇室に迎え入れる準備が進められた。しかし、これに隼別皇子が反発。大王の兵が隼別皇子の屋敷を襲撃し、落ち延びた隼皇子は雌鳥皇女と共に自害をするという、最悪の結果となった。
「お互いを信ずることが出来ねば、夫婦は務まらぬ。わらわにはそれが出来なった。お主ら夫婦のように」
「磐井姫様の言葉ですか?」
「はい」
「はぁ、これでわしの出世はなくなったな………」
「命があるだけ感謝してください」
 陽代が夫の肩を叩く。
「痛! 今、拳であったよな? 拳だったよな?」
 日本書記にてたった二行で終わるこの夫婦の物語は、今はもう遠い昔の話。
 
                                         完 

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