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【小説】枯葉人 上

      
 痛い。
 青い筋が浮き彫りになるほど、己の腕を強く握り締めるその手は微かに震えていた。力を入れ過ぎているのか、邪心がはびこっているのか。恐らくどちらともであろう。
「行表……」
 友の不安げな顔は、悲しみの中に、懇願の思いを匂わせる。
「やはり、行くな」
 少し尖った口調をした。だが、悲哀と懇願を滲ませるこの表情では何の厳格さもない。ただ、友が駄々をこねている様にしか見えなかった。
「なに、ただ大和の仏門を出るだけではないか。今生の別れにはなるやも知れぬが、死にはせぬ。お互い違う土地で気張ろうぞ」
 張り付いたように握るその手を外しながら、朗らかな笑みを垂らす。
「何故なんだ……」
「先にも話したであろう。わしと道鏡様では、仏への考え方が」
「お主は力が欲しくないのか!」
 動揺した様子で声を荒げるその目には、雫が溢れている。
「わしは、道鏡様の力が性に合わぬ」
「道鏡様と、お主と、この円興がいれば、朝廷を動かすこととて難儀ではない」
「そんなものには興味がない」
「道鏡様が出世すれば、わしらとて官位を賜れる」
「興味がないと言っておろう」
「では……では……」
 友、円興は、膝が崩れた様にしゃがみ込み、
「では、いかがすれば、お主はわしの側にいてくれる……?」
 埋もれた顔から、弱弱しい声が漏れる。
「円興……」
 友の泣きづらは、次第に胸を苦しくさせた。心の芯から覚悟したはずなのに、この蹲った背中を見ていると、精神が歪む。
「行きたければ、行けばいい」
 不意に遠目から、図太い声が聞こえた。
「道鏡様……」
「お主が決めた道じゃ。わしらに止める筋合いはない」
 腕を組み、厳格な表情を繕うその男には、背後の巨大な朱門が良く似合う。
「だが、力がなければ如何なる者も救えぬのは確かじゃ。わしという力を放棄するならば、お主はいかなる力を持つ?」
 蔑んだ道鏡の目に、行表は白い歯を見せ、満面の笑みとなった。
「新たな力を、作りまする」
「作る?」
「はい。道鏡様のように手を汚さずとも、多くの者を救う。そんな力を作りまする」
 行表は合掌をすると、笑みを浮かべたまま、
「では」
 二人を置きざりに、朱門の外、遥か遠くへ足を踏み出した。
 
         〇
 
「何回言わせんだよ! クソじじぃ」
「あ? おぬし今、何と言った?」
 近江国の古市郷というと、琵琶湖湾岸の土地柄を生かし、交易によって多くの銭が流入する地域であった。
「クソじじぃって言ったんだよ! 阿呆が」
「…………」
 二十一年前に執行された養老律令に伴って鋳造された万年通宝も、この古市郷には多く流通し、一大港町を形成していた。
「痛て! 何すんだよ」
「父上をじじぃ呼ばわりするからだろうが」
 そんな港町の領主が強大な力を持つのは必然で、古市郷の郡司には、地方領主では破格の正八位下が朝廷より下賜されていた。
「じじぃ呼ばわりされたくないなら、父上と呼びたくなるようなことをしろよ!」
「してるだろうが!」
 ここ、古市郷を領する滋賀郡の郡司館は、近江の銭を一手に握り、宮廷内であれば役職を賜る男の根城なのであった。
「痛て! めちゃくちゃだ」
「めちゃくちゃなのはどっちだ! 郡司の嫡子にもかかわらず、頭を丸め、寺に入りたいなど……」
 握った拳には、頬の温もりが感じられる。愚言を放つ齢十二の息子に感じるのは失望ではなく、焦燥であった。
「お主が跡目を継がねば、誰がこの滋賀郡の郡司になるのだ! 誰がこの古市にある屋敷を守るのだ!」
 荒げる声の表情は、必死そのものである。だが、板敷きの床に転げた息子も、父に負けぬ眼光で立ち上がり、
「そんなもの、一族の誰ぞに継がせればよかろう! わしは誰が何といおうと、国分寺へ入り、かの高名な行表上人の教えを賜って山林仏教を極めるのだ!」
「嫡子を寺に出す家など聞いたことがないわ‼」
 「ぶちっ」という奇妙な音が屋敷に響き渡った。
 
 
「クソじじぃめ……」
 頬の痛みよりも、胸の奮起の方が煩わしい。
「くそ……」
 反対されることはわかっていた。血眼になり止められるのもわかっていた。だが、それでも、あの父の必死な表情を見ていると、親不孝である自分をまじまじと写す鏡のようで、気落ちしないではいられなかった。
 父に怒鳴られるだけで揺らぐ自分が腹立たしく、父にあんな表情をさせる自分も腹立たしく、胸の奮起が煩わしい。
「あそこへ行かねば、落ち着かぬ」
 草花が揺れる新緑の田畑で、畦道を進む童は、ある一つの場所を目指している。
 己が夢見るそれは、自然と人間とが一体となる境地であった。生命の営みである山へ籠り、ただひたすらに万民の救済を願うことで、人ならざる世界へ導かれる。そんな世界に憧れた。
憧れてから、修練も始めた。屋敷近くの比叡山という山の山麓にある、大きな岩の上で瞑想をし、心のわだかまりを取り除く。
木々に囲まれ、自身も苔に覆われるその岩は、まさしく山林の仏のようであった。日中には葉の隙間から日の光が輝き、それを苔が一身に受け止める。まさに御仏の世界とはこのような輝きなのではないかと思わせる空間であった。
「ん……?」
 行きつけの岩場へ着くと、直ぐに異変に気付いた。
「誰……だ?」
 見知らぬ坊主頭の男が、木漏れ日を身に写し、一切乱れぬ姿勢で瞑想をしている。
 先客など初めてであった。この巨大な岩は人の寄り付かないような山林の奥にある。てっきり自分だけの知る、とっておきの瞑想場だと思っていた。
 童は、自分の行きつけを侵された苛つきと、ここが自分だけの場所でないことへの悔しさに、
「おい、そこのお坊さん」
 思わず坊主頭に声をかける。
「…………」
 何も言わず、ゆっくりと半眼の目を開いたその坊主頭は、声の主に顔を向けると、慈愛に満ちた表情を浮かべた。
「道にでも迷うたか?」
 優しく問くその表情には、初老の証である浅い皺が刻まれている。
「わしはここに毎日来ている。道になど迷うわけがない」
「毎日? 何をしに」
「あんたのように、岩の上で瞑想をしに」
「…………」
 坊主頭の初老は、少し驚きの顔を見せた。目下の男は、明らかに童である。童が一人、山林に籠り瞑想など、一丁前にもほどがあった。
「髪を剃っていないように見えるが、どこぞやの寺の小僧かな?」
「寺にはこれから入る。今はその時のために修練をしているのだ」
「ほう、修練……」
「何か不満か?」
「いやいや」
 手を左右に振るその顔は、微小なにやつきが浮かんでいる。期待、という言葉が脳裏を支配していた。
 童のその潤んだ目の中には、噴煙のように沸き立つ情熱があることはすぐに察しがつく。仏道を志すにはなくてはならない目だと、長年の経験が訴えていた。
〝新たな力を、作りまする〟
何よりも、この童の瞳により、昔の記憶を思い出したことに言葉では言い表せぬ魅力を感じたのは間違いない。
「どうじゃ、その修練をわしとせぬか」
笑みを浮かべると、己の身を右に寄せ、左手を叩いて童を促した。
「…………」
 童は猜疑心を拭えぬ顔である。当然であった。見知らぬ坊主の誘いに乗るなど、自ら追剥の危険を晒すようなものである。まして郡司の嫡子であるこの童が……
「こう見えてわしは、大和の興福寺で修行をしたこともあるのだぞ?」
「興福寺で!」
 童の目は漆でも塗られたかのように輝き、上機嫌で岩へ手をかけた。
 
        〇
 
「ほう……」
 瞑想の中で思わず声が漏れるほど、左隣の童の瞑想は感嘆に値した。期待以上といっていい。
 かれこれもう一刻(二時間)の間、乱れることなく瞑想を続けている。半眼の、遠くを見つめる瞳は阿弥陀如来を彷彿とさせ、背筋の張った姿勢は大日如来を思わせた。三十年以上の修行を費やした瞑想に匹敵するその童の瞑想は、まさに仏を信ずる才を遺憾なく発揮している。
「今宵はここらで切り上げるか」
 初老は童の背中へ手を当て、瞑想の世界から俗世へと戻す。
「…………」
戻された童は、あたりの様子を把握すると、少し驚いた顔をした。
「まだ始まったばかりではないか」
「もう申刻(午後三時)の鐘が鳴った。疲れたであろう?」
「一刻しかしていないではないか」
「しかとは……。お主くらいの年であれば一刻も出来れば上々じゃ」
 満足そうな初老に、童はあきれ顔を繕う。
「わしは毎日三刻(六時間)は瞑想をしておる。何が上々じゃ。まだまだ修練が足りぬわ」
「なに……」
 驚嘆するしかなかった。
仏道に入った僧であっても、毎日三刻の瞑想は辛いものだ。瞑想とは、己の精神を無の境地に誘い、俗世から拒絶させる修行である。そうすることで、己の中にはびこる邪心と向き合い、新たな教えが降ってくることがある。
しかし、瞑想は邪心と向き合うだけに、己の精神が壊れていく感覚になることがある。目の前の邪心に耐えられず、瞑想をする以前よりも精神が廃れるということも珍しくない。
特に、精神がまだまだ未熟な童など、直ぐに逃げ出してしまうものなのだ。
「わしは、続けるぞ」
 そんな中、己の隣にいる童は、一刻という、瞑想の苦痛を感じてもおかしくない時間をやり抜いたにも関わらず、まだ続けるという。それだけでも、将来が伺い知れぬ逸材であることは間違いなかった。
「はははは! お主は高僧になれるぞ」
 上機嫌で己の肩を叩く初老に、童は苦い表情を向ける。
「残りの瞑想は、わしが代わりにしてもうた。どうじゃ、少し物語でもせぬか?」
 童の顔はまたもや猜疑心に覆われた顔つきとなった。
「興福寺の話、聞きとうないか?」
「しょうがない……」
 あきれた様子を繕う童であるが、その目は確かに輝いていた。
 
 
「広野というのか。良い名じゃな」
 初老の坊主は、うんうんと頷きながら懐から出した唐菓子を喰らう。
「あんたの名前は?」
 米の粉を油で揚げたという上品な菓子をかじりつつ、広野は初老に目を向けた。
「わしか? わしわな……」
 岩の周りには白や黄の蝶が優雅に飛んでいる。紅く淡い光もあいまって春の夕を感じさせた。
「ちょう……。澄という」
「蝶? 女みたいな名前じゃな」
「いやいや、虫の蝶ではつまらん。サンズイに登と書き、澄じゃ」
 広野という名の童は、怪訝な顔をする。
「ああ、すまん。サンズイなどと言われてもわからんな。まぁ、ちょうという読みだけで」
「すみと書き、ちょうであろう? 変な名じゃな」
「ほう、字がわかるか」
「見くびるな。わしはこの滋賀郡の郡司である三津首(みつのおびと)百枝(ももえ)の嫡子であるぞ」
「ほう……」
 澄に少しの驚きと怪訝が襲う。
「郡司の嫡子であるのに、御父上はよく寺に入るのを許されたな」
「それがな……」
 広野は首を落として深く項垂れた。
「父上には酷く反対されておる」
「そうか……まぁ、当然ではあるな」
 剽軽な顔つきで残りの唐菓子を口へ放り込む。その様子に、広野は頬を膨らませた。
「何が当然じゃ。父上とてな、書庫に経典を数多置き、屋敷すら伽藍のような造りにして、御仏を深く信ずる一人なのじゃ。わしが山林仏教を志したのは父上の影響もある。それなのに、寺に入ると言い出した途端……」
 赤く染まった己の頬に手を当てる。
「御父上にやられたか」
 澄は、「子供じゃな……」という目で、呆れた表情を繕った。
「それに今、仏門に入らねばならぬ訳があるのだ……」
「それは?」
「近々、崇福寺におられた行表上人が、大国師としてこの近江国の国分寺に来られる」
 広野の目は、次第に輝きを帯びていく。
「崇福寺において皆の信仰を集め、千手観音菩薩までお造りになったお方じゃ。お主も坊主の端くれなら名くらいは知っておろう?」
「…………」
「あれほど偉大な方に教えを賜れば、わしもいつか立派な僧になれるぞ!」
「その行表上人とやら、もう少し詳しく話してくれんか?」
 澄の顔には何故だか満足そうな優越感が漂っている。広野はその顔に少しばかり頬を引きつらすが、
「行表様のすごい所はな……」
 己の尊敬する人物を惜しげもなく話せる好機に夢中となった。
 日はだんだんと落ちてゆく。
 
         〇
 
 その日から、広野は朝一番にあの岩場へと向かうようになった。
 父による拳の痛みも、帰りが遅いという母の掌の痛みも、嬉しさにより消えていた。周囲の田畑から、「聞いたか? 郡司様の倅、仏門に入りたいとか言ってるらしいぞ」「跡を継ぐだけで土地も官位も手に入るというのに、贅沢なお方だ」どこから派生したかも分からない噂話が耳に入れど、広野の中ではただの雑音と化していた。
 大地を緑と赤で染める野花を脛でかき分け、進んだ先には、いつもの場所にいつもの坊主がいた。
「今宵は、いかなる話をする?」
「まずは瞑想が先じゃ」
 澄は己の身を右に寄せ、
「三刻(六時間)やろうか」
「いや、四刻(八時間)」
「ほう、気張るの」
 童の情熱の目を、慈愛の顔で包み込み、初老と童は肩を寄せ合って無の空間へ己を誘った。
 
 
「いかなる話をする?」
 広野は目を輝かせ、瞑想の姿勢で己の体を前後に揺らす。日は既に地平線へと近づき、紅い光を照らしていた。
「そうじゃな……」
 澄は不意に目を細め、
「瀬田川にでも、出かけようか……」
 微かに顔を引き締めた。
 琵琶湖の南方と繋がる瀬田川は、京と琵琶湖を結ぶ物流の拠点であった。琵琶湖と瀬田川の境には、日本海からもたらされた唐や新羅の貿易品、平城の都から運ばれてきた物品が混在し、日本国でも指折りの賑わいを見せている。
「瀬田川に来たなら、市にでも見聞すればいいものを……」
沈む日に呼応して、賑わいを落ち着かせる市を他所に、広野と澄は人里離れた河川敷へと足を運んだ。
「ここが、かの有名な瀬田川か……」
「澄は初めてか?」
「ああ。じゃが、平城の都にいた頃からこの川は知っていた」
 広野は怪訝な顔で首を捻る。
「恵美押勝が起こした、大乱じゃよ」
 河川は夕の光を揺り動かせ、清純な音と香りを運ばせる。それを見つめる澄の目は、どこか憐憫さを滲ませていることを、広野は容易く察し得た。
「瀬田橋での戦は、聞いたことがある」
「ほう、物知りじゃの」
「それに……」
 広野は思わず顔を俯かせた。恵美押勝が起こした大乱は、己の生まれる二年前の出来事である。本来ならば、地元で起こった過去の大乱。程度の認識であったろう。
 だが、広野にはそれでは片付けられぬ、人並み以上の思いがあった。この戦が、幼き童の心に火をつけ、山林仏教を志すきっかけを作ったのだ。
「あの戦で、山林仏教が衰退したとも聞いたことがある」
 不意に呟いた広野の声には、少しばかりの怒りが纏わりついている。
「恵美押勝が討死した後、孝謙上皇の側近として法王にまで成り上がった、道鏡という僧侶が山林仏教を堅く禁じたと聞いたことがある」
「…………」
 澄の憐憫な目は、徐々に苦心の目へと変わっていく。
「恵美押勝の残党が、僧に化けて山林に籠るのを恐れ出した下知じゃ。致し方ない」
「権力と仏の教えは全く別物であろう!」
 童の純情な叫びは、初老をさらに苦しくさせた。
「そうで、あるがな……」
 言葉に詰まる。童の放つこの言葉は、机上の空論に過ぎない。古来より仏の教えは朝廷の加護を受け発展してきた。まして今に至っては、仏に司る者が朝廷を牛耳っている。とても、権力と仏の教えが「全く別物」などとは言えない。それが日本の、いや、この世界すべての神仏と権力の関係であった。
「仏の教えは、権力とは無関係に多くの者を救わねばならない。間違っているか?」
 しかし、そうでなくてはいけなかった。童の放つ机上の空論が、本当でなくてはいけない。そのような世でなくてはいけなかった。
「難しい、話だ……」
 苦し紛れに出した言葉は、己でも弱弱しさが伝わる。童の無垢な主張に胸を張れないこの世は、歪んでいるのだと感じる。
「わしの言っていることは夢見事か?」
 広野の鋭い目つきに、一瞬たじろいだ。それはまるで、己のすべてを修行に捧げた修験道のような眼光であった。
「そのようなことは……」
「いや、いい。わかっておる。仏道を司る僧侶が朝廷の権力闘争に介入するなど、今も昔もよくある話だ。わしの言葉は、所詮は童の戯言じゃ」
「…………」
「だがな、澄。わしはそれでも、いや、だからこそ、ほんの十数年前まで虐げられてきた山林仏教を志し、立派な僧侶になりたいんじゃ。わしの築く礎が、いつか、教えの本来あるべき姿になれれば、本望なんじゃ」
 広野の顔には、笑みが零れていた。
琵琶湖の風は、この瀬田川にまで吹き寄せ、童の髪を靡かせる。夕の紅い光と、夜の漆黒が混在する空を背に、朗らかに頬を緩めるその童は、仏陀の生まれ変わりではないかと初老に思わせる威厳であった。
 
       〇
 
郡司の屋敷といえど、表門まで瓦葺にしている屋敷は恐らくここだけであろう。瓦の工人が在住する土地柄と郡司の趣向が生んだ豪勢な門であった。
「広野様、旦那様が居間でお待ちしております!」
 広野の帰還を確認した下女は、慌てた様子で給屋から飛び出した。
「お早く伺った方がよろしいかと……」
 玄門口で広野の足を拭く下女の顔には、哀れみが浮かんでいる。これから苦行を受ける人間を見つめる目であった。
「怒って、おられるか……」
「それはもう……」
 空はもはや夜の黒に覆われ、三日月に欠けた月のみが、地上に光を注いでいる。
 日が落ちるまで瞑想をした後、瀬田川にまで足を運んだ結果、童の帰還するような刻限ではなくなったのである。
「父上……」
 襖越しに呟いたこの言葉には震えが混じっている。純白の無地な襖は、父の怒りに怯える己の思考のようであった。
「入れ」
 図太い声である。だが、その声色は何の感情も芽生えていない、虚無な声であることを、倅である広野にはよく理解ができた。
「失礼致します」
 月の愛でられる板敷きの居間に入れば、そこには父の隣にもう一人、怒りの表情を滲ませる母が座っている。
「どのような、ことで……」
 苦笑の顔で両親の前に腰を下ろす広野に、
「自分でわかっているでしょう」
 母は怒りの眼差しを向けた。
「…………」
「なぜ、こんな夜遅く」
「修練に、忙しかったのです」
 母の眉間に、皺が寄った。
「何が修練ですか。あなたは郡司の倅でしょう? 多少、勉学ができるからって仏道などにうつつを抜かして。それで立派な郡司になれると思っているのですか?」
「私は、郡司に……」
「ならなくてはいけないのです。あなたの御爺様や御父上がいかなる苦心をしてこの土地を守ってきたかわかっているのですか? あなたには、この滋賀郡をいつかは治めるという覚悟が足りない」
 母の顔には必死さが滲み出ている。
広野は俯き、
「はい……」
 見繕いの言葉を発した。
「本当にわかっているのですか?」
「はい……」
「何ですか! その気抜けた返事は」
「はい……」
「もう、いいです!」
 怒りの表情を、息子から背ける。
 居間は一瞬、不穏な静寂を生んだ。父の背後に輝く三日月が無情にも美しく光を放っている。
「広野……」
 やっと発した父の声は、失望も落胆も感じられない。ただ、諦めの声であった。
「勘当……するか?」
 諦めの目を向けたまま、にこやかな笑みを垂らす。
「ちょっと!」
 母は驚いた顔を見せるが、広野は変らず顔を俯かせたままである。
「お主が寺に入りたいと言い出してから、ずっと考えていた。わしとお主の縁を切れば、何の憂いもなく、寺へ入れる。今後、一族間で何かあったとしても、お主とわしは他人になるのだから、めんどくさいいざこざに巻き込まれることはない。もちろん、この滋賀郡を気にする必要もない」
「ほ、法螺を吹くのはやめてくだい! 広野が本気にするでしょう」
「法螺ではない!」 
 父の頬は、紅く火照っていた。
「広野。わしもな、幼き頃は寺に入ってみたかったのだ」
「え……」
 広野は俯く顔を上げ、驚きの目を見開く。
「この屋敷や書庫にある経典を見ていればわかるだろう。わしは、仏の教えが好きじゃ。こんな地方の領主など直ぐにやめてしまいたいほど、好きなんじゃ」
「いい加減にしてください!」
 憤激の怒りで我が夫の肩を掴む妻に対し、
「頼む。黙っててくれ」
 父、百枝はこれ以上にない眼光で睨んだ。
「だが、わしは屈した。滋賀郡の郡司を継がねばならないという義務に、責務に、屈した」
 広野を見つめるその目は、慈愛の目へと変わっている。
もはや、百枝は己の倅を郡司の嫡子とは見ていなかった。かけがえのない、一人の息子として広野を見つめていた。
「広野、お主が本気だと言うのなら、もうこれ以上は止めない。わしの代わりに、仏の道を志してくれ」
「…………」
 言葉が出ない。父にこんなにも優しい表情を向けられたのは初めてだ。親不孝である自分になぜこんな慈愛の表情が出来るのか、わからなかった。父のやさしさに、親馬鹿に、屈してしまいそうになる。
 広野は、己の唇を強く噛み締めた。
「勘当など、まっぴらごめんです。わしは、三津首百枝の倅として、寺に入りまする」
立ち上がり、威厳の張った顔つきで言い放った。
「失礼致しました」
「広野!」
 母の叫びをよそに、居間の襖を勢いよく閉じる。
「勘当など、駄目であろう……」
 絶対に、駄目であった。己は、親不孝者として、寺に入らなければいけないのだ。勘当をすれば、親に縁を切られた息子が、仕方なく寺に入る。という形が成り立つ。そうすれば、何の不自由なく、入門が出来よう。
 しかし、それではいけなかった。自分は両親の期待に応えず、郡司の跡取りという責任を放棄して、寺に入るのだ。そんな、他人の横やりを受けない道など、選んでいいはずがなかった。
 自分は、親不孝者であり、滋賀郡を捨てた不届き者として、寺に入らなくてはいけない。それほどの非難を受けたとしても、寺に入るという覚悟がなければ、結局、入門したところでものにならないとも思う。
 広野は、夜の常闇の中、屋敷の目を盗んでいつもの場所へと向かった。いつもの坊主はいないだろうが、今、胸に抱くわだかまりを取り除くには、あの場所へ行かねばならなかった。
 
 
 

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