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【小説】枯葉人 下

「わしの手にかかれば、日ノ本全ての万民が救済されることも夢ではないぞ!」
 薬師如来の前で、酒の頬になって高笑いをする道鏡様は、まさに憧れだった。
「行表、円興。わしはこれから、誰からも慕われるような高僧となる。じゃから、お主らもわしについて来い」
 満面の笑みで渡されたその杯は、それを持つだけで夢見心地な気分に誘う。
 まだ、どの建物にも木組みの纏いが取れぬ未完成な都で、大工の金槌が鳴り響くあの時間は、我が生涯で最も充実していたのではないかと思う。
「して、どのように高僧へ成り上がるのですか?」
「成り上がるという言い方は良くない。仏の教えを信じ、ひたすら人々の救済を願えば、次第に人が付いてき高僧に押し上げられる」
 友のこの無邪気な表情も、その無邪気さに乗り気で答える道鏡様も、皆が好きであった。この、青い春のような関係が、いつまでも続けばいいと、心の底から思っていた。
 
「人を救うには、力が必要なのだ」
道教様の顔が、僧侶から権力者に変わったのは、東大寺の阿弥陀如来が完成してからだ。あの巨大すぎる大仏には、誰もが目を見開いた。高僧である行基菩薩と、時の権力者であった聖武天皇が手掛けた大仏は、全ての僧の胸に一石を投じたのは間違いない。
「山に籠って瞑想をするだけで、あんなにも大きい阿弥陀如来を作れるか?」
 大仏殿を見たその瞬間から、道鏡様は変わった。あれから瞑想の時間を削るようになり、代わりに皇族である高野姫に近づこうと、己の俗家である弓削氏や、師匠である義淵、良弁の伝手を頼りに、あの手この手で宮廷に入り浸たった。
 もはや、見ているだけで辛かった。無邪気な円興は、道教様の仏に対する考えではなく、道教様という一人の人間に付いて行った。自分も、円興のように物事を簡単に考えられればと、何度も思った。
 しかし、駄目であった。
「道教様と私では、仏の考え方が違いまする」
 やはり、権力者の力に依存する仏道など、仏道ではない。
 興福寺の朱門を出たあの日、道鏡様は何か言いたげであったが、もはや何も聞きたくはなかった。嫌悪感からではない。もう一度、道鏡様の声を聴けば、あの、楽しかった日々に戻れるのではないか。という甘い期待に胸が侵食されそうであったからだ。
 朱門を出たその先には、眩い朝の光が注がれていた。自分の決意は間違いではないと、陽が教えてくれているようであった。
 
 
 目を開ければ、天井の梁が見える。寝室には朝の光沢が輝いていた。
「行表上人、お目覚めでしょうか?」
 近江の小僧は、威勢のいい声をしている。
「うむ。気を使って起こしに来ずともよいぞ。今はただの暇人なのだから」
「そうはいきません。来月から近江国の仏道を一手に仕切って頂かねばなりませんから」
「大国師とは、気骨の張る役目じゃのう……。まぁ、まだ暇人でいられる隙に、また山林にて気楽に瞑想でもしてくるかの」
 崇福寺の住職から、近江国分寺の住職、つまり近江国の大国師の役目を朝廷より下知された行表は、来月から仏道を纏める国を、自身で見て回るのが毎朝の日課であった。
「瀬田川の市にでも、出向くかの」
 足取りは軽い。ここの所は心躍ることが多かった。
 瞑想をしていた際に偶然出会った童は、想像以上の逸材であった。瞑想の姿勢は文句のつけようがなく、既に己のものとしている。小生意気ではあるが、志は高く、生まれがいいだけに教養も高い。
そして何より、仏への考えが自分と全く同じであった。
忘れかけていた、忘れようとしていた野心が、己の中で沸々と湧き上がっているのが分かる。
〝新たな力を、作りまする〟
 興福寺の門前で、道教様に放った言葉が、現実になろうとしている。己では不可能と悟った志を、あの童ならば、叶えられるのではないか。そんな期待を、本気で思わせる逸材であった。
「そこのお坊さん! 何か買ってくかい?」
 童について思考を浸らせるうち、賑わいのある市を気付けば歩いていた。
「今日は新羅から入った陶器があるよ」
 琵琶湖へほど近い瀬田川周辺には、都での東西市同様、定期市が開かれる。瀬田川は、平城の都と琵琶湖を繋ぐ物流の拠点であるため、国内の特産品はもちろん、唐や新羅の物品も多く立ち並ぶ。
「ほう……。いい叩き目をしておる」
「そりゃあ、日本の須恵器とは質が比べもんになりませんぜ」
「そうか。では、この椀を一つ貰おうか」
「毎度あり!」
 河川の流れを背に、取り繕いの笑みを浮かべる商人は、陶器の椀を木箱へ納めながら、
「こうして、河川の近くで商売が出来るのも郡司様のおかげでさ」
 独り言のように呟いた。
「他の土地では、違うのか?」
「全然違いますよ。他の土地で河川に店を開こうと思ったら、その周辺の小領主や賊に銭を払わないといけないんでさ。領主の手が届かない神社や寺の門前くらいしか商売が出来ないのが、むしろ普通の土地ですよ」
 市には様々な声が混在し、一つ一つの声は聞き取れない。しかし、その声はどれも活気が溢れており、都にも匹敵する賑わいを見せていた。
「ここの領主は、三津首百枝と言ったか」
「へぇ。本当に立派な方ですよ。我ら商人が無駄な銭を払わないよう、気遣ってくれてましてな。ここ、瀬田川の橋で恵美押勝と朝廷軍が戦った時も、我ら庶民の救済を一番に考えてくれて、朝廷に直談判して終戦から二年もの間、年貢を取り立てないと約束したんですから」
「ほう……。それはまこと、立派な方であるな」
 行表は、驚きの顔を浮かべた。滋賀郡の郡司である三津首百枝が地方領主では強大な力を持ち、正八位下という高い官位を賜っていることは有名である。しかし、治世においてここまで徳の高い行いをしているとは知らなかった。あの童が教養高く、仏への考えもしっかりと芯を持っている所以が分かった気がする。
「ですがなぁ……」
 商人は、納めた木箱を行表に渡しながら、苦い表情を浮かべた。
「その倅が、問題なんでさぁ……」
 眉間の皺をさらに深くし、首を傾げる。
「仏門に入りたいと言っているとは、聞いたことがある」
「そう! そうなんですよ」
 商人は、思わず身を乗り出した。
「しかもねえ……」
「しかも?」
「郡司様のお子は広野様一人でしてな。広野様がもし、我儘を通されて仏門に入ってしまえば、古市郷の三津家が途絶えてしまうんでさぁ」
「そうなれば、近縁の者が継ぐのではないか?」
 商人は、得意げな表情で手を左右に振った。
「一族間の問題は複雑でしてな。そもそも、ここの郡司様が地方領主ではかなりの高位にあたる正八位下を賜り、独立した家柄となったのは、先代の浄足様からなんですよ。何でそんな地位を賜れたかっていったら、この、賑やかな市と交易。それに、恵美押勝の戦の折に、朝廷軍へ協力したのが理由なんですよ」
「それと、三津家が途絶えるのと何の関係があるのだ?」
 行表は、怪訝な表情を浮かべる。
「考えてもみてください。三津家は、大友郷の宗家から枝分かれしてまだ三代という若い家柄です。それなのに、この市のおかげで古市郷の三津家は、宗家を凌ぐ力を手にした。それに、高い官位は恵美押勝の戦での恩が大きい」
「なるほど……。直系の後継ぎがいなくなれば、朝廷が、高い官位を古市の三津家に世襲させる義理もなくなるわけか」
「それどころか、分家の隆盛を妬む宗家が、嫡子のいなくなる隙に、宗家の息のかかった後継ぎを立てて、古市郷を吸収させるかもしれませんぜ」
「確かに……」
 近江国は、様々な豪族が混在し、木の根のように広がった分家も数多あると聞く。疎遠となった一族はもはや、領土の覇権を争う敵も同然であった。
「ここの郡司様の治世は良心に溢れてるから、途絶えて欲しくはないんですけどなぁ……」
 商人の顔は、どこか物悲し気である。
「広野様も、こんな複雑な情勢じゃあ、勘当でもしない限り一族間の問題や民の不満で寺に入るのすら覚束なくなりますよ」
「うむ……」
 行表は、不意に顔を俯かせる。この商人の言葉を聞き、やっと、現実に戻れた気がした。童の才だけを見て浮かれている暇ではないと、叱咤されている心地であった。
「まぁ、こんな端商人が嘆いても仕方がないんですがな……」
 商人は、諦めの目で、苦笑を繕った。
 そんな時である。
「ちょっとあんた、大変だよ!」
 商人と行表の会話が一段落を迎えた頃、遠目に見える井戸端会議から、一人の婦人が激しい剣幕で店へ駆け寄った。
「何だよ! うっとおしい。今お坊さんの相手してるのが見えねぇのか?」
「あ」
 婦人は取繕いの合掌を見せてから、
「郡司様の倅、広野様が屋敷を抜け出して見つからないんだって!」
「なに!」
 最初に声を発したのは行表であった。婦人は行表へ目を向け、
「屋敷の下女に聞いた話ですから間違いないですよ。最後に姿を見たのが、昨日、玄門口で足を洗ったときだって」
「…………。釣りは要らぬ」
 陶器の並べられている棚へ万年通宝を乱雑に置き、行表は血の気の引いた顔で駆けて行った。
「銭は畿内でしか流通してねぇから、使い勝手悪いんだよな……」
「でも、銭を持ってるなんて高貴なお坊さんなんだね」
 焦燥が纏わりつく初老の背中を見、商人夫婦はあっけらかんとした表情を浮かべるしかない。
 
          〇
 
 広野がいる場所など、あそこに決まっている。
「馬鹿め……」
 こんなにも、焦燥と憤怒を抱くのはいつぶりであろうか。
 甘かった。つい、あの童を見ていると、道教様との会話を思い出し、その欲にしか頭が回らなかった。
「阿呆が……」
 走りながら、己の太股を殴りつける。
 広野は、郡司の嫡子なのだ。抱えている責の大きさ、仏門に入ることで嘆く人々。どれもが、他の者とは比にならない。
 それを、齢十二の童が抱えているのだ。己の志と、果たすべき責の狭間で苦しんでいるのだ。なぜ、側にいた大人が救いの手を指し伸ばそうとしなかったのか。なぜ、呑気に己の野望に思考を浸らせえることしかできなかったのか。
 己に対し、これほど憤怒をしたのはいつぶりであったか。
「広野‼」
 いつもの岩場につけばやはり、朝の光と葉の影を一身に浴びた童が、半眼の目を浮かべている。
「澄……」
 聞いたことのない初老の叫びに、広野は驚きの目を開けた。
「お主、屋敷から逃げ出したのか?」
「…………」
「逃げ出したのか⁉」
「そういうことには……なる」
 澄は、眉間の寄せ皺を指で摘まみ、苦心の表情となった。
「すまなかった……」
 呟くように出た澄の言葉は、広野の初めて聞く弱弱しいものである。
「何を、謝っておる?」
 いつも淑やかで、冷静な澄の取り乱した姿に、広野は動揺しつつ、岩の上から飛び降りる。
「お主は、ずっと、郡司の嫡子である責と、己の志の狭間で苦心しておったのであろう?」
 澄の顔は、苦しみの中に、どこか、自分の子供を見つめるかのような慈愛の目を写している。
「側にいる大人として、共に瞑想をする友として、もっと気に掛けるべきであった。すまん……」
 広野に対し、深深と頭を下げた。
「…………」
その姿に、広野は顔を俯かせ、
「前言を、撤回する」
 自信に漲る声を発した。
「は?」
 澄は拍子抜けした表情で顔を上げる。
「わしは、屋敷には抜け出したが、逃げ出してはいなかった」
「ん?」
「わしは、三津首百枝の嫡子として寺へ入る!」
 
 
 木漏れ日が揺れている。琵琶湖から瀬田川を通り、この比叡山の山麓に涼やかな海風が運ばれている証拠であった。
塩の薫る風の中、広野は屋敷内で交わした父とのやり取りを事細かに話した。
「…………」
 澄は、何やら真剣な表情で黙りこくっている。
 父に勘当を持ちかけられたこと。勘当などという逃げの道には進みたくないと己の心で思ったこと。様々な感情が混在し、訳が分からなくなり、邪心を取り除こうとここへ来たこと。
 話を進めるうち、澄の顔は険しさを増していった。
「けじめを、つけようか……」
 何かを納得したように独り言を呟いた澄は、不意に、広野へと顔を向けた。その表情は、朗らかなものへと変わっている。
「広野、一緒に平城の都へ行こう」
「…………。は?」
 突拍子もない発言に、広野は目の前の朗らかな表情が怖くなった。
 急に名を叫ばれたと思えば、謝られ。挙句、意味の分からない発言までしはじめた。もはや、猜疑心すらも通り越す事態である。
「問答無用じゃ。わしはちと、旅の支度をしてくる。一刻(二時間)ほどしたら、お主の旅道具も持ってここに戻る故、瞑想でもして待っておれ」
「いや、屋敷の者が心配……」
「使者に伝えておく。安心せい」
「使者?」
「では、大人しく待っておれよ」
「え、ちょ……」
 ぽつんと一人残された感情は、喪失感だけである。未だ、頭の整理がついていないが、瞑想の他にすることもない。
 首を傾げつつ、広野は岩へと手をかけた。
 
      〇
 
 三津家は、滋賀郡の大友郷から出た大友氏の流れを汲んでいる。その大友郷から、古市郷へ移り住んだのが三津家であり、そこからも分家が派生し、滋賀郡、特に古市郷は諸氏族の坩堝(るつぼ)となっていた。
「百枝殿の倅が寺に入れば、直ぐにわしの次男を古市の屋敷へ入れましょう」
 したり顔で酒坏を頬張る男は、百枝の側へ身を寄せ、
「なぁに、古市郷を奪うといのではない。元のように宗家の配下とするだけじゃ。立派な領主になれるよう、しっかり育てて下されよ」
 ぽんぽんと、百枝の肩を叩いた。
「恐れながら、近縁の者に継がせるという選択もあります」
「いやいや、ここは宗家の血の濃い者が継いだ方が、今後のためであろう」
 板敷きの広間には、二十人ばかしの男が居並んでいる。どれも、三津姓の者たちであった。
「広野殿が跡を継ぐのであれば問題はないが、この分だと真に寺へ入りそうだ。瀬田川の市にも噂話をちらほら聞きますしな。そうなれば、わざわざ近縁に継がせずとも、より血筋のいい者に継がせる方が、民の信頼を得られやすいのではないでしょうか」
 末席に座る親族が、淡々と言葉を並べる。近江国に広く地盤を根付かせる三津家といえど、末席になれば、猫の額ほど田畑しか治められない。それほど、三津一族は枝分かれを極めていた。
「わしら古市三津家には、この古市郷を上手く治めるのうはうがあります。今から宗家の人間に継がせれば、古市郷の民は動揺しましょう」
「そうならぬよう、わしの次男をしっかり鍛えてくれと言っておる」
「…………。しっかり鍛えたとて結局、後を継げばあなたの操り人形になるのでしょう?」
「何を言っておる! そのようなことは……」
「操り人形でも構わない! 上手く古市郷を治められるのなら。しかし、古市郷を治めるには、銭の知識が必須。それは、一朝一夕で得られるものではない! あなたが古市郷を操れば、必ず失敗する!」
「こっちは、倅の我儘に苦心をしているお主を助けてやろうと言っておるのだぞ。大人しく従っていれば良いのだ!」
「そのような気遣いは無用!」
 双方これ以上にない眼光を向けている。
「しかし……」
 末席の男が、独り言のように口を開いた。
「三津一族を集めて、お次の大国師様は何を考えているのでしょうか?」
 この言葉に、広間は怪訝の一色となる。
「問題の広野も連れてくるそうだぞ」
 怪訝の中で一人、生気に満ちた眼光を浮かべるのは、広野の父、百枝であった。
 
         〇
 
「平城の都といえど、外京なのだがな」
 野草を喰らう鹿の視線を一身に浴びつつ、石段を上がった先は巨大な朱門であった。
 古市郷から、平城の都まで半日がかかる。その間、澄はどこか、懐かし気な表情を節々に見せていた。
「なぁ、澄……」
 巨大な朱門を前にし、広野は道中でずっと抱えていた疑問を投げかけた。
「お主は、一体何者なのじゃ?」
「…………」
 澄は、不意に顔を上げ、雲一つない青空に目を細める。そこには、白や黄の蝶が優雅に飛んでいた。
「わしはちと、名が知られている故、偽りの名を名乗ることがある」
「澄という名は、偽りだと?」
 広野が怪訝な眉を潜ませた時、
「行表‼」
 紅い壁のような扉が開き、現れたのは行表と同じ六十手前ごろに見える初老の男であった。
「円興……。久しいのう」
「ああ」
 互いの眼差しには、様々な感情が浮かんでいる。しかし、長い間、違う時間を過ごした友とまた再開できた。そのことに、嬉しさという感情が最も勝っていることは、どちらも同じであった。
「これで、道鏡様もいれば揃うのにな」
 円興の悲し気な表情に、行表も顔を俯かせる。
「…………」
 もう二度と会えぬ道鏡様のことを思うと、無念さしか湧かないのは、確かである。もう少し、何か出来たのではないか。もう少し、何かを変えれば、あのような形が道鏡様との最後の姿にならずに済んだのではないか。そう思うと、後悔しか残らなくなる。
「これが、お主の言っていた新たな力か?」
 円興は、哀感の空気をかき消すように、にこやかな表情で広野へ視線を落とした。
「み、みみ三津首ひ、広野と、申します」
 広野は、自身の動揺すらも自覚出来ぬほど錯乱している。今まで共に瞑想をしていた初老は、近江国の大国師で、門前に立つ男は、宮廷において仏道を司る役所、僧綱所の重役である小僧都に任じられている高僧であった。
「お主の連れ、少し様子が変だぞ?」
「はは。こ奴は人一倍、僧への関心が強い故な」
 行表は慈愛の表情を見せると、動揺する広野の背中を押し、朱門の中へ入っていった。
 
 
「ここで別れて、いつぶりになろうか」
 行表は笑みを垂らして、内側の朱門を眺めている。
「二十年ほどになろう」
 初老の目はどちらもここにはなかった。道教と行表が決別をした、あの日に戻っているのであろう。
「道教様は、お亡くなりになる直前まで嘆いていたぞ?」
「何を?」
「お主がいれば、もっと、徳の高い治世が出来たのではないかと」
「……。道教様らしいな」
 行表は思わず「くく」と、小さな笑い声を漏らす。そんな行表を傍らに、円興は怪訝な表情を浮かべた。
「して、文に書いてあったことは真か?」
「ああ」
 道教の潔いい頷きに、円興はさらに眉間を深くする。
「お主は、権力とは疎遠の仏道を志すのであろう? お主のあの文は、矛盾しておるぞ」
「…………」
 行表は顔を俯かせ、頬を少し引き締めた。
「ああ、そうだ。あの文は、わしの志とはかけ離れている」
「では、どうして」
「そうじゃな……」
 朗らかな目を浮かべる行表は、不意に、金堂の巨大さに圧倒をされている広野に目を向けた。
「こ奴の、せいかの……」
 広野の頭を、乱雑に掻きむしる。
「ちょう……行表上人。やめて下され」
 皺かれた手を払い除ける広野は、どこか遠慮が含まれていた。
「澄が、行表という名になっただけじゃ。今まで通りの付き合いで良い」
 慈愛の表情を、黒光りする髪に向けると、
「道鏡様が大仏で変わったように、わしは、この広野という童で変わった」
笑みを垂らした。
「この童のために、お主は手を汚すのか?」
 円興は、苦心を纏った鋭い目線を向ける。
「人を救うには力が必要という、道鏡様の考えは、一概には間違いではないな」
 もう一度、朱門へ首を擡げると、行表は覚悟に満ちた眼光となった。
「これが、最初で最後じゃ。わしは、この童のため、手を汚す。新たな希望のため、一度だけ、道鏡様と同じ道を行く」
「…………。そうか……」
 鋭い眼光に、円興は諦めの表情となった。
「やりたければ、やればいい」
 懐かしむ目で、円興は笑みを垂らす。あの日の、道鏡の言葉を再現しようとしているのだろう。
「お主が決めた道じゃ。わしらに止める筋合いはない」
 行表も、笑みを漏らす。
「だが、力がなければいかなるものも救えぬのは確かじゃ。わしの……、わしの力を利用するならば、お主は如何なる力を持つ?」
 行表は広野の肩を持つと、
「新たな力を、作りまする」
 日の光は、三人を包み込むように優しく輝いていた。
 
       〇
 
「失礼しますぞ」
 広間の襖を勢いよく開けた大国師に、居並ぶ三津一族は緊張の張った表情となる。大国師の傍らには、広野の姿もあった。
「お次の大国師様が、我ら三津一族に話があるとは恐れ多いことでございます」
 居並ぶ最上席にいる、三津宗家の男が取り繕いの笑顔をみせる。
「いやいや、皆さまを急に呼び出した挙句、郡司殿の屋敷も貸していただけるとは、真、申し訳ありませぬ」
 一例をし、広野と共に、三津一族に囲まれるように居並ぶ中央へ腰を下ろした。
「早速ですが、話とは何でしょう?」
 広野の父、三津首百枝が睨むような眼光で行表へ顔を向けた。
「…………」
 行表はゆっくり周りを見渡すと、小さな吐息を漏らし、
「三津首広野を、どうか、近江国分寺に入れてもらいたい」
 深々と、頭を下げた。
 広間には慄くような声が響き渡る。広野が寺に入るという噂は、誰もが耳に入ることであだ。しかし、まさか近江の大国師が懇願をするとは夢にも思っていなかった。
 広間に不穏な静寂が生まれる。誰もが、この事態を飲み込めていなかった。
「寺に入ることは広野も望んでいたこと。まさか大国師様に頭を下げていただけるなど、父として、これ以上にない喜びであります」
 百枝も行表に倣い、頭を下げると、
「しかし、広野を寺に出せば、我が古市三津家は後継ぎを無くすことになります。そのことに対し、何か加護というものはありますのか?」
「どのような加護が、お望みか?」
 行表と百枝は、互いに目配せをし、したり顔を垂らした。
「我が一族の意思では、後継ぎを寺に出すならば、いっそのこと血筋のいい宗家の者に継がせた方が良い。という考えでございます。しかし、ここの土地は銭が多く行きかう特殊な土地。とても新参者では領主が務まる土地ではありませぬ」
「して、望みは?」
「古市の三津家が絶えぬよう、近縁の者に跡目を継がせることを朝廷に認めていただきたい」
「…………」
 広間に緊張の静寂が訪れる。
 宗家の男は睨むような目つきを百枝に見せるが、大国師の前では声には出せないようであった。
「それならば……」
 行表がこれ以上にない卑しい表情を作る。百枝も同様に、片頬を吊り上げた。
「宮廷にいる小僧都に一人、伝手があります故、口添えをさせていただきましょう」
「それで、朝廷は認めていただけますか?」
「仏道と権力は、もはや切っても切り離せぬ関係ゆえ、大綱所の重鎮である円興上人の口添えでしたら、何の心配もいらないでしょう」
「それならば、良かった」
 二人の会話は、まるで芝居のような取り繕った口調であった。
「百枝! 図ったな!」
 突如、宗家の男は憤怒の顔で身を乗り出した。
「小僧都に口添えをしてもらうなど、事前に話合いをしたとしか思えん。宮廷への伝手を利用するなど、大国師様の手を汚させて……。そこまで古市郷が惜しいか!」
「わしが……言い出したことじゃ」
 行表は申し訳なさそうに苦笑を垂らした。
「え?」
 宗家及び三津一族は、唖然とした表情を浮かべるだけである。
「この広野という童は逸材での。将来が楽しみで、わしの手で育てたくなったのだ。その見返りとして、事前に百枝殿の屋敷に使者を使わし、一連の話合いを済ませた。すべて、わしの意思でしたことじゃ。円興上人の伝手を使うのも、そもそも広野が寺に入りたいという噂が流れたのも、すべてわしが原因じゃ。どうか、恨み辛みがあるのなら、この行表に言ってもらいたい」
 鋭い眼光を向けつつ、再び頭を下げた。
「…………。大国師様のご意思ならば、仕方ありませぬ」
 宗家の男は、すねた顔つきで渋々口を噤んだ。
「広野‼」
 突如、怒号のような声が響き渡った。
 広間の者が一斉に声の主へ顔を向けると、百枝が眉間に皺を寄せている。
「いいか、広野。お主は滋賀郡の民を裏切り、寺へ入るのだ。中途半端は許されぬぞ」
「わかっております」
 父の眼光に負けず、広野の目は、光り輝いている。
「うむ」
その目に、百枝は何かを納得したのか、眉間の皺を緩めると、
「郡司の道であろうが、仏の道であろうが、目指すところは結局一緒だ。歩く道は違えど、皆、同じように懸命に生き、懸命に立派な人となろうとしている。行き着く先は、皆が皆、一緒なのだ」
 問いかけるように、広野へ言葉を伝えた。
「…………」
 広野は少し、怪訝な表情となる。
「心を一乗に帰すべし」
 行表は、得意顔で広野の肩を持ち、
「そのうちわかればよい」
 朗らかな笑みを見せた。
 行表の朗らかな顔につられ、広野は思わず頬を緩めた。父の百枝もそれにつられ笑みをたらす。
 父と何の邪心もなく笑い合ったのは、いつぶりであったか。
 郡司の屋敷には、今日も清々しい風が吹き渡る。ある一人の童の門出を祝うように、空は青々と澄み渡っていた。
 
          *
 
「見送る立場とは、こんなにも切ないのか……」
「ん? お師匠様、今なんと?」
 近江国分寺の正門も、興福寺に負けず大きく紅い。天の模様も、あの時と同じ、朝の光沢が光り輝いていた。
「いやいや、何でもない」
 行表は、皺かれた手を左右に振る。
その手を見、
「お師匠様が天に召される前に、帰ってこられるか……」
 弟子は悲し気な声を漏らした。
「弱気なことを言うでない。お主が行くのは、仏道の総本山、洛陽であるぞ。日本の里心が抜けぬようなら、唐の僧侶に舐められてしまう」
 師匠の、潜めた眉の中に見せる慈愛の表情に、弟子は納得のいった頷きをする。
「そうですな。洛陽で思う存分、気張ってきます」
 背筋を張り、師匠の目に己の目を合わせる。それだけで、二人は十分すぎる程、分かり合えていた。
「では、行って参ります」
 朱門をまたいだその足は、頼もしく、勇ましい。あの時から二十年以上がたった。寺に入りたいと眼を輝かせていた童は、今、唐の仏道を極めんとしている。勇ましいその背中は、こちらにまで勇気と自信を与える。
あの立派な僧を育てのは己だと、日ノ本すべての民に知らしめたいほど、うれしかった。
「新たな力は、実りましたぞ……」
 そう、天に呟ける弟子が、うれしかった。
 弟子の背中は、だんだんと小さくなる。もはや、声も聞こえないだろう。
 行表は、はるか前方を見据える弟子に慈愛の目を向けると、
「気張れよ、最澄」
 朗らかにほほ笑んだ。
 
                                       
                                       完
 
 
 

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