なぜ大学2年生の秋に茶道部に入ったか

2021年10月、大学の茶道部に入部した。全くの未経験で、靴下の色は絶対に白だったり、畳の通ったら行けない淵、踏んだら行けない場所、物を持つときは一度正座する、物は1つずつ運ぶ、などの数多くのルールに圧倒され縮こまっている。

どっちかというと何かしらのルールにがんじがらめにされることは好きではないし、効率的に無駄なくいろいろなことをこなす方が良いと考えるタイプなので、何かとめんどくさい所作の多い茶道は真逆にあるはずだ。

ではなぜ急に茶道を始めたのか、理由を一言で言うなら、「『民藝の美』を体に染み込ませることによって『健康と美と永続性』をより深く考察できるようになり、『コンヴィヴィアル』な世界とはどうあるべきかを捉え直すため」である。

これを下から順番に紐解いていこう。

まず、僕はエコロジー経済学を専攻し、環境問題に取り組む大学生である。研究として様々な文献を読み漁るが、その中で出会った本が「コンヴィヴィアリティのための道具」である。

この本では、基本的人権が保証された生活すらもままならないような不足のラインを「第一の分水嶺」、さらに社会が発展し、技術の過剰発達によって現在の環境問題のような問題が起こるラインを「第二の分水嶺」と定義した上で、両者の間にあるちょうどいい状態を「コンヴィヴィアリティ(自立共生)」だとし、行き過ぎた産業社会を批判した。

先ほど茶道には何かとめんどくさい所作が多いと書いたが、コンヴィヴィアリティは産業主義的な生産性の正反対を明示している点で、茶道が効率性を追求していないということと共通するだろう。
しかし、著者イヴァン・イリイチは「美」に関しては特に言及していない。(してたらごめんなさい)

そこで「スモールイズビューティフル」だ。同じ1973年に出版された本で、著者E. F. シューマッハーは、唯物的で精神性のない経済を批判し、貪欲や嫉妬心のままに成長を求めるのではない「足るを知る」経済学のために仏教経済学という概念を提唱した。

その本の第2部、第2章: 「正しい土地利用」の中にこのような記述がある。      

大地の上での人間の営みのすべてが健康、美、永続性の三大理想を目指すような政策を模索していかなければならない。(中略) 健康、美、永続性といったようなことはそもそもまじめにに議論されることさえない。そして、これが人間的な価値が無視されている第二の例である。人間的な価値の無視は、すなわち人間の無視であり、これが経済至上主義から必然的に生まれてくる害悪なのである。p149                     

ざっくり例えると、海洋プラスチックを無くすと魚からマイクロプラスチックを摂取することがなくなり健康であるし、海や海岸はしいし、地球の永続生も担保されるということであり、人間の活動においてこの三大理想の実現はとても重要な課題なのだ。

その中で僕は「美」について疑問を持った。この本のタイトルの「スモールイズビューティフル」も美だ。アップルの製品は一切の無駄がない超効率的なデザインとして美しいと論じられるが、それら工芸品は、先ほどのイリイチが「陳腐化」といって明確に否定している。新型のiPhoneが出たら旧型のiPhoneの価値が下がるということだ。

では本物の美とは何か、そうして「美」について突き詰めて行った先に見つけたのが、柳宗悦の「民藝とは何か」だ。

この本は、「民衆が用いる工藝品」を民藝品とし、その最も深く人間の生活に交わる品物の美しさを論じたもので、「民藝の美」を最初に認めたのは紹鴎や利休などの「初代の茶人達」であるという。ここでやっと茶道の登場だ。

そして「茶の美は下手の美」であるとした。「下」は「並」の意、「手」は「質」や「類」の意であり、「普通であることの美」だという。

また、民藝品の対義語である「工藝品」は安価性や効率性を追求するせいで、美から離れていってしまう。民藝品の「用」を追求することこそが美しいのだというのだ。つまり、民藝の美とは多くのものを求めすぎない、普通であることの美なのだ。

貴族的なものは優れている場合でもどこか弱く、実用的な民器は貧しい場合でもどこかに健やかさが見えます。そこには生ける生命の美が現れています。
あの平凡な世界、普通の世界、多数の世界、公の世界、誰も独占することのない共有のその世界、かかるものに美が宿るとは幸福な知らせではないでしょうか。否、かかる世界にのみ高い工芸の美が現れるとは、偉大な一つの福音ではないでしょうか。平凡への肯定、否、肯定のみされる平凡。私は民藝品に潜む美に、新しい一真理の顕現を感じるのです。p58~59

このような本質的な美の中心に据え置かれる民藝。茶人達は利を求めず、用の美を追求し、長く持続的で文化的な世界を無心で形作っているのだ。

という訳で「『民藝の美』を体に染み込ませることによって『健康と美と永続性』をより深く考察できるようになり、『コンヴィヴィアル』な世界とはどうあるべきかを捉え直すため」に茶道を始めたのだ。

茶道の世界から学べる民藝的な、最低限で清貧的な暮らしはとても健康的で美しく永続的なのであり、そしてそれはイリイチの言うコンヴィヴィアルな世界に限りなく近いのだろう。

今後の茶道ではまず型を覚え、一つ一つの所作に文脈を持ちつつも感覚的な美しさを極めるように努め、ケインズのような100年を見据える経済学ではなく、その先にある1000年スパンでの永続性を持った経済学を考察していきたい。

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