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茶道部における思想の形骸化と永続性

茶道部に入って約3ヶ月。週1で朝準備をするのと先輩に稽古を付けてもらうのを繰り返した。僕の入った茶道部は何十年もの歴史があるそうだが、その時代を超えた日常の茶室や庭、茶器と対話しながら時間を忘れる美しさに魅了され、今後100年は続けていこうと決めた。

そんな中、少しマイナスな面も見えてきた。「思想の形骸化」だ。僕は環境問題に対処するためのキーワードとして茶道を学ぼうと決めた。茶道の言葉でいうところの「道・学・実」の「学」の部分をある程度明確にして入部したので、歴史や茶道の美の文脈は理解しているはずだ(とは言っても3割にも満たないだろうが)。本で聞きかじった知識を使って部の現状を見ると、以下の2つの点が問題として挙げられる。

1つ目は「不可という指示」だ。茶道部の資料の中には正装規定が明記されている。一見普通のように見えるが、内容を見ると、

​スーツ:黒・紺・チャーコールグレーのもの。ダブルスーツは不可
ネクタイ:華美でないもの。葬式の時のみ黒無地。
靴:黒革靴で地味なもの。派手な装飾は不可。ただし、シンプルな銀の留め具などは可。光沢素材、エナメル靴の中が派手なものは不可。

など「やってはいけないことリスト」が並んでおり、まるで学校の校則だ。

茶道の思想としては、足るを知る、清貧のような質素な暮らし中に、飾らない自然の美しさを見出すもののはずだが、その重要な思想が形骸化し上部の形式だけ残った感じがする。こうするメリットとしては、いちいち考える必要なくして、例外を認めませんと一蹴できる点だ。画一化はしやすい。

2点目は「厳しい」ことだ。茶道部は1960~80年代の日本社会をそのまま投影したような構造である。例えば、月に1回土曜稽古というものがある。これは朝準備から稽古まで一連の流れを通した後に、正座で30分くらい先輩からお叱りを受けるというものである。この稽古の本質は、改善を促すことではなく、ダメ出しである。

なぜか土曜稽古の時だけ呼び捨てされ、良かった点は伝えられず、悪かった点のみを不機嫌な態度で淡々と告げられるのだ。その光景はさながら「失敗の本質」における上意下達のコミュニケーションで、大声は論理に勝るのである。

これは僕の予想だが、元々は技術を正しく伝承するために土曜稽古が行われていたのだと思う。茶室では携帯で撮影したりメモをしたりすることができない。伝える方法は見て、聞いて、感じるしか無いのだ。その文化では毎月厳しく細かい所作までを指摘してもらい、改善していく必要があるはずだ。しかし、ある時を境にその正しい知識を伝えるという思想が形骸化し、厳しくするという形式だけ残ったのだろう。

ここでもメリットを考えていきたい。やはり画一化しやすいのは大きなメリットだ。思想を100%共有するには何十年も修行が必要になるだろうが、厳しくするという目的を達成するためには思想は必要ない。形式主義は楽なのだ。

以上の「不可という指示」、「厳しさ」の点から思想の形骸化について述べていったが、一つ疑問が生じた。

でもこれで500年以上伝統が続いてきたならそれが最適解なんじゃね?

ということである。形骸化しつつも茶道という形自体は継承されている。厳しく意味なく縛られている方は気持ちの良いものではないし、もし形骸化することがなかったら今も日本中で愛されているのかも知れない。しかし、「不完全を愛する」なんて理想論すぎて本心から理解するには何十年もかかるのだ。ある程度風化させつつ形を残すのが良いのだろうか。

もしかしたら文化や歴史が永続的であるためにはある程度思想を形骸化させた上で形式主義的に技を継承していく必要があるのかも知れないが、それは道路に落ちた紅葉を掃除するような物寂しさがある。

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