映画『細い目』ヤスミン・アフマド監督

初めて聞いた監督名だった。ヤスミン・アフマド(1958-2009)はマレーシアの映画監督で、母方の祖母は日本人であり、イギリスで教育を受けて、TVの世界で働いていたそうだ。2003年に『ラプン』で映画デビューし、2009年に脳内出血で亡くなるまで。わずか6年間の間に6本の映画を製作したが、いずれの作品も国内外から注目を集めた。

『細い目』は2004年に撮られた映画だ。
冒頭は言葉から始まる。
「慈悲深くあわれみ深いアラーの名において」という字幕と、アラビア文字で書かれた言葉。イスラム教にまつわる話が始まるのだろうか。
するとカメラはある家のリビングをパンしながら見せる。そこには中国人と思われる母と息子が佇んでいる。息子は一冊の詩集を読み上げる。ロマンチックな詩だ。詩人はインドの人だという。母は「不思議ね、文化も人種も違うのに心に伝わってくるものがある」という。
また、場面が変わる。
マレー語だろうか。教典のようなものが映されて、それを読み上げる一人の美しい少女。頭から全身白の装束を身に纏っている。祈りの時間なのだろうか。終わるとさっと身を翻し、タンスを広げる。そこには壁一面に金城武の写真が貼られている。

ここまで見ただけで、この映画は複数の人種の人たちが絡み合う物語なのだなと思う。何も予備知識なく見てしまうと、一瞬どこの国の映画なのかわからなくなるだろう。イントロだけで、それだけ多様な人種が話が出てくるのだなと予感をさせる。

この話は、金城武が大好きなマレー女子のオーキットと海賊版のDVD販売をしながら詩作をするロマンチストの中華系男子ジェイソン(後に明かされることになる中国名リー・シャオロン)の恋の物語だ。若い男女の初恋の物語というと甘ずっぱく感じられるが、ここは多民族国家マレーシアだ。同じ町に生きていながらも、目に見えない壁がたくさんあるのが端々から伝わってくる。映画タイトルの言葉もそうだ。「細い目」とは、中国人のことを揶揄するマレーシアの言い方である。同じく細い目の日本人である私も、同じようにくくられるのだろう。

2人が出会うのは市場だ。ジェイソンは海賊版のDVDを販売しており、オーキッドが金城武の映画を探しに店へ行った。ジェイソンはオーキットと目が合うなり、一瞬で恋に堕ちてしまう。

オーキットは友人の女の子リンと2人でいたのだが、この2人がまた対照的な存在として描かれる。オーキッドは「植民地の人間が被植民地の人間に与える精神的影響」という内容の本を読み切れ長の目の男性がタイプ。白人を崇拝し西洋かぶれな被植民地の文化に対し懐疑的な視点を持っている。一方のリンは、レオナルド・ディカプリオに憧れていて、ジェイソンに対しても冷たい態度をとる。
オーキットは言う。
「相手が好きなら民族なんて気にしない。危険なのは憎悪を抱く場合よ」と。
2人は英語で会話をする。家庭での公用語も英語だ。
ジェイソンは、金髪に髪の毛を染め自らをジェイソンと名乗る。

オーキットは、学校でリンの彼氏から中国人の男と付き合っていることを噂になっているぞと揶揄され、「無教養丸出し」と反論する。「マレー男は多民族の女を妻にしてきた。歴史はご存知?マレー女も同じことをして何が悪い!」とまくしたてる。その後、リンと彼氏は「何の話をしているかわからない」と笑ってその場を立ち去る。無邪気な差別者とは彼らのようなことだろう。オーキットが真剣な話をしていることを何となくわかっていながらも、薄笑いして流してしまう。

映画を見ながら、10代の頃だったと思うが、母親から言われたことを思い出した。「どんな人と結婚してもいいけど、色の黒い人は困る」と。それは、母が祖父から言われたことだそうだが、私には全然意味がわからなかった。私に外国人の彼がいたわけでもないのにと思ったが、納得できなかったので何故なのかと食い下がったら、おじいちゃんが嫌だと言っていたから困るとしか母は言わなかった。記憶力の悪い私がはっきり覚えているので、きっと言われたのは一度じゃなかったんだと思う。

「相手が好きなら民族なんて気にしない。危険なのは憎悪を抱く場合よ」

オーキットの両親とお手伝いのカッヤムのやりとりは、ときに緊張感が走る映画の中でも常に和ませてくれる。父親が「中華野郎と付き合ってるのか」というと、母親は「野郎じゃない、男の子よ」と言い。「女のことは百年経ってもわからない」と父が言うと「わたしたちを理解するより、ただ愛すればいいの」と母。その後も、母親とお手伝いさんは、常にオーキットの味方である。
後に、ジェイソンと娘の姿を見て、父母お手伝いさんの3人で話をするシーンがあるのだが、しみじみいい。「醜男だ」という父親に対し、中国ドラマ好きの母親とお手伝いさんは、ドラマの主題歌と思われる歌を2人で口ずさみ「ジェイソンはいい男だ」という。これを見てると、人種差別うんぬんより前にドラマの影響力というのは絶大だなと思う。

ジェイソンと友人のキョンとのやりとりでキョンが発した言葉、
「妙な感じだ。マレー系は苦手というか、嫌いってこともないが、興味が出てきたの初めてだ。オーキットと出会ったからだ。心境の変化かな」
が印象的だった。知らないものは「苦手」というカテゴリに入れてしまうのだけど、一般名詞の“マレー系”ではなく個である“オーキット”と出会ったことで、“マレー系”の印象が変わったのだ。
続けて、
「数百年前には可能だったマレー系と中国系の結婚もぜんぜん簡単だったのに、文明化された現代の方が逆に難しいなんてなんでなんだと思う?」
というキョンの問いにジェイソンは、
「人は考え過ぎだ、集団になると暴走する」
と答える。

ジェイソンとオーキットの愛の結末については、ぜひ映画を観て欲しい。ひとすじ縄でいかないのはわかる。繰り返すが、この映画はマレーシアで2004年に撮られた映画だ。この映画の面白さは、人種間の問題を取り扱い、その壁を2人がどう乗り越えるかというだけの単純な話になっていないところ。キョンだったり父親だったり、最初は懐疑的だった周囲の人間たちが、少しずつ隣にいる人種に対し身近なこととして考えられるようになるところがリアルだし、最初の“中国野郎”とか“苦手”というフィルタみたいなものが取っ払われてはじめて肌感覚としてわかる問題になるのだと思う。昨今の黒人差別問題にしてもそうで、私には黒人の友人はいないが、どうすれば身近な問題にできるだろうと考える。もちろんこの問題は黒人のことだけじゃない。本当は身近な問題じゃなかったとしても胸を張って「すべての差別はいけない!当たり前だよね!」と言えなければいけないのだろうけど。以前の私なら、キョンのように差別するとは言わなくても知らない相手に対し“苦手”って言ってしまうこともあっただろう。んー、ダメだそれじゃあ。もう、知らないでは済まされない。想像を広げて解像度をあげていかねばならないし、そういう場面に出会ったら毅然とした態度とユーモアも持って接したい。失笑して済ませないで、笑えませんよと言いたい。言えるかな。

映画や本は、想像への入口だ。オーキットも母とお手伝いさんも本やドラマから違う国の文化を感じていたしね。ジェイソンもそう。インドの詩人タゴールの詩で心が動かされていた。私もそうありたい。映画『細い目』は、私の細い目を見開かせてくれた。まだまだ、言えることは少ないが、“想像する”ことを止めず考え続けていきたい。

公式サイト
http://moviola.jp/hosoime/


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