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賞レースに参加しない理由

前回の記事で告知していた通り、今回はゲームコンテストに対しての個人的思いを書きます。
感情的になりそうなので、読みにくい部分出てくると思います。
支離滅裂フラグを先に立てておきます。

大前提として、ゲームコンテストを始めとする賞レースを否定するものではなく、あくまで僕個人が賞レースに参加しない理由を書くだけです。賞レースというコンテンツそのものは楽しいイベントであり、素晴らしいものと思っています。


さかのぼること中学二年生。
国語の先生に出された夏休みの宿題は、”文章による創作”でした。
その頃ちょうど小説的なものを書いていたので、『いいやこれ完成させて提出しよ』とクソガキ全開な思考。宿題なんてつまらんものはさっさと終わらせて早く夏休みを思いっきり楽しみたかったのです。

初めて書く小説でした。
ざっくり言うと、三人の中学生が、未亡人なお婆さんに日々会いに行く話。
初めは退屈しのぎで通っていたものの、お婆さんの余命を知り、自分たちにできることはないかと考えた三人が試行錯誤するというものです。

僕自身、日常が退屈で仕方なかったんだと思います。だから自分と歳も変わらない主人公で、現実では体験できない話を書いてみたかった。
当時、僕の祖母はとても元気でした。そして身近な存在でもありました。
中学生という立場では小説に落とし込めるロールモデルが限られます。
そこで話の核となったのが『お婆さん』だったわけです。
優しくて明るくて、ちょっと口うるさいおばあちゃん。
いつの間にか、というか必然的に、作中のお婆さんと現実の祖母を重ねるようになりました。

そんな個人的感情モリモリの未熟なフィクションを
宿題の提出物にしたのが間違いだった。

夏休みが明けて数週間後、僕は国語の先生に特別教室へと呼び出されました。僕の提出物をお気に召した先生が、コンクールへ出したいと言ってきたのです。
初めて書いた小説に対し、そんな言葉を言われたのが嬉しくて舞い上がりました。僕はふたつ返事で承諾しました。

そんな興奮も冷め、なんならコンクールのことも忘れかけた頃、再び先生に呼び出されました。
コンクールの結果が出たのです。名前はよく覚えていませんが、そのコンクールにおいての最優秀賞でした。
嬉しいという感情より『なんで??』という気持ちが強かったです。
朝会で表彰したいと言われましたが、全力で断りました。
バスケ部を辞めた奴が小説で賞を取った、と思われるのが恥ずかしかったんです。訳わかんないですよね。でも中学生ってすごく複雑で多感でどうしようもない時期なんです。当時の僕にはとにかく嫌だったんです。

自分が書いたあんなものがなぜ受賞した?他のレベルがあまりにも低かった?
多作品がすごく気になりました。

それを読む機会はすぐに訪れました。
地元にある大型の公民館に、応募作品のコピーが展示されるイベントが催されたのです。

あの衝撃は今でも覚えています。小説の内容は覚えていないのですが、あの衝撃を忘れられないのです。数多の作品が、とても素晴らしかったのです。”僕の目から見て”僕の書いたものより遥かにおもしろく、語彙も表現もレベルが違いました。

最終選考まで残った3作品には審査員の感想も添えられていました。
僕の作品に対するコメントはまさしく『大人が綺麗な言葉を並べ、物語を知りつくしたかのようにメッセージ性まで語るもの』でした。
そんな大げさなもんじゃないのに…というのが作者の正直な感想です。
ただ、この作品を評価した審査員の母数が多かった、というのは事実。
中学生の僕には、物事を広い視野で受け止められる器量がありませんでした。
読み手がどんな感想を持つかは自由なのに、当時の僕は納得できなかったのです。

誰もが驚くような、自分だけでなく誰もが納得してしまうような、とんでもなくおもしろい小説を書いて、その上でまた賞を取ってやる。そんな情熱で望んだのが翌年です。

結果、見事に何の賞も得られませんでした。
最優秀賞を取るためだけ、斬新さを追い求め、そのことに力を注いだ結果です。
結果を聞く前から特に思い入れのない作品だったので悔しさもなかった。


それをきっかけに僕は気づいたのです。
物語を書きたい、文字にしたい、読みたい。
これらは”自分でコントロールするもの”
つまり作品として形になるだけでこれは達成されている。

賞を取りたい。褒められたい。
これらは”他人がコントロールするもの”
自分でどうこうできるものじゃないんです。
受け取り手の感性だったり運だったり。

創作の楽しさとはなにか。
読み手に褒められること?認めてもらうこと?
根本は違うはずですよね。

賞レースに参加すること自体はお祭り気分で楽しめる。
受賞したら嬉しい、おめでたい。それは間違いない。
だけどそこに『勝敗』を持ち出すと話は変わってくる。
優劣なんてないんです。
作り手が一生懸命に情熱を注いだその作品は、
もうそれだけで充分な価値を持っているのです。
『誰々の作品より上位だった、下位だった』
こんなことは僕から見ればクソにも満たないくだらない感情。
そんな感情のために創作してるのかと。
あなたの創ったキャラクターたちはそんなことのために存在する駒なのかと。

数字というのは一番わかりやすく伝える方法ではあります。
『〜の受賞歴あり!』も実績としては立派。
でも何か…評価されることに固執してしまっている世の中にどうしても違和感を覚えてしまうことが多いです。
趣味でやる創作ってもっと自由で、縛られないもののはずなのになぁと。
これはフリゲー界隈に限った話ではなくて。
ビジネスが絡んでくると、当然そんな単純なことではないけれど。

長々と主観を語りました。
そんなわけで、今もなお改善を繰り返している未完成品なSING FANTASY
今はこの作品をもっともっとおもしろくして、ちゃんと完成させたいという想いがとにかく強いのです。
この作品が完成する頃にでも、賞レースに出してみたいと思えることがあるのなら、それは僕が制作者として違うステップを踏み出したことになるのかもしれません。

仲良くさせていただいている制作者のある方は、広報の為に参加する様です。
それもまたその方らしい自由で素晴らしい発想だなと思いました。
自作品を見ていただくには、まず母数を増やさないことにはどうしようもないので。その方の考え方や作品に対する姿勢が個人的にとても心地よく、勉強になります。

大人になったつもりが、中学時代の体験でいまだにモヤっとするのは僕自身まだまだ精神的に未熟なのかなぁと思います。
ただこの未熟さゆえ描ける世界もあると思うので、今はこれも武器にして、自作品をもっと楽しいものにできるように活かしていきます。

長文を読んでいただきありがとうございました。
また次回の記事でお会いしましょう。

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