レコード神社『THE BEATNIKS』


音楽遍歴を振り返った時
もっぱら私は一人で音楽を聴いている
ライブに行きたい欲求がないわけではないが
本を読むように音楽に浸る時間を愛している。
コロナ関係なく子供の頃からそうなんです。

会場で熱狂を共有したい気持ちは全くと言っていいほどない。
もちろんスポーツ観戦に行きたいと思ったこともない。

そんな私のような人間にとって
『THE BEATNIKS』はとても相性がよいと思われる。
これは名盤の予感である。

CITY POP人気の次は『THE BEATNIKS』が来るのではないだろうか。

70年〜80年後期までの間に作られた音楽
渋谷系のムーブメントが始まる前の音楽には今だに解き明かされていない
魅力があると思っている。
令和になった今、音楽制作の現場ではDTMが活躍している、
言ってみれば自宅でもエレクトロミュージックが簡単に作れてしまい
発表までできてしまう時代になってしまった。
ベットサイドミュージック、プライベートミュージックなんて言葉を聞くと
巨匠 ナイアガラ大滝詠一師匠が 福生スタジオで仲間を集めて
録音をしていた、時代に思いを馳せてしまう。
平成が始まる前のエレクトロミュージックにある種の熱量を感じるのは
音楽が産み落とされる環境も関係して来るのかもしれない

<時代の継ぎ目>

何かが変わろうとするときの一瞬のきらめきが『THE BEATNIKS』にはある。
古くもなく新しくもない不思議な鮮度を保ち続けられる
あの噂の二人の動向には目が離せない。
高橋氏と鈴木氏のキャリア自体が
日本のポップ・ミュージックの歴史なんだといっても大袈裟ではない。
ムーライダースから聞くのもいいし
ミカバンドから聞いてもも今だに発見ありますよ。
ひねくれながらも自己更新を継続させていくロック魂は
ロックと一緒に大人になった人だからあるこそ
持っている感覚なのでは

ナイアガラ大滝氏に『やっぱり君はサイケな人だね』
と鈴木氏が言われたという
鈴木氏の音楽を理解するあったてこれほどフィットする言葉はないなと思う。
ここでいうサイケとはドラッグを決めてトリップすることではなく
「自己変容」=『自己更新』のこと
<変わりつづけられる自分>を受け入れられる
<自分の土壌を耕す>事が
ある種の清潔さと柔らかな広がりと豊かさをもたらしている。
ブライアンウイルソン的だな〜なんて思い
一人早朝にペットサウンズ。

自分の土壌を耕す

それってどういう事?

父親が何十年ぶりかでサイモン&ガーファンクルの来日公演を見にいった時
歌声の第一声で涙が流れたなんて話をするんですが

あれって60代の自分と一緒に10代の自分が泣いてるじゃないかって
思えるんです。
昔を懐かしんで、思い出して涙が出るんじゃなくて
「今」に10代の自分が予期せず対峙できることに
感動したんじゃないでしょうか。
音楽に感動することに様々な実感が含まれるのは当然ですが

『THE BEATNIKS』の音楽に込められた
両氏の経験から生み出された<感動と実感>が
リスナーの忘れかけた感覚を呼び覚まします。
はじめてレコードに針を落とした
あの日の感動です。

センスなんだな

必要なことはセンスなんだと思いますよ。
ただセンスってどうやって磨くんでしょうね。
高橋ユキヒロ氏ドラムを聞くとこれはセンスある人だなって感じますよ
その後のMETAFIVEにもちろん繋がってはいくんですけど
リンゴスターのリズムの跳ね方や
跳ねたドラムの後にAメロに入るとこなど
空手じゃないんですけど「型」を感じますよね
「自分の型」これが作れればセンスをそこに入れ込めるのでは?

『型』を作るためにはやっぱり模倣ですよね。
ビートルズから始まって楽器を持つというスタートには誰でも立てるけれど
音楽を更新させるための『型』を身につける事が
本当は大切なんでしょうね。

健康のためにドラム始めたくなりました。
中高年健康ドラム道場、どこかにないかな。








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