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映画感想『NOPE/ノープ』(1)

前書き

映画好きなのですが、ここ数年はあまり観れていません。
これだけは!というものを、月1くらい映画館で観ています。
なので、大概どれも「おもろい!最高だぜ!」てな感じなのですが、先月末に観た『NOPE/ノープ』は後を引く魅力があって、思わず2回目をIMAXで観に行ってしまいました。
感想をツイッターで漁ってはホクホクしている今日この頃です。
積もった思いの丈を出力したくなり、感想をだらだらと書いてみます。
なお、出来るだけ前情報なしで観た方が良い作品ですので、興味のある方は一刻も早く劇場へ。
ここから先は、ネタバレしています。

あらすじ

舞台は南カリフォルニア、ロサンゼルス近郊にある牧場。
亡き父から、この牧場を受け継いだOJは、半年前の父の事故死をいまだに信じられずにいた。
形式上は、飛行機の部品の落下による衝突死とされている。しかし、そんな“最悪の奇跡”が起こり得るのだろうか?
何より、OJはこの事故の際に一瞬目にした飛行物体を忘れられずにいた。
牧場の共同経営者である妹エメラルドはこの飛行物体を撮影して、“バズり動画”を世に放つことを思いつく。
やがて起こる怪奇現象の連続。それらは真の“最悪の奇跡”の到来の序章に過ぎなかった……。
(公式サイトより)

作品の魅力

なにはさておき画のスゴさ。
冒頭の不穏過ぎるシーンから、最後のカットまで、痺れるのがビシバシ出てくる。
「これ観ただけでお腹いっぱいだぜ」みたいのがいくつもあって、これは劇場だからこその醍醐味ですね。
さらに音の演出も素晴らしいので、鑑賞は劇場で是非に。

登場人物も魅力的!
出てくる人数は多くないんだけど、みんなしっかりキャラ立ってるし、背景を感じる余白がある。
さらに、濃いめの脇役二人でアクセントが効いてて素敵。

お話について。
転調の鮮やかさ、ギアチェンジの心地よさ、サイドストーリーによる良い意味での雑味が楽しい。
以下、頭からお尻まで、かけ足で振り返り。
冒頭、キレキレの謎エピソードが断片的に語られます。これで不穏の影が心にザクッと刻まれる。
前半は、SFでスリラーな味付けでじっくりと演出。ローギアでじわじわ進めます。不穏の影は深く濃くなっていく。
中盤、冒頭のエピソードが回収されますが、このシーン、インパクトの強さに対して本筋への影響のなさが「!?」なんですよ。
画のスゴさで心のギアが一気に上がるのに、本筋にリンクしてこないんで頭がびっくりしちゃう。(もちろん無意味ではなく、とても大事なエピソードなんですが)
そこから、待ってましたの大惨劇どかん!
この流れで情緒をだいぶ破壊される。
加えて追い打ち、夜の館シーンが画、音ともに最高でゾクゾクさせられっぱなし。もう、かなりお腹いっぱい。
少し休憩を挟んで後半に入りますが、ここからお話が転調。SFホラーだったのが、リベンジアクション(西部劇風)になる。
この逆襲劇への転換がめちゃアツ。破壊された情緒に火がつきます。業火。
今までやられっぱなしだった相手をやっつけたるぜ!という展開に、これまで明に暗に示されてきた、苦しみ、反骨精神やらが上乗せされるエモさ。
終盤、トップギアで突っ走る高揚感は、圧巻の画に劇伴の素晴らしさも相まって唯一無二。
そして、最高のエンディング。

作品のテーマ

パンフレットでジョーダン・ピール監督へのインタビューなんかを読むと、
「いわゆるサマー・イベント・フィルム(夏休み向け大作)を作ろうと決めた」
「偉大なるアメリカンUFOムービーを作ってみたい。これぞ“空飛ぶ円盤ホラー映画”というやつを」
「この作品の根底にあるのは“人はスペクタクルに取り憑かれていていいのだろうか”という疑問だ」
「自分たちの仕事の評価しつつも批判する作品にしたいと思っていた」
「この作品の核にあるのは兄妹の物語」
「コロナ禍において、娯楽作品であること。観客のみんなが現実を忘れるきっかけになれば嬉しい」
等々とあって、これで大体語ってしまってる様にも思うのですが、2回観て、反芻して、思うところを。
まず、最初の土台にあるのは、“スペクタクル”であること。人々の憂さを晴らすような娯楽作だということです。
それは、過去2つの監督作と比べても明らかで、『ゲット・アウト』や『アス』が、(スリラーとしての演出は冴え渡っていたものの)ひねりの効いた脚本主導で魅せる作品だったのに対して、本作は画と音で観客をグイグイ引っ張る力強さに満ちています。
そのこだわりは、ハリウッドを代表するスペクタクル映画の巨匠、スピルバーグへのオマージュとしても表れています。
『未知との遭遇』、『E.T.』、『ジョーズ』、『ジュラシック・パーク』……ピール監督の世代(1979年生まれ)にとって、正に血肉とも言える作品たち。
これら“スペクタクル”へのアプローチが、スリラー、ホラー寄りであるのは、やはりジョーダン・ピールの味でしょうか。
その土台の上に乗るのは、過去作同様の風刺的な視点です。すなわち、“スペクタクル”=見世物の、負の側面について。
見世物を、見る(撮る)者と見られる(撮られる)者との関係で捉えた場合、どうしても見る者が優位となる構造があります。
見世物とは、往々にして見られる者たちの犠牲の上に成り立ち、その歪な対立構造を逆転させたしっぺ返しが、作中で繰り返し提示されます。
ゴーディの暴走事件、ラッキーの撮影失敗、Gジャン(UFO)と人間たち。
そのしっぺ返しを回避する方法が「相手と目を合わせない」ことなのも興味深く、これはつまり「自分は見る者ではない=見られる者からの復讐を受けない」ということでしょう。
さらにピール監督は、見世物を作る過程で、あるいは見世物の中で、消費されてきた者たちにもスポットを当てます。
ヘイウッド兄妹の経営する牧場、彼らの先祖である黒人騎手、俳優業をドロップアウトしたリッキー“ジュープ”、みな華やかな表舞台の影ともいえる存在です。
そんな彼らが立場を逆転しようと足掻くのが、やはり見世物を作る(撮る)ことであるのは、この作品の何とも皮肉で複雑なところです。
これは、登場人物にとっては矛盾をはらんだ意趣返しですが、作り手にとっては揺るぎない信頼と愛の表明ではないでしょうか。
決して綺麗事だけではない見世物の世界だけれど、それでも、その力をピール監督は信じているのです。
それを示すのが、ヘイウッド兄妹の関係です。
牧場の共同経営者である二人は、序盤、折り合いが悪く、疎遠になっている様子が窺えますが、UFOの撮影(=見世物作り)を通して、かつての信頼関係を回復し、強固な絆で結ばれていきます。
クライマックスにおいて、それまでUFOと「目を合わせない」ことで危険を回避していた二人は、しっかりと対象を見つめます。
「見世物を作ってやるぞ」という強い決意表明、そして、お互いの視線を交わすことで絆を再発見します。
二人の関係を象徴する「見てるぞ」のハンドサインが、見世物の持つ「見る者と見られる者」の対立構造を上書きし、これまで見世物に消費されてきた者たちによる“スペクタクル”として完成するのです。