鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(42)
キナ臭い空気が鼻腔の奥に、耳障りな声が鼓膜の表面に今も残っているようだ。
「あいつ、死んじゃいないよ?」
頬の傷を手で拭い、腕を振って血を落としてからラドムは傍らの少女を見あげた。
まだ幼いと形容できるラドムとて、これまでの人生で戦争や虐殺に間近に接してきた経験を持つ。
ああいう奴への対処法が、二つしかないのは分かっていた。
確実に息の根を止めてしまうか、さもなければどこまでも遠くへ逃げるかだ。
しかしアミはそのどちらも取るつもりはないようだった。
廃墟村をうろついて、そこから出る気配はない。
「何で逃げないの?」
ラドムの問いに彼女は足を止めた。
キッと唇を結んで、その表情は固い。
「ヤツを泳がせる」
「泳がせるって……」
直情型のアミにしては珍しいことを言う。
《武器庫》の情報をリークしたという人物のことが、気になって仕方ないのだろう。
「アミ、あれはデマかもよ?」
いい加減な情報を与えられ、まんまと泳がされてはたまらない。
「何も考えるなよ。アミは脳筋なんだから」
「……脳筋なんかじゃない!」
格闘を得手とするものの、右手のない今のアミが、ナイフに軍刀、まして銃に対抗できるはずもない。
何を考えているか知らないが、余計な策略は捨ててここから退散するのが最適の選択だ。
さもなきゃ命取りになる。ラドムとしてはそう思うのだが。
「嫌な感じだ……」
薄ら寒さを覚えて、彼はしきりに周囲を見回す。
先程から道なりに進んでいるのだが、ある一点に追いこまれていくような妙な感覚を覚えるのだ。
土地勘がない上、廃墟村をうろついているということで精神が萎縮してしまって、それで周りの全てが不気味に映るだけなら良いのだが。
「待って、アミ」
──やっぱり何か変だ。
そう言いかけた時は、すでに遅かった。
少女の歩みは止まらず、その足音は石畳に高く反響する。
「何?」
アミが立ち止まったのは、ラドムの注意に耳を傾けたためではない。
己の足音。やけに大きく響いたそれに、違和感を覚えたのだろう。
石畳の街路は、自然に蛇行して袋小路へと続いていた。
彼女の後に続いてそこへ入ってから、ラドムも足を止める。
四方よりの圧迫感。
身が竦む感覚。
その狭い空間は、周囲を四、五階建ての建物にぐるりと囲まれていた。
そして正面には、こちらを見下ろすようにそびえる鐘楼。
「アミ……」
逃げ道のないこの地形は何だ。
こちらを振り返った彼女の灰色の瞳も、不審気に細められている。
「ラドム、何か臭わないか……?」
彼女の鼻腔がヒクヒク動くのに、視線を捕らえられたそのときだ。
鼓膜に異様な振動を覚え、ラドムはその場にうずくまった。
足の裏に微弱な揺れを感じたのだ。
そのわずか数秒後のこと。
目の前の家屋。
その一、二階の窓硝子がこちらに向かって一気に砕け散ったのは。
同時に爆音。
建物に仕掛けられた爆発物が、次々と引火していく轟音が続く。
降り注ぐ硝子片が雨後の虹のように宙でキラキラ輝く様子に、ラドムは一瞬見とれていた。
「クソッ!」
虹を浴びながら鋼鉄色の少女が火の粉を払う。
追い込まれたのだと悟ったときには、もう遅い。
何とか袋小路からの脱出を試みるも、次々と起こる爆発と崩れる壁に阻まれて、それもままならない。
「ラドム、危ないっ!」
落下する煉瓦から少年を守ろうと、アミはその腕を強く引いた。
「うっ!」
悲鳴と共によろけ、そしてラドムは目撃する。
鐘楼の上から、こちらを見下ろす長身の影を。
見えるはずがない。この距離だ。
しかし、いやらしげに細められる充血した赤い双眸までもがはっきり分かる。
その手元に黒光りする筒を見付けて、少年は声をあげた。
それは少女の名前だったかもしれないし、敵への呪詛の言葉だったのかも。
どちらにしても声が相手に届く前に、小柄な身体は跳躍した。
咄嗟の動きでアミの前に飛び出したのだ。
途端、全身に凄まじい痺れが走る。
「ラドムッ!」
彼女の叫びがいつになく急いて聞こえ、同時に銃声が空に轟いた。
残響がいつまでも耳の奥に鳴り響く。
火の粉舞う狭い空。
視野の端に微かに銀色の流れ──あとは、闇。
ラドムの意識はそこで途絶えた。
再び目覚めた時、傍らに鋼鉄の乙女の姿はなかった。
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