見出し画像

自分から自分へ。忘れたくないこと。

これは、未来の自分に残したい備忘録のようなもの。

大学生の頃、バックパックを背負って旅をしたことがある。中国・ベトナム・カンボジア・タイ、1人で2週間ほどかけて旅をしてみた。宿もプランもすべて現地調達。片言の英語以上に、大げさな身振り手振りでコミュニケーションを取りまくった。あんなに身体全身をつかって必死に伝えようとしたことは後にも先にもあの時がピークだったかもしれない。

そのときの記憶は鮮明で、すべて覚えている。

ぼったくられそうになったことも、国境でイジワルな税関に通せんぼさせられたことも、アンコールワットに登って昼寝をしたことも、知らない外国人たちと夜な夜な宴会をしたことも。全部、生き生きとした記憶で私の中に残っている。
あのときは何を見ても誰と会っても、心の底からえぐられるような深い感動に満ち満ちていた。歩いていると外国人によく、「Hey!きみはキラキラしていてとても目立っているよ!」と声をかけられた。今思えばそういうことだったんだろうと思う。

そして、社会人になってしばらくそういう経験はなくなってしまった。色々経験してしまって刺激がなくなったと一括りにすることは簡単だけど、さらに言うならば明らかに当時と『感性』が変わってしまったのだと思う。

そもそも感性とは、wikipediaにはこう書いてある。

人間の持つ知覚的な能力のひとつである。

そっか、感性は「能力」なんだ。
最初から与えられているものではなくて、養うことができる感じる力。その感じる力が、私にはどんどん無くなっていった。それはなぜだろうと考えたときに、仕事が忙しいとか何かが辛くて不安だとかいう気持ちに心が支配されちゃって、自分の世界でいっぱいいっぱいに。外に心が向かなくなってしまっていたのかなぁと思う。

画像2

あれから15年経って、最近やっと感性がまたひらきはじめてきたような気がする。今まで通り過ぎていたものに目がいくようになったし、人との関りも1つ1つのやり取りにいちいち感動することが多くなった。
1人旅をしていた頃のほうが今よりもっとピュアで、感動したものを受け止める感度は高かったように思うけれど、そのときと明らかに違うことは心に引っかかったことをそのまま「良かった」で終わらせないで踏み込んで「考える」ようになったこと。

「これって何なのだろう」
「あの人が言ったあれはどういう意味なんだろう」

それを考えるようになったのは、twitterやnoteの存在が大きい。誰かにこの感動を伝えたいしシェアしたい。そう人に伝えることを意識しながら生きていると、少し解像度をあげて自分の中に落とし込まなければいけないし、更にそれを言葉にする必要がある。同じものを経験したり見たわけじゃないからなかなか言葉だけで共感してもらうのは難しいけど、それでも同じ温度の感動をシェアすることで倍にふくらませたいという気持ちがある。

画像1


言葉にすること。この毎日の繰り返しが、知らず知らずのうちに私に感性を取り戻してくれたように思う。

道ばたに咲いている花がきれいだったとき、
普通「きれいだな」で終わるところを「どうきれいなのか?」と考える。
本当にきれいなのか、いやたくましさやはかなさがあるからきれいなんだろう、それって人間にも言えることなのかもな、とか。

お客さんから、「10年前に来てこのアームウォ―マーを買った」という話を聞いたとき、
普通「ありがとうございます」で終わるところを、その人の10年間に思いをめぐらせてみる。毛玉ひとつないきれいなアームウォ―マー。大切に大切に使ってきて、きっとその人の記憶が刻みこまれているのだろうと想像したとき、感動でうるっとしてしまった。そしてお店があることがどれだけすごいことか、その中で私はどういう立ち位置でやっていったらいいか、ということがずっとずっと頭の中にめぐっている。

考え続けて、かたちにすることはときに楽な生き方ではないけれど、それでも更に深い感動が待っている。だからこのまま感性の波にのっていきたいと思うし、また感性が閉じかけてしまったときにこのnoteを見て思い返したいな、と。

だから、これは自分のために書いたnoteです。
これを今年の抱負に変えて、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?