見出し画像

【インタビュー】ずっと旅をしていたかった。―陶芸家・砂田政美さんと焼き物の物語

うつわに興味を持ちはじめたとき、かっこつけたものが欲しくなっていた。荒々しくて、大きくて、デザインも、少しひねりのあるもの。

でも、使いこなせる自信がなくて、どうしようかなぁ..と迷っていたときに出会ったのが砂田政美さんのうつわだった。

当時は、陶器と磁器に違いがあるなんてわかっていなかった。
ただ、「やさしい雰囲気」で「使いやすそう」
その二つの理由で、もともと長方形皿に憧れていたし、第一歩として選んでみた。

そうしたら、もんのすっっっごく大活躍してくれた。
それはもう..もんのすっっっごくなのです。

この長方皿は気に入りすぎて過去にこんなnote書きました。「ワンプレート・マジック」https://note.com/kdesign1331/n/n4a05a5825111


おかずやメイン、お刺身を盛ったり、ワンプレート的に使ったりと、ほぼ毎日ひとり暮らしの食卓を支えてくれた。長く使えるもの、人に贈りたくなるものって、こういううつわだよなぁと手に取るたびに感心していた。
砂田さんのうつわに出会えたから、お店をやろうという気持ちになれたのもまた事実なのです。

会うといつもうれしそうに「焼き物」の話をしてくれる砂田さん。
陶芸キャリア40年のなかでいつだってたのしむ工夫を惜しまない砂田さん。

4年前に出会ったときからずっとインタビューをしてみたくて、今回草々に来てくれたことをきっかけに叶い、たっぷりお話を伺いました。

砂田政美プロフィール:
1957年 山梨県生まれ。1982年に陶芸家 桂木一八氏に師事し、兄弟子に上泉秀人氏。2年ほど関西の窯場でお世話になったのち、1990年に独立。現在は山梨県に工房をかまえ、柔らかくてやさしい白色が特徴の磁器をつくっている。

※砂田さんは、うつわ全般のことを「焼き物」と呼びます。いつも親しみを込めて「焼き物」と言うので、そのニュアンスも一緒におたのしみください。

四国とインドを旅していた。


ー砂田さんが陶芸をはじめたきっかけを教えてください。

(砂田)ぼくが焼き物と出会ったのは大学生の春。2ヶ月ほど四国を旅行したときに、陶芸の窯に出会ったことがきっかけだったんです。

ーへぇ、なぜ四国へ?

(砂田)憧れの場所だったんですよ。山梨県出身のぼくにとって、四国は山も海もあるし自然豊かで、いつか住んでみたいと思っていた。それで、春休みに四国の街をぶらぶらと歩いていたらたまたま陶芸の窯があった。そのとき「焼き物やるなら四国に住めるかもしれない!」ということが頭によぎりました。

ー「焼き物やる」→「四国に住めるかもしれない」の順番がおもしろいですね。焼き物は四国に住むための手段のような。

(砂田)そうそう、まさにそんな感じで。それからですね、次はある日突然インドへいくんです。

ーえぇ、インド!

(砂田)バックパッカーでいったんですよ。70年代のインドはすごかったですよ。ちょうど20歳のときで、これもまた2ヶ月ほど滞在しましたね。

ー「インドへ行ったら人生観変わる」とよく聞きますが、昔は今よりもっとすごそう。そもそもなぜ、インドを選んだのですか?

(砂田)ほんとうは中国へ行きたかったのですが、当時は日本と国交がなかったんです。なぜ中国かと言うと、「三国一の花嫁(※)」っていってね、当時は日本、中国、インドが世界の中心だと思っていた。だから、中国がだめならインドを見てみたいと。そんな安易な考えでしたよ。

※三国一の花嫁とは
世界中でいちばんすばらしい花嫁のこと。「三国」は、日本と中国とインドのこと。昔、日本ではこの三国で世界が構成されていると考えていた。

情報・知識&オピニオン imidas

インドには2ヶ月くらい滞在してふらふらしていました。そして、映像学科だったので大学の卒業制作もインドで撮ろうということになって、またいくんですよ。まぁいま思えば、そういうことにかこつけて、インドにいきたかったんでしょうね。

ーへぇ、2回もインドへ。それほどまでに魅力的な国だったんですね。

(砂田)はい、たのしかったですねぇ。2回目のインドは、8ミリカメラとたくさんのフィルムを持っていきました。また2ヶ月ほど滞在して、卒業制作として旅の記録を撮ったのですが..。とてもじゃないけど、恥ずかしくて見せられない。笑

自分を解放したかった。

ーいまの話を聞いていると学生の頃の砂田さんは、焼き物ではなく映像に興味があったのですね。

(砂田)そうです。大学卒業後はそのままいったん、東京のコマーシャル制作会社に入るんです。

ーへぇ、制作会社に。

(砂田)その頃はバブルでした。一番下っ端だったから大変は大変だったけど、1年間は働きましたね。実はそこでまたインドへ行きたくなっちゃって。

ーえぇ、またインドですか!

(砂田)そこで少し立ち止まって、考えるんですよ。「焼き物の世界に入ったらインドへ行けるんじゃないか」って。そう思ったら、早く焼き物の世界に入らなきゃいけない!って焦りだすんです。

そんなときにちょうど、「友だちの兄貴が焼き物の弟子入りをしている」という情報を思い出しました。頭の片隅になんとなく覚えていて、このタイミングで友だちにせっついたんです。そうしたらちょうど追加で弟子を一人募集していて。それで制作会社を辞めて、24歳で弟子入りして、信州の安曇野で住み込みで働くことになりました。そこで6年間、焼き物を学びましたね。

ー制作会社から焼き物へ。急展開でしたね。

(砂田)実はぼく、ものすごく方向音痴なんです。だから東京での生活が致命的だった。地下鉄で迷いすぎるので、神経性胃炎にもなったんですよ。それで、信州へいったら胃炎が治ったんです。人も多かったし、いま思えばきっと、疲れたんでしょうね。

..それでね、またいくんですよ。インドへ。

ーえっ!またいくんですか。

(砂田)でもね、弟子入りしてすぐにいくことはできなかった。まず最初の1年間は、一生懸命粘土練りながら我慢するんです。それで、1年経ったら師匠から許可をもらったので、また2ヶ月間インドへいきました。最初はお給料も少ないから、お金も前借りして。

ー前借りまでして..師匠はよく許してくれましたね。そのときインドではなにをしたんですか?

(砂田)昼寝、かなぁ。

ーあぁ、いいですね。

(砂田)いま思えば、1回目2回目にインドへいったときには自分を解放できたような、そんな感覚があった。
だけど、3回目は「早く帰って仕事しなくちゃいけない」という気持ちがあったから、あまりゆっくりはできなかったんです。
いま考えれば、とんでもない弟子だし、とんでもない師匠でしたよ。普通帰ったら仕事ないです。

ーそんなに何度もインドへいったのは、砂田さんにとって、日本にいるのが窮屈ということだったのでしょうか?

(砂田)窮屈でしたね。「自分にはもっと違う生き方があったんじゃないか」とずっと思っていました。大学生の頃からわりと好き勝手やっていたけど、もっと好き勝手やっていたかったのかもしれない。
..そういうのってありません?

ーあります、あります。特に20代のときは私も砂田さんと同じような気持ちを抱えていました。「こんなはずじゃない!」と、理想の自分を探し続けていたような気がします。

(砂田)そうそう。だからそういう意味では、「つくる」ことは、気持ちを解放することにつながると思うんです。一個つくったらハイ完成ではなくって、もっとつくりたいと思う。ぐるぐると気持ちが回転するように、終わりがないんです。だから40年近くずっと焼き物を続けてこれたのかもしれませんね。

ーインドへいくことと焼き物が、つながったのですね。

(砂田)ただね、いざ生活をするとなると、色々な制約が出てくるんですよ。

ー制約、ですか。

(砂田)一番大きいのは、「動けなくなること」なんです。焼き物って、「窯」がある地場産業じゃないですか。意外にはたらく場所を縛るんですよ。

ーあぁ、なるほど。

(砂田)窯って使う人によって全然違う、自分の色が出てくるものなんです。窯の焚き方(温度管理、うつわの並べ方、薪のくべ方など)にこだわりがあるから、離れられない。他人にも任せられない。自分で自分を縛っているような感覚なんです。

ーでも、いやいや焼き物をやっているわけではないんですよね?

(砂田)はい、どこかへ旅行しているときも「早く帰って仕事したいなぁ」と思うんです。注文があるからつくるのではなくて、「あれつくりたい、これつくりたい」気持ちのほうが大きいんですよね。

でもね、欲張りなことをいうと実はもっと力をつけて自分の好きなところにいきたいんです。仕事もたのしいけれど、もっとたのしいことがあるんじゃないかと思っています。ほんとうは、螺旋階段のように登っていくようなことが、他の場所でもできたらいいのになぁと思うんです。でも今の自分にはそこまで持っていく力がない。だから、インドであったり四国であったり色々なところで展示会をしたいんです。

ただ、ここ数年はコロナで県外へいけなかった。だんだんと意欲も薄れてきました。でも、やっぱり展示会で色んな場所へいって、色んな人と対話をすることが刺激になるんですよ。もう年齢的にも時間がないから、焦りもあるのでしょうね。

焼き物には、わけがある。

ー今の話を聞いていると、砂田さんは長く焼き物をやりながら、もっと大きな理想を追い求め続けているように思います。途中で飽きたりしなかったんですか?

(砂田)それがね、40年近く焼き物をやっていても飽きないんですよ。独立してからずーっと同じ線をいまだに引いてる。焼き上がったら、いい線になってる!みたいなことが、ときどきあるんですよ。

ーへぇ!

カエルとか怪獣とか、こういう絵付けのうつわを書くときも、仕事として書くとつまらん!となるんです。気分がたのしくないと、書けないんです。
ただ人間だし、いつもたのしいわけではない。そういうのって伝わる気がします。

ー伝わると思います。砂田さんが絵付けしたうつわをお店に置いていると、たいていのお客さんが見てにっこりするんです。「この生き物なんですか?」「ひよこかわいい」という話題で盛りあがる。そういうことなのかもしれませんね。

(砂田)やっぱりつくる人も使う人も、たのしみがなくちゃね。「生活しなきゃいけないから、しっかり売らなくちゃいけない」も大事だけれど、それだけだと仕事って、がんばれないですよ。

ぼくはね、わりと下積み時代が長くて32歳で独立したんです。最初は、ほんとうにうまくなるのかなぁと不安でいっぱいでした。湯呑みしかつくれなかったのに、独立なんかできるのかな..と。ぜんぜんうまくならないんですよ。でも、師匠や兄弟子がわりと好きにつくらせてくれたので、それが良かったんだと思います。「下手くそだけど、丁寧につくってればいい」と、いい加減な自分を受け入れてくれました。

ー縛りが苦手な砂田さんに、ぴたりと合ったのですね。

(砂田)それでもやっぱり精神的な波はありました。子育てや親の介護もあり、生活面でも苦しい時期があったし、仕事がうまくいかないときもありました。一緒に焼き物やっていた仲間たちも、たくさんやめていきました。

ーあぁ、そうですか..。

(砂田)でもぼくは運がよくってね。節目、節目で人との出会いに助けられたんです。独立してまもなくの頃に、信州の松本市にある工芸店「グレイン・ノート」に作品を置いてもらうことになって。そこで木工をやっている職人と出会ったりしたんです。お店へ納品にいくたびに顔を合わせるのですが、お互いに近況を報告しあったりしながら刺激をたくさんもらいました。
落ち込んでいてもね、みんなと話した帰り道に「またがんばろう」って思うんですよ。その繰り返しでした。

ー分野が違うところで共感できる仲間がいる、っていいですね。

(砂田)なかでも一番印象に残っている出会いが、弟子入り時代に知り合ったある陶芸家でした。師匠の知り合いが東京で展示会をすることになって、ぼくも1週間寝泊まりして手伝ったことがありました。

ある日その陶芸家がね、ものすっごく楽しそうに絵を描いていたんですよ。寒い季節だったんだけど、毛布を左に置いて、右手で一生懸命描いていた。そのときに彼は、『焼き物には、わけがある』という話をしてくれました。

たとえば、ただの直線をつくろうと思ったらただの直線になってしまうけれど、「竹のような直線」をイメージしたら同じ直線でも全然違うものになる。「つぼみのような湯呑みをつくろう」とか、「花が開いたような小鉢をつくろう」とか、最初につくりたいものを思い描いてから焼き物に向き合うと景色ががらりと変わる、という話をたのしそうにしてくれました。

ーへぇ、なんだかワクワクするようなお話ですね。

(砂田)これを聞いたとき、こういう気持ちで焼き物に向き合えば一つひとつの作品を軽く扱えないなぁと思ったんです。飽きることがないだろうし、すごくたのしくできるんじゃないか、と。ちょうど行き詰まっている時期でもあったので、はたらく姿勢を教えてもらったような気がするし、今でもつくっていて救いになっている言葉なんですよ。

さらにこの陶芸家は、当時焼き物の道へ進もうか迷っていたぼくに、こんな話をしてくれました。

まずは、5年がんばれ。
5年やったら、10年はできる。
そこまでいったらもう離れられなくなる。

うまいこというなぁ!と思いましたよ。それを聞いて気が楽になりました。そして言葉通り、もう離れられなくなりました。笑

そう「ありたい」が、伝わるように。

ー最後に、これだけは聞いておきたいなと思うことがありまして。砂田さんは実際に焼き物をつくっているときはどうやって「たのしくある工夫」をしていますか?

(砂田)うーん..「きちっとやらない」こと。それが長くたのしむ秘訣ですね。実はみんなね、ごまかされているんですよ。

ーええ、ごまかされているとは。

(砂田)ぼくはね、毎回注文がきたらイチからつくるんです。それがね、まったく同じものってできないんですよ。
前につくったもので焼きが甘かった、色が薄かった濃かった、かたちがふくらんだな、とかがあったら、じゃあ今度はちょっと痩せさせてみようか、などと毎回微妙に違うものつくってるんです。その繰り返しだから、飽きるはずないんです。

ーなるほど、常にアップデートされているという..。ごまかしがきくほどの、ということなんですね。

(砂田)あはは。そんな焼き物でも許してくれるんだから、みんなやさしいんですよ。
また、自分の状態によって変わるときもあります。たとえば飯椀のサイズは、「お腹の減り具合」で変わってくるんです。若いときはご飯をたくさん食べるので、たくさん入るように銅が膨らんだ飯椀ができあがる。逆に病気で食欲がないときにつくる飯椀は、サイズが小さくなったりするんです。あとは、お腹が空くお昼時につくったら少し大きくなったり。

ー飯椀のサイズがコロコロ変わるなんて。そのときの思考が、つくるものに入ってしまうのですね。おもしろいなぁ。

(砂田)機械的にきっちりやる陶芸家もいるけれど、そもそも師匠がね、ぼくがつくるものに口出ししなかったんです。それがあったからいまでも自由につくれるんだと思います。

でもね、さっきも言ったけどいつもたのしいわけではないんです。気持ちが落ち込んだり不安になったりするときもある。ただそんななかでも、「たのしさが伝わるといいな」と思いながら向き合っています。まぁ、そう「ありたい」ってことなんでしょうね。

例えば、輪花のうつわが食卓に置いているだけで、「これからなにかたのしいことがはじまるのかな」とその場の空気を変えてくれるような力があると思うんです。そういううつわを届けるつくり手でありたいなぁと思います。



やっぱり、『たのしい気分にする』っていうのが、ぼくらの一番の仕事だから。

ーたのしい気分にする..かぁ。砂田さん、先ほどその話、お客さんにもしていましたね。そばで聞きながら、いい話だなぁって思っていました。

(砂田)今日みたいに実際に会って話できるのはうれしいですよ。今回奈良に来たのも久しぶりだし、お店にもはじめて来れてほんとうによかったですよ。こういうところで展示会、やりたいですね。

ーいやぁうれしいです!えっ、もしかして..砂田さんの展示会..

(砂田)展示会、草々でやりましょう!ちょうど関西でやりたいなとずっと思っていたんです。来年の5月とかどうですか?新緑がきれいな季節に。

ーわぁ!ぜひぜひ。草々ではじめての「個展」開催となりますね。たのしみにしていますね!

あとがき:
インタビューをしていておもしろいなぁと思うのは、それがたのしい時間であればあるほど、あとで音声を聴いたり、書き起こしや読み返しながら「笑ってしまう」のです。
今回も何度も声をだして笑いました。なんというか、砂田さんの行き当たりばったり(すみません!)のような人生のなかに、いつも「焼き物」があったということ。揺らぐこともありながら、ちゃんと「焼き物」へ落ち着いてきたということ。まるで家で食卓を囲みながら談笑しているような、そんな安心感をこのインタビューを通して感じた気がするのです。

そしてとってもうれしいことに2023年、草々ではじめて個展を開催することになりました!

砂田政美さん個展
日程:5/18(木)〜5/28(日)
※テーマや時間は決まったらお知らせします。砂田さんも山梨から駆けつけてくれる予定です!

なんと、はじめての個展がインタビューから生まれるなんて。
こんなにうれしいことはありません。今から油性のマジックペンで手帳に予定書き込んで、ぜひぜひ遊びにきてくださいね。

***

今回も長いインタビューを読んでいただきありがとうございました。
いただいた感想やコメントはすべて砂田政美さんに伝えますので、なにか感じたことなどありましたらぜひお気軽にいただけると嬉しいです。


うつわと暮らしのお店「草々」

住所:〒630-0101 奈良県生駒市高山町7782-3
営業日:木・金・土 11:00-16:00

▼インスタグラム
https://www.instagram.com/sousou_nara/
▼フェイスブック


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?