遠いようで身近だった「人生会議」を読んで。
年始に、西智弘さん編著の『わたしたちの暮らしにある人生会議』を読んだ。きっかけは、西智弘さんがnoteで募集した執筆者募集の企画。ありがたいことに、入賞した私の文章を、この本に載せてくれたからだった。
まさかまさか自分の文章が、本に載るなんて。
初めての経験で、とってもうれしかった。せっかくだし、ちょっと読んでみようかな..。
正直なところ、そんな浮き足だったかるーい気持ちで本を開こうとした。
けれど、「人生会議」というテーマがそれなりに重いだけに、読み始めるまでに少し時間がかかってしまった。自分で応募しておきながら、やっぱり「人生会議」という慣れない言葉を前に、他人事として敬遠していたところが正直あった。
しかし、年末にいよいよ時間ができてしまったのでページをペラペラめくってみた。そうしたらどんどん前のめりになり、読み終わる頃には背筋がピンと伸びていた。同時に、少し申し訳ない気持ちにすらなった。
本の中に書いてあった「人生会議」が、どれも遠いようで、身近すぎる話だったからだ。
人生会議とは、日頃自分が大切にしていることを信頼する人と話し合うこと。病気などで本人が意思を伝えることができなくなったときに、本人の気持ちを推し量る手がかりにする、というようなことが書かれている。
西さんは『人生会議』について、こう説明している。
これだけ読むと、正直、重苦しい印象がある。
そもそも、日常生活のなかで「人生会議しようよ」というシチュエーションがありえないからだ。でもここで言いたいことは、きっとそうじゃない。普段の生活での何気ない会話のやりとりのなかに、人生会議は散りばめられている。西さんは繰り返し繰り返し、そう言っている。
私は、「人はいつか死ぬ」と理屈上分かっていながら、実際のところはリアルに想定できていない人が大半だろうと思う。だから、自分や身近な人たちに急に災難がふりかかってしまうとパニックになる。普通なら判断できることが、冷静に判断できなくなってしまうだろう。相手の気持ちを推し測っているようで、自己都合的な判断だってしかねない。病院へ行けば、流れのままに治療を望み、本人の意思がわからないままに終わってしまうことだってあると思う。
そんなリアルな状況を、西さんをはじめとしてこの本に出てくる医療従事者の皆さんは一番近くで見てきたからこそ、「今できること」を考えるきっかけにしてほしいというメッセージがこの本に詰まっているなぁと感じた。
この本のなかで特にグッときたのは、中前さんの文章だった。
私はこれを読んで、この話に書かれているやりとりそのものが、「人生会議」だと思った。幼い頃にお母さんと話した何気ない会話も、お父さんとのやりとりも、病院の先生と話したことも、もやもやした気持ちどれもが、お母さんの存在をまるっと包みこんでいるようで、あたたかな気持ちがジワっと湧いてきた。
とくにお父さんの最後の言葉がいいなぁと思った。
***
あまり人前で話したことはないんだけど、私は、昔から大事な人であればあるほど「いつかいなくなる」ことを意識することがあった。笑顔で話していても、いつか来てしまうであろう「終わり」がチラつくことがある。幸せであればあるほどに、だ。
幼い頃、よく布団のなかでしくしく泣いていた。台所に立ったり、こたつで手仕事をするおばあちゃんの背中を思い出しては、おばあちゃんがいない世界を想像して、悲しくて寂しくて、よく泣いていたのだった。今だってそれは変わらない。さすがに泣くことは減ったけれど、自分や誰かがいない世界を想像して、ひとり寂しい気持ちを味わうことがある。
今思えば、悲しみを先取りしているのかもしれない。それは、自分を守るためでもある。現実に直面したときの自分へのダメージをいくらか減らすことができるし、最終的には、自分の足で歩いていかなければという気持ちがあるからだろう。
だから、この本を読んだ後に改めて「人生会議」をしたいなと思った。
いつか来てしまう終わりに向けて..。なんていうと暗くなっちゃうから嫌なんだけど、なにが好きでなにが嫌いなのか。そんなシンプルなことを、日々の会話のなかで伝え合っていければいいんだと思う。
せっかくこの世に生まれてきたのだから、自分以外に理解してくれる人が一人でもいてくれたら。満足げな顔で、「生をまっとうできた」なんて言えちゃうかもしれないなぁ。
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