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「ファッションとしてのきもの」の壁

昨晩、始めたばかりのclubhouseで伝統工芸についてのディスカッションをしているroomがあったので、いちリスナーとして聴いていたところ、京都の伝統文化をプロデュースしている知人が私を見つけ、招待されたので、そこで私も会話に加わった。様々な業種で活躍されている方々の中で、突然のディスカッションの中に入ったので思っていることの半分も上手く喋れなかったが、アンテナの高い方々のきものについての議論は大きな刺激となった。

要は、きもの自体が晴れの日衣装というイメージが完全に定着し、ましてやこのコロナ禍の中できものという入口をどう広げていくのかの問いには、なかなか明確な回答ができなかった。

その後に冷静になって改めてなぜそうなのか?を考えてみた。
もちろん、呉服業界全体がどうとか、売り方や価格の問題などは確かに大いにあるかも知れないが、色々と紐解いていくと、きものの捉え方には二面性があるなということに改めて気付いた。

普段からきものを着たり、慣れ親しんでいる人は、きものに関しては前衛的であり、着方の工夫や着るシチュエーションに合わせた自分なりの表現を方法を持っている場合が多い。ただ一方でそういう方々はきものに対する自分なりのルールが確立し、きものを知れば知るほど逆に保守的になっていく傾向にあるのではないか?

一方で洋服での生活がほとんどの人は、きものを着るとなると臆病なくらいにきものの決まりや、派手か?地味か?など保守的な観点できものを見てしまう傾向にあるような気がする。
私の父の本の中の言葉を借りれば、「きもので生活する人は、きものの中で二つの顔をつくろうとするし、洋装が主体になる人は、洋装の顔ときものの顔をつくろうとするのである。」といったところであろうか。

そうなってくると、供給する側にとっても前衛的な商品を提供することは、商売上大きなリスクを伴う場合がほとんどなので、そういった商品を仕入れるまたはオリジナルとして製作することを避けてしまう。結果的にきものはファッションであると謳っても、呉服店の商品はおおかた保守的であり、それをファッション性のある楽しみ方をするのは、買う側の想像力が必要となってしまい、おのずと着物へのハードルが高くなってしまいがちなのである。

もちろんファッション感度の高い人は、初めてきものを着る上でも、アレンジし、見事にセンス良く気軽にきものを着こなしてしまう人もいるが、それは個人スキルの問題であって、全体的な広がりを生み出していくまではいかない。

いずれにしても、非常に難しく根本的な問題ではあるが、少なくとも、SNSやこのclubhouseの中できものや伝統工芸についてのテーマが多く取り上げられてきていることは非常に喜ばしいことであるし、これからの若い人たちの多くが関心を持ち始めていることは間違いないので、今後に期待したいと思う。

さて私もこのclubhouseを色々な形で使って、きものの魅力を発信したいなと思う今日この頃。乞うご期待!

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