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言葉を見逃す日々

2~3ヶ月に1回は飛行機という期待(機体)に乗車する。
僕は腰痛持ちなので、同じ姿勢でずっと座っているのは辛いのだが、この時間が不思議と好きだったりする。

「乗って、向かう先」が僕を詳細に語るうえで、一つ、かかせない人に会いに行くために使うことが多いからだろう。そのような利用シーンが重なって僕の脳が勝手に、

「飛行機=自分を必要な一部分に運んでくれる大きな機体(期待)・空間」

という錯覚を起こしているためだろうと思う。
これが、毎四半期・毎年地獄の心身強化合宿のために利用するという場合は、真逆の感覚を取り入れることになるだろうとも思う。


常に何かとつながっている感覚と、そこからの「離脱」

「学生」という過度にゴツゴツした制度がなくいろいろなものの境界も、
「社会」という堅牢に角を有している箱と比べると、曖昧な環境から外に出て、「そう決められているからしょうがない」という濁流の中に飛び込み、僕たち(そう決められているものにまずはのっかって生きていくしかない人間)は「社会」という箱に入場した。

県境や国境など昔の偉い人たちの縄張り争いの軌跡的な曖昧な境界を幾重にも物理的に離れてしまった人たちが、それを飛び越えるために飛行機を利用し、無意識に、決められた制度のもと”それ”に抗う。

この飛行機を乗る前~最中にとても言葉に敏感に、感情・感傷的になる感覚がある。
なぜなのか明確な確信はないものの、デジタルプラットフォーム(社会)から乖離した空間(機内モード)で本か好きなアーティストの言葉(音楽)しかインプットできず、一種の没頭のような状況に陥れるためだとも感じている。

日々、無意識的に誰かや組織、社会、そして地面とつながっている。
しかしながら、飛行機という空間に身を置くと完全に途絶えているわけではないものの、だれかや組織、そして地面とは孤立した「絶対的な自己」だけがふわふわと宙に浮いている気がするのだ。
そのいかにも無力で単体な自分が何を思い、何ができ、どのような思想のもとどのような人や組織と複雑に絡み合いながら時を前に進めているのか、いつもより冷静になって、そこにいる自分じゃない視点から自分を見ることができる時間なのだろうとも思っている。

言葉(感情)に研ぎ澄まされている感覚と言えばいいのか。

ソローが一人で森に棲むことで見えていた「世界」や「自分」も同じ感覚なのだろうか。

迷子になって初めて、つまりこの世界を見失って初めて、我々は自己を発見し始めるのであり、世界を認識し始める。
H.Dソロー『孤独の愉しみ方森の生活者ソローの叡智』

深く、フラットに、生きていくうえでは必要な他との繋がりも一旦は断ち、思考する時間に「心地よさ」を感じている気がする。

しかしながら日々、これらの言葉や感情は見逃してしまっている裏付けでもある。
見逃してしまっているのか、埋もれてしまっているのか、わからない。
身を置いている環境で常時獲得する思想や「当たり前」によって、だんだんと見えなくなっている可能性もあるだろう。
何かとつながりながら、あえて離脱する空間や時間をつくる。
その繰り返しが、目の前の世界を正確に「認知」するための手段や技術の一つなのかもしれない。

・猟師になると初めて「世界」が見える。「世界」が聞こえるようになる。

・森羅万象の変化に敏感であるのは猟師の大事な素質。世界は、見ようとするものにしか、見えない。
近藤 康太郎『アロハで猟師、はじめました』

日常(世界)は、見ようとするものにしか、見えないし、
聞こうとするものにしか、聞こえないのだ。


「絶対的な自己」がどうなっていて、これからどのようになっていくのか、僕はそこに興味や楽しみや深さや幅や色気を感じていて、常に深化・拡張させていきたいという気持ちがあるのだ。人間の偉大さは、自分が惨めであることを知っていることにある。


言葉(感情)を見逃さず、蓄えていく。

誰にも隠されていないのに、誰の目にも触れられていない言葉(事象)がまだたくさんある。
自分に必要な言葉も、隠されていないのに、当たり前のように見逃す。
世界の認知方法(見方)を知ることで、新たなものに気が付ける。

どの世界線をどのようなレンズで、どの感度で生きていけば、
桜井和寿氏のように日々を言葉という形にできるのか、、まだまだ見逃していることばかりです。


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