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大学院受験と大学受験はそもそも違う競技

皆さん
こんにちは。
心理系大学院受験専門塾 京都コムニタス塾長の井上です。

大学受験の弊害

私たちは20年臨床心理士指定大学院受験対策をしてきました。長年常に言い続けてきたことは、私たちが手がける受験と、大学受験は、そもそも競技が違います。しかし、大学受験の時に頑張った人ほど、その時の勉強方法が最も正しいと思いがちです。もちろん、全て間違っているとは言いません。また一方で、大学受験をしていない、あるいは指定校推薦だった、あるいは付属校から上がってきたなどの理由で、大学受験をあまり経験していないという認識になり、それがコンプレックスになっている人も少なからずいます。いずれにしても、人によって大学受験勉強の成果は異なりますので、一度リセットしてみることも大切です。大学受験の弊害と言えるものをいくつかあげてみると、
①「辞書の絶対視」
②「辞書を1つしか使わない」
③「受験参考書を欲しがる」
④「最小労働力を求める」
⑤「労働力がかかるものを無駄と決めつける」
⑥「自分の能力を査定できない」
⑦「過去問にこだわりすぎる」
⑧「少ない科目で受験したがる」

大学受験の勉強は重要です。ただ、人生において最上価値に位置づけねばならないかというとそうではありません。この仕事をしていると、よく大学に入ってからバーンアウトする(した)という話を聞きますが、これはまさに本末転倒です。大学に入ってからが大切なのですが、大学に入ると「勉強すると損」とまで考えている人は今でもいます。

よく「企業は大学生が何を勉強してきたのかに興味がない」という言説があります。しかし、実際はそうではありません。学生自身が、自分が何を勉強してきたのかについて語れない人が多い故に、企業側が興味を失うのです。
最近、私の知り合いで、企業の人事を任されている人も「最近になってやっと、「大学時代勉強しなかった武勇伝」を語る人がいなくなった」と皮肉っぽく笑っていました。バブル期を経験したビジネスマンだの商社マンを自認する人にはかなりこういった人がいたと思います。大学に行かずに麻雀ばかりしてただの、なんたらバーに毎日行っていただのといった話は、私も数知れず聞いてきました。でも、今のご時世、それは自慢話にはならなくなっていますし、あまり楽しい話ではなくなっています。ちょうどその境目の世代が私たちの世代かなという印象です。この私たちの世代くらいまでが、「大学入学絶対主義」を信奉していたと思います。
「とにかく入ってしまえ」
「どこでもいいから入ってしまえばこっちのもの」
「入ったら、あとは簡単」
「入ったら、あとはたくさん遊んで、社会経験しなさい」
ひどかったら、学校の先生でも堂々とこんなことを言っていました。
私は、大学に入ったら目一杯勉強するように、大学受験までを扱っている時代も伝えてきました。その精神は今も変わっていません。学部は勉強するところで、大学院は研究するところという位置づけをしています。

大学院受験はフィギュアスケート、大学受験はスピードスケート

大学において学部と大学院は本来違う組織です。よく学部の上が大学院と思っている人が多いのですが、それは違います。別々にあると考えるのが通常です。そのため、大学受験の勉強がそのまま大学院受験に適用されるかというとそうではないということです。簡単に言えば、大学受験は、集客をするための「1回3万円以上する人生の不安と恐怖体験アトラクション」です。アトラクションは、集客がメインですから、「傾向と対策」をチラ見させておきます。ディズニーランドやUSJで新しいアトラクションが出たら、莫大な費用をかけて宣伝するのと同じ構造です。ディズニーなどと比べて、不愉快になって、その経験が終わることがあるため、ものすごく理不尽なアトラクションであることに気づく必要があります。一方大学院受験は「人事」になります。採用人事に近く、正式な採用は、入試課ではなく教授会が決めます。
以上からも全く違う競技であることがわかります。
もう少しわかりやすく言うと、スケート競技に喩えることができます。大学受験がスピードスケートで、大学院受験や編入受験がフィギュアスケートと考えるとピッタリといった印象です。この競技の質を理解せずに、競技会に参加する人が、日本ではとても多いのが残念でさえあります。
競技を間違えるとは、大学受験の延長線上で、大学院受験を考えてしまうと、フィギュアスケートの試合に出るのに、タイムばかりはかっているのと同じことになりますし、スピードスケートのユニフォームで、三回転の練習をしていたならば、ほぼコントのネタです。同じスケートで、氷の上での競技という共通点はあるものの、競技の質は全く異なるということは明らかです。
スピードスケートは純粋にスピードを競いますので、他の要素は何も関係ありません。ユニフォームもだいたい皆同じようなスタイルで、違いは色くらいでしょう。
一方でフィギュアスケートは、複数の審査員の主観に訴えかけます。「美しさ」という抽象的なものと、技術、構成など具体的なものとが採点に入ります。だから、時として、採点に不満が出ることもよくあります。
でも、それも含めての競技だと言えます。完全に公平と言い切る審査基準を作る方が難しい面もあります。
ゆえに、選手は、他の選手との戦いの要素よりも、自分を磨くことにより多くの時間を費やします。また、考え方も人それぞれです。
得意技を磨き上げ、大技を出して、加点を取ろうという考え方もあれば、リスクを少なくして、ミスを減らして、演技全体の構成で勝負しようという考え方もあります。どちらも正解でしょう。でも全くタイプが異なるので審査する側も大変です。
ゆえに、審査員は選手がどんな演技をするのかについて、事前に予習をしています。これは私たちで言えば、研究計画書や志望理由書に相当します。

大学までの受験経験はいったんリセット

しかし、大学受験は、人生の中でかなり大きなウエイトを占める人が多いようです。おそらく、不合格への恐怖感、多大な緊張感やプレッシャーがいまだに引きずられていて、大学に合格した時の解放感があまりにも快適であった場合、二度とあの緊張感を味わいたくないという人が多くなるのだと考えられます。その緊張感が不必要かというと、必ずしもそうだとは考えていません。ただ、不合格であっても、入ってから、勉強を続けていれば、いくらでもチャンスはあるよ、ということを高校時代にもっと教えておいて欲しいなという希望もあります。よく「●●大学なんて無理です。私は大学受験で××大学も落ちたのに・・・・」これが一番よくないのです。やろうと思えば、どこだって目指せます。チャンスは間違いなくあります。目指すにあたって、まず必要なのは、英単語力ではなく、志と熱意のホット系と、戦略と分析力、それを冷静に遂行する力のクール系二つです。「頭は冷ややか、心は熱く」が基本です。
確かに大学受験の勉強は人生において大切なものであることは間違いありません。ただ、弊害もたくさんあります。今、この日本では、多くの制度疲労がおきており、とりわけ教育は、何を変えればよいか、どうすればよいか誰も明確な回答ができない状態が続いていて迷走に迷走を重ねています。
上記八項目の大学受験の弊害について、大学受験での常識が、大学院受験では非常識になることはたくさんあるという認識はあまり持たれていません。
例えば
①「辞書の絶対視」②「辞書を1つしか使わない」
これは、実は大半の人が当てはまります。辞書が絶対正しいという考え方です。じゃあ、なぜ複数の辞書があるのか、というところに思考が及ばなくなっています。これは高校の教育で「英語は辞書を引けば引くほど賢くなる」と教えられてきた人に顕著に出ます。もちろん、母国語以外の言語を学ぶにあたって、辞書は必須です。当塾でもたまに、英語の辞書を引いたことがないという強者もいますが、それはそれで困ります。辞書は必須ではありますが、絶対ではありません。間違うこともあれば、医者の診断のように、見たままを言葉にしただけの用語もたくさんあります。当たり障りのない説明に終始しているものもあれば、著者だけの説が記載されているものもあります。辞書はあくまで意見の一つであって、複数の辞書を引くことで、複数の意見を聞いて、その上で理解をしていくということが必要ということになります。これは大学院以上になると、常識の範囲ということになるのですが、大学でそういったことを習っている人もいれば、習ったことがないという人もいます。できるだけたくさんの辞書を引いて、たくさんの意見を聞く姿勢を早く身につけることを心がけましょう。

また、「受験参考書を欲しがる」という弊害も挙げられます。大学院受験について、受験参考書は、「なくはない」という程度で、あまり、それをあてにしない方が適切です。自分で基本だと思える本を選定する目も面接では問われています。しかし、大学受験は参考書が山のようにあり、「これだけしていれば大丈夫神話」が備え付けられているものもあります。中には「カリスマ予備校講師」が書いたものだから安心といった、風評が乗っているものもあります。教材販売も商業ですから、当然「誇張」があり、根拠は薄弱なものが多く「●●氏推奨」とか「△△氏絶賛!」とかいった「だからどうした?」みたいなキャッチフレーズがついているものもあります。大学受験の参考書については、逐一否定しませんし、長い年月積み重ねられてきていますので、一定のクオリティもあると思います。しかし、大学院受験については、そういった教材はほぼないと言えます。それにも関わらず、参考書を求める心理は、大学受験勉強がつらく苦しいものであった人に多いと言えます。つらく苦しいと、「最小労働力を求める」傾向は強まってしまいます。そして、「労働力がかかるものを無駄と決めつける」方向に思考を歪めてしまいます。そして勉強する科目数を減らすことを「絞る」とさらに歪めて、それに適応する科目数を要求する学校を探します。そして「候補」を選んで、受験をするのです。これでは、行きたい学校に行けるはずもなく、受験をする前から、「行きたい学校」という選択肢を捨ててしまい、場合によっては「行きたくない学校」の中からしか選択できないというなんとも悲惨な受験になってしまうことも少なくありません。この意味で、私は常に必修の授業の中で、結構しつこく「行きたい学校を受験しましょう」「入って2年間良い生活をすることができるイメージのわく学校を選びましょう」「どうしてもその学校でなければならないと言える理由を作りましょう」「受験科目で選んだり、あきらめたりするのはやめましょう」こんなことを言っています。冷静に考えると当たり前のことのようにも思うのですが、生徒の方々には、とても響く人もいますし、「この人何を言ってるの?」という顔で見られることもあります。大学受験の拘束力恐るべしです。大学受験の経験は、大学に入ったら一度早めにリセットしましょう。そして一から新しい自分を構築してみましょう。