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孔明が死んだあとの三国志をざっくり紹介!

実は、孔明が死んだあとの三国志はあまり有名ではありません。

そんな、孔明が死んだあとの三国志をざっくり紹介します。

孔明の死後


孔明は蔣琬と費禕を後継者に指名して死亡します。

当然、魏が攻めてくると予想されましたが、魏は曹叡の悪政により国力が弱ってしまいます。

その結果、蜀を攻めることはできませんでした。


公孫淵の反乱



238年、魏に仕えている公孫淵が15万の大軍を率いて、魏を攻撃します。

慌てた曹叡は司馬懿を討伐軍として派遣します。

公孫淵は勝てるはずもなく大敗し、最後には死んでしまいます。


強くなる司馬懿



239年、曹叡は養子の曹芳を皇帝とし、曹爽を後見役に任命して死んでしまいます。

曹爽は司馬懿の力を恐れ、司馬懿を政治から遠ざけます。

すると、曹爽が墓参りに出かけている間に司馬懿が反逆。

曹爽は不意をつかれ、死んでしまいます。


蜀、滅亡



蜀は、姜維の相次ぐ北伐により国力が弱っていた。

そして、263年に魏は蜀の討伐を開始しました。

姜維は、魏の侵攻を察して、劉禅に援軍を要求しますが、占いを信じ、敵はせめてこないと考えたため援軍の到着が遅れてしまいます。

しかし、姜維軍は奮闘し、魏軍を撃退するほどの勢いを見せますが、鄧艾軍の奇襲により敗北。

劉禅は降伏。

蜀は滅亡しました。


鍾会の乱



蜀討伐の1番の功労者である鄧艾が逮捕されると、魏の将軍、鍾会に権力が集中しました。

独立を狙っていた鍾会は姜維と組んで魏に反逆し、将軍や役人を幽閉します。

しかし、この企みは失敗し、鍾会と姜維は死んでしまいます。

こうして、鍾会の乱は幕を閉じます。


晋の誕生



司馬懿の子供、司馬昭の死後その子、司馬炎が皇帝の座を得て、魏を滅ぼします。

最強の国にしては、あっけない滅び方ですね!

こうして、晋が誕生しました。


おかしくなる孫権



次は呉のお話です。

まず、孫権のことからお話しようと思います。

孫権は劉備、曹操と並ぶ名君ですが、240年ぐらいからおかしくなってしまいます。

孫権は早くから、長男を後継者と決めていましたが、その長男が若くして死んでしまいます。

さらに、次男も病死したため、後継者は三男と四男に絞られました。

孫権は四男支持にまわりましたが、重臣たちは、三男を支持したため孫権は激怒。

最後には、この後継者争いに関わった人を島流しにするという暴挙に出ます。

結局、帝位についたのは七男の孫亮です。


荒れる呉



帝位についた孫亮でしたが、孫綝が孫亮をないがしろにしたので孫亮は激怒。

孫綝を追放しようとしましたが、失敗し、逆に帝位から引きずり降ろされてしまいます。

しかし、次に帝位についた孫休は名君でしばらく呉は安定しました。

けれども、264年に孫休が死亡。

次に帝位についたのは孫皓でした。

しかし、孫皓は暴君で自分に反対する人を島流しにしたり死刑にしたりするとんでもない人でした!

その結果、人々の信頼を失ってしまいました。


呉の滅亡



ついに事は起こった。

280年、晋の軍隊が呉に侵攻。

弱った呉は勝てるはずもなく、なすすべもなく降伏。

こうして呉もあっけなく滅びてしまいます。


この後




まさか晋が中国を統一するなんて思いませんでしたよね?

てっきり、魏が統一すると思っていました。

しかし、その晋も51年で滅んでしまいます。


最後に



最後まで読んでくださりありがとうございました

また投稿しようと思います!

楽しみにしていてください。


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