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今夜このまま、じゃ、いられなくて

 相変わらず人も車もまばらな駅のロータリーを通り抜けたところで、夏の風物詩の音が降る。そういえば今日だったっけ、花火大会。思わず空を見上げながら独り言ちた。

 昨晩はトモと焼肉を食べた。朝から部屋にあるこまごました荷物を、これから互いが住む部屋に運ぶべく、車で何往復もした。トモの荷物は少なかったから、午後は私の新居に一緒に行って、本棚や衣装ケースを運ぶのを手伝ってくれた。大丈夫、土地勘のない街だから、もう一度来ようと思っても来れないから、なんて、私が聞いてもいないのによくわからない言い訳をして。
 これまでありがとうの意味を込めて、最後の晩餐に焼肉に行こうと誘う。二人で見つけた、韓国出身のオモニがやっている小さな焼き肉屋で夕食を共にした。テールスープが絶品で、同棲していた部屋から歩いて行けることもあり、月に1度は訪れていた思い出の店。二人でお腹いっぱいになりながら、酔いを醒ますように手をつないでゆっくり歩く帰り道が好きだった。
 トモは生ビールを、運転の私はウーロン茶を頼む。それから、タンとハラミとサムギョプサルとテールスープ。いつも通りのメニュー。いつも通り私がお肉を焼いて、二人でうまいうまいってお肉をほおばる。お気に入りのグレーのキャスケットをかぶって、あちあち言いながら豚肉をサンチュで巻いて食べるトモのこと、変わらず愛おしいと思ったけど、それは口には出さなかった。その日の会計を共通の財布からの最後の出費にしようと、あらかじめ二人で決めていた。いつもは頼まない、ちょっといい肉を頼もうかとも言っていたけど、互いにお腹がいっぱいで結局やめておいた。
 会計の時、ポイントカードを出したらちょうどそれが満タンになった。
 「次来たら1,000円割引になるよー」
 赤髪、短髪、鮮やかな口紅にゴールドのピアスが光るオモニが、よく通る声とはちきれんばかりの笑顔で教えてくれる。私は、満面の笑みを作って、ありがとうとカードを受け取る。そのカードは、そのままトモに渡した。私は、きっともうここには来ない。明日、この街を出ていくから。

 3年前、初めて出会った時から、私とトモは驚くくらい気が合った。お互い酒好き、料理が趣味で、旅行もよくする。トモのお母さんは私が行きつけのお店のママで、私の地元の親友とトモは飲み友達。そして、私たちは同じ苗字だった。
 「結婚しても、離婚しても、なんにもかわらないね、私たち」
 出会った時から冗談交じりに言っていたそれは、付き合い始めて、ごくごく自然に同棲をして、そして結婚を意識し始めてからも、たびたび口にしていた。
 信じられないくらい楽しい思い出も、心臓が凍るくらい苦しい出来事も、どちらも当たり前にあったけど、それでも一緒にいると思っていた。だけど、だめだった。一度大きな嘘をつかれた、それだけで、もう他のこともこれからのことも信じられなくて。泣きながら、傷つけあいながら話し合って、結局お互い別々の道を行くことを決めた。一緒に住み始めてから、2年が経とうとしていた。この部屋の契約は一度も更新されないまま、この週末で満了を迎える。
 
 トモの新居は、私たちが住んでいた部屋から歩いても行けるくらいの距離にあった。焼肉屋の臭いで充満する車で少し頬を染めた彼を送り届けて、運転席の窓を開けた。
 「じゃあまたね、元気でね」
 そう言って下手糞な笑顔を浮かべる車の外のトモのこと、やっぱり嫌いになれないなと思った。
 
 土曜日に無事引っ越しを終えたので、その足で私は東京へ向かった。事情をすべて話してある友達の家に泊めてもらい、翌日は行きたかったお店や街に付き合ってもらった。深くは聞いてこない優しい旧友と並んで笑いながら歩いている私は、きっと「同棲していた彼氏と別れたばかりのアラサー」にはとても見えないだろうな。底抜けに明るい空には雲一つなくて、都会のアスファルトの道を歩いているとじりじりと焼き尽くされてしまいそうだった。
 「今度は私が新居に遊びに行くわ」と明るく言う友人と東京駅で解散して、地元の駅に着いた頃にはもう20時を過ぎていた。新幹線しか通らないという、全国でも不便で有名なこの駅から歩いて10分。そこに私たちの住んでいたアパートはある。引っ越しは昨日完了していたけれど、契約は今日まで。私は、その駐車場に自分の車を置いて東京へ行っていた。最後に部屋をもう一度確認して、鍵をポストに入れて、そして、車で新しい私一人の部屋へ帰る。昨日、そうトモにも言っておいた。
 どーん、とお腹に響く音がする。空が瞬間輝いてまた暗くなる。人々は皆上を見上げて口を開けている。その中を私は、大股で一人歩いていく。地元で唯一の花火大会。小さい頃からほぼ毎年見に行っていたけど、3年前からは、いつもトモと見ていた。去年はあの部屋で。駅前にできたビジネスホテルが邪魔して花火が半分しか見えなくて、涼しい部屋で缶ビールを開けながら見る花火はちょっと情緒に欠けるね、なんて笑い合った。来年は、やっぱりお祭り会場に行こうって約束もしていたんだっけ。そんなことを思い出しながら夜道をずんずん歩いたら、あっという間にアパートについた。カバンから鍵を取り出しながら近づくと、玄関に誰かが座っている。辺りは田んぼから聞こえる虫の鳴き声と、花火の咲く音しか聞こえない。怖くなって、思わず足を止めた。
 「エリちゃん」
 花火の音と、トモの声が重なった。
 「トモ?どうしたの?」
 「いや、部屋に忘れ物しちゃって、俺鍵返しちゃったから、エリちゃんの帰り待ってた」
 「連絡くれればよかったのに」
 「でもせっかく遊んでるのに、悪いなって思って」
 そうだ、トモはこういう人だった。優しすぎる。言ってくれればいいのに、そしたらもっといい方法が見つかることもあるのに。いつも変な気遣いをして私に対して言葉が足りない。現に今、彼を何分か何時間か待たせてしまった私は、トモに申し訳ない気持ちになっている。私は、もっと話してほしかった。余計なことでも言ってほしかった。何度もそうお願いしたのに。優しい沈黙って、時にずるくもある。
 「じゃあこれ。部屋の最終確認と、鍵の返却は任せたから」
 最後まで変わらなかったな、と思いながら鍵を渡す。渡した鍵を受け取ると同時に、トモは私を抱きしめた。頭上に、夏の大輪が咲く。少し遅れて、轟音。
 「…やっぱり、やり直せないのかな」
 ほらね、ずるい。言葉があまりにも遅すぎる。トモを、嫌いになったわけじゃなかった。だけど、もうトモとの未来は見えない。信じることができない人と、私は一緒には歩いていけない。それなのに、抱かれた胸の懐かしい熱さを振りほどくことができない。トモが私を好きでいてくれること。それが私の自信になったし、輝きにもなった。そんな風に思う私だって、たぶんすごくずるい。
 「もう、遅いよ」
 ゆっくり、腕を伸ばして、その胸から離れる。ほんの十数秒重なっていただけの私の胸に、肩に、生暖かい風が吹いて少し涼しい。街灯が頼りなさげに灯るだけの暗がりの中、向き合ったトモの顔の向こうにまた花火が上がる。瞬間、明るくなって、また次の瞬間には暗くなった。また明るくなって、暗くなって。何度かそれが繰り返される間、私たちは長いこと見つめあっていた。
 「楽しかった、ほんとに。ありがとう」
 震えそうな声でそう告げた私の唇に、トモのそれが重なる。何度もしたキス。これがきっと、最後のキス。なんでうまくいかなくなったんだろう。なんでトモはあんな嘘をついたんだろう。なんで私は、そんなトモを許して、信じることができないんだろう。別れを決めた2か月前から、脳裏にこびりついて離れてくれなかったその問いが、押し込めていたその問いが、弾けたように噴き出してくる。なんで、なんで、なんで。

 空には大きな花火が咲いては散る、私たちはこれから別々の道を行く。

 「じゃあ、また」
 「うん、元気で」
 「トモもね」
 「うん、エリちゃん、ありがとう」
 そして私はトモに背を向ける。後ろでトモが玄関の鍵を回す音がする。車に乗って、エンジンをかけて、走り出す。アパートはもう、振り返らなかった。

 細い道を抜け、国道に出た。この道の先にある街で、私は明日から暮らすんだ。住み慣れた街に背を向けて車を走らせる。花火はクライマックスを迎え夜空を鮮やかに彩るけれど、その音はどんどん遠ざかっていく。OFFになっていたカーステのスイッチを入れたら、流れてきたのはあいみょんの”今夜このまま”だった。

 体は言うことをきかない 「いかないで」って走ってゆければいいのに

 だけど、そうは言っていられないから。私はもう、一人で歩いていくと決めたから。重ねた唇の感触をかき消すように、右手でハンドルを握りしめたまま、左の手の甲で強く唇を拭う。気付いたら頬には幾つかの筋が流れていた。涙で前が見えないなんて、そんな甘えたことは言っていられない。目を開き、流れる涙はそのままに、下唇を少しだけ噛んで、私は、夜の国道をひたすら走り続けた。

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