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夕暮れの出会い、喫煙所にて

 泣き出しそうな空模様だった。
 仕事でミスをした。ミスというか…ここぞと思って発言したことに対して、共演者からの思ったような反応がなくて。自分で自分にがっかりした。マネージャーが変に慰めるでも叱るでもなく、何もなかったように明日のスケジュールを確認したことも地味にショックだった。あー、俺には何も期待していないんだなって。
 帰り途中、買い物をしたいからと言って途中で車から降ろしてもらう。それに対して、そう心配されるでもない。例えばこれが、紫耀だったら。こんなところで降ろしてもらえないんだろうな。ていうか、こんなところで降ろしてほしいなんで言わないか、あいつは。
 何をふてくされてるんだろうな。こんなことは今までも数えきれないほどあったはずなのに。つい最近入所した後輩があっという間に売れていく、自分が可愛がっていた子が先にデビューする、そのたびに、一緒に頑張る仲間と声を掛け合いながら、自分のスキルをひたすら磨いて、アピールを忘れないで、頑張ってきたはずだ。そうやって生きていくって決めたはずなのに。なんだろう、俺、疲れてるのかな。
 道端の公園の隅にある喫煙所。夕方に差し掛かった平日のこの時間帯には、思ったよりも人がいなかった。吸い込まれるように入り、煙草に火をつける。サラリーマン風の男性が数人、ある人はひとりで、ある人は談笑しながら思い思いの時間を過ごしている。白い煙を宙に吐き出し、曇り空を見上げた。
 湿気交じりの夏間近の空気の中、サマージャケットを肩にかけたクールな女性が一人。こういう公衆喫煙所に女性が一人でいるのは珍しい。思わずまじまじ観察してしまう。肩につくかつかないかくらいのストレートボブヘアに、オフホワイトのセットアップ、ネイビーのジャケット。ブランドのロゴマークもついていないシンプルなエディターバッグをエナメルブラックのピンヒールの足元に置いて一服しているその表情は、少しだけ淋しげに見えた。
 俺も一息、彼女も一息。こんなに観察されていることに彼女は気付いていない。そして彼女は煙を宙にもうひと吐きすると、空を見上げ、眉をひそめ、そして、その目を潤ませる。
 あ、と思ったその瞬間、彼女の右目から一滴の涙が零れ落ちた。あぁ、と思ったときには、その左目からもまた一滴。空を見上げるような角度に顔をやり、でもその瞳には何を映しているわけでもないようで、彼女から目を離すことができない。
 ふた滴めが彼女の右目から零れ落ちたとき、俺は自分のバッグのポケットを探り、明るいブルーのストライプ柄が入った白いハンカチを手にして彼女に差し出していた。
 驚いたように潤んだ目を真ん丸にした彼女が、真っ直ぐ俺をみつめる。
 「もし、よかったら、これ…」
 俺の顔を見て、そして差し出したハンカチを見つめ、煙草を手にしたままふっと彼女は笑った。
 「ありがとう」
 そして煙草の火種をかき消す。
 「でも大丈夫。自分の涙は自分でふけるくらいには、いい大人だから」
 吸殻を捨て、その右手でそのまま頬を拭うその仕草は、やけにセクシーで、でも同時に幼い少女のようにも思えた。俺よりも5歳…いや、もしかしたらもっと年上かも。大人の余裕に満ちたほほえみを崩すことなくその場を去ろうとする彼女の細い手首を思わず握る。
 あれ?俺、なにしてんだろ…
 「そうかもしれないけど…」
 急に手首を握られた彼女の顔は、大きな驚きと、そして少しの不安を交えたそんな表情であった。構わず俺は続けた。
 「だけど、自分ひとりじゃ乾杯はできないでしょ?」
 丁寧にビューラーで上げられたであろうまつげは、涙でしっとりと濡れて黒く輝いていた。そのまつげにキスをしたい衝動に駆られたけれど、さすがに我慢する。
 「俺で良ければ、一緒に飲みに行きませんか」
 目を真ん丸にして驚いていた彼女の表情が、少しだけ和らいだ気がした。そして、ふっと息を吐き出すようにして笑った。
 「…ほんとね。じゃあ、一緒に乾杯してくれる?」
 そう言って彼女は口元をきゅっと引き上げて、眉を下げて笑う。いまだに潤んだその瞳は黒目がちで、昔飼っていたマルチーズみたいに愛らしくその場で抱きしめてしまいたくなる。さっきまでくしゃくしゃに握りつぶされそうだった俺の存在意義が、彼女の柔らかな一息と表情に、まるでアイロンをかけられたかのようにぴんとした。俺も急いで自分の煙草の火を消す。そして、肩からずり落ちそうになるサマージャケットを羽織りなおした彼女の横を歩き出した。
 見上げた空にはぽかんと浮かんだ真っ白の三日月。雲で星は見えないけれど、この三日月だけが、俺と彼女の出会いを見守っていてくれている。なんとなくアジフライが好きそうな彼女に食べさせてあげたいメニューをいくつか思い浮かべながら、ようやく俺は彼女の名前を尋ねた。

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