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2010年代のエルフたち(2007年 十九歳 イチ)

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#小説

16.アンチロマンティック

16.アンチロマンティック

 平野よりもほんの少し早く、山がちなキャンパスの景色が秋の色を見せ始めるころ、夏休みが終わり後期の授業が始まる。
その朝も、いつものように次々とバスが到着し、運んできた若者たちをキャンパスに向けて吐き出していた。
バスターミナルから教室棟へ向かう若者たちの列の中に、イチがいた。
イチは周囲に目を向けることもなく、ひたすらに内部に潜って考えていた。

 イチはどうすればよかったのだろう。
あの日、教

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13.落ちていく

13.落ちていく

 それからのミナは、そういう気持ちで、それはそれで日々をそれなりに楽しく過ごせていたのだけど、
調子を保てなくなったのは、イチが別の女のコに声をかけているらしい、という話を聞いてからのことだった。
その話を聞いたとき、ミナの視界は真っ暗になった。
その話は、イチがもう本当にミナのことを愛していないという事実をミナに突きつけた。
そうなってみてからミナが初めて気づいたのは、イチに別れを告げられてから

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12.別れ

12.別れ

 イチがミナと別れたきっかけは浮気にあった。
といっても、イチが浮気をしたわけではない。
イチは、たとえば自分がその禁止令に納得しているかどうかにかかわらず、その禁止を破ればミナが本当に悲しむとわかっているとすれば、それを絶対にするわけがなかった。
ミナを悲しませたきっかけは、イチが口にした言葉にあった。
浮気をすることは絶対にないが、浮気の禁止という倫理そのものは疑っていると、イチはミナの前で口

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11.ミナ

11.ミナ

 ミナが前期の後半には学校にほとんど来ていなくて、おそらく試験もボロボロだろうという話をイチが聞かされたのは、ゼミの夏合宿でのことだった。
勉強をするかしないかにかかわらず、学生たちの多くはゼミに所属していた。
キャンパスにおける人間関係は、このゼミと、各々のサークルがほぼ基礎になる。
そしてほとんどのゼミとサークルが、二カ月弱の夏休みの間に合宿をするので、両方に所属している学生はそれなりに忙しい

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10.イノセンス

10.イノセンス

 この間、イチは他の女のコに惹かれることがなかったのかといえば、もちろんそんなことはない。
フミと街を歩く時にも、道行く無数の人々の中に輝かしい女のコを見つける事はあった。

 たとえばある時、駅ビルの店頭にフミの目を引く商品があり、フミがイチの手を引いて駆け寄る。
フミがいろいろと説明してくれるが、イチにはその商品の魅力があまりよくわからない。
若い女の店員が近寄ってきて、その商品のお勧め情報や

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9.2007年デート事情

 イチとフミがデートの行く先に困るという事はなかった。
二〇〇〇年代の東京に生きている十九歳の若者が退屈するなど、まったく道理に合わない事だ。

 たとえば山。
キャンパスの裏手には東京のほとんどの人々が一度は足を踏み入れた経験がある山がある。
東京という都市は地理上において一個の平面で、その平面の端から、山々が盛り上がっている。
盛り上がっている最初の山に登って見わたせば、東京という平面が一望で

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8.愛の確信

 初めてフミを抱いた夜、イチの愛はほとばしった。
それは一つの熱狂的確信だった。
フミとならば、この先、何があっても大丈夫だと思った。
大学に入ってからすぐに付き合った、前の彼女(「ミナ」という名前だった)と上手くいかなくなって別れてしまったのは確かに事実だったが、その原因はすべてイチの心掛けと実践が悪かったことにあると思った。
今のイチは、あのころとは違う。
そうした以前の失敗をふまえることがで

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7.渋谷

7.渋谷

 イチとフミが初めて一緒に出かけた週末、二人は渋谷で催されていた企画展を目当てに出かけた。
スクランブル交差点の、ハチ公からは対角線上のビルの下で二人は待ち合わせた。
休日昼の渋谷の人ごみはすさまじく、イチは前に立ってなんとか人をかきわけてフミのための進路を確保しながら道玄坂のほうへと向かい、109の前で道が分かれるところでは右に進んだ。

 渋谷はその名のとおり起伏に富んだ街で、道もさまざまに曲

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6.ディスタンス

6.ディスタンス

 イチとフミが初めて二人で出かけたのは、その翌週の週末だった。
待ち合わせ場所に現れたフミの姿は、イチを虜にした。
人間の認知などいい加減なものだから、その時の気分だとか事前情報、心構えなどに左右される。
イチはこの日、フミと会うのを楽しみにしていた。
楽しい日になると決め付けていたと言ってもいい。
前日の夜など、楽しみにしすぎて明日が来なければいいとすら思ったほどだ。
そんなにも期待して浮かれて

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5.クラスメイト

5.クラスメイト

 「お前はモテていいよな」
と、イチはゼミの友人たちからよく羨まれていた。
一方で、その同じ友人たちが、イチのことをヤリチンの人でなしだと言っているのも知っていた。
そして、そのどちらの言葉も、イチにとっては大して意味を成さなかった。

 たしかに、友人たちがそういうことを言う気持ちも、イチにはわからないではなかった。
なるほど、男としての自分が女のコから良い待遇を受けないというのは、心の土台を失

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4.リスペクト

4.リスペクト

 ある日の昼、イチは、キャンパスのセンターデッキにいた。
バス停から学部棟へ向かう途中で必ず通る踊り場的な位置で、キャンパスの全体的な構造の真ん中に広い空間を生み出し、変化とアクセントをつけている。
日当たりのよいそのセンターデッキを見下ろすような形で、いくつかの学部棟や食堂が建っているわけだ。
イチが座っていたのは、そのセンターデッキの壁に沿って長く設けられているベンチの一角だった。

 午前の

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3.プリンス

 イチは英語圏のポップソングを好んで聞いたが、中でも特別なのはプリンスへの共感だった。
イチにとってプリンスは過去に属する人物だったが、それでもプリンスが歌っているのはイチ自身のことに思えてならなかった。
文学や映画などに覚えのある人なら誰でも経験したことがある、「これは自分だ!」というあの感覚である。
イチはサム・クックやライオネル・リッチーやアール・ケリーも好んでいたけれど、プリンスを聞くとき

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2.出会い

2.出会い

 その日、イチは素敵な女のコを見つけた。
時間は二時限目の授業が始まる前の短い休み時間であり、場所はキャンパスにいくつかある「大教室」のうちの一つだった。
その教室では、後部にある扉から前部にある黒板と教壇に向けて下りの傾斜がついていて、階段状に一段ずつ席が並んでいた。
これはもちろん、後ろの席からも黒板と教壇が見やすくなるための配慮である。
その傾斜のおかげで、イチはちょうど目の前の席に座ってい

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1.キャンパス

1.キャンパス

 やわらかく透きとおる若葉につつまれて、そこは楽園だった。
無知な者たちが集まり、それまで一度も耳にしたことがないようなことを学ぶ。
その者たちに課せられた日々の課題は極端に少なく、やりたいことがなければ何もやらなくてよい。
風雨や労働にさらされていない新品さながらの肉体を流行の上等な服でつつんだ若者たちが、必要以上の大声をかけ合いながら、自分たちのためにあつらえられた建造物群の中をごった返して歩

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