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母親すごいぞ、天才だぞ。

マヨネーズと塩があれば幸せになれる。
サンドイッチの話だ。

私はサンドイッチが好きだ。いちばん好きなサンドイッチ、名付けて“母の作ったべちょべちょサンドイッチ”である。悪口ではない。

トマトやレタスの水分が染み込み、生地がふやけてべちょべちょになっている、それが好きだ。ふやけることで塩の浸透具合もバッチリになる。天才だ、調合が。

お店の綺麗なサンドイッチも好きだ。エビカツサンドは至高だ。定期的にお店のサンドイッチを食べたい衝動に駆られる。引越し先に専門のサンドイッチ店がないため、スーパーのパンを買う。サンドイッチは買わない。スーパーのサンドイッチで「おいしい」と思ったことがあまりないのが理由だ。マリトッツォ、おいしかった。

よくテレビで〇〇偏食家、それらばかりを食べる人を見かける。始めは「まじすか」と思っていたが、私も母の手作りサンドイッチに飢えている。どう足掻いても同士といえる。

私も見よう見まねでサンドイッチを作るが、大しておいしくない。なにが足りないのかもわからない。結論としてマヨネーズと塩が不足していた。残る問題はべちょべちょだけだ。トーストは毅然とした態度でこちらを見ている。私は母になれない。

話は変わるが、私はひどくワガママだ。夫の家族に晩ごはんを食べようとの申し入れがあっても「コンタクトの度数を上げたせいで眼精疲労のような症状が出ており頭痛がします。病院に行きたい。夜も荷物届くし」というイチャモンをつけて断るほど人格に難がある。夫に「コミュ症か」と突っ込まれたが、人見知りを極めた奴が関係の浅い人たちと一緒に過ごせるタイムリミットは「4時間」だとそろそろ気づいてほしい。家族ってなんだっけ。

母もどちらかといえば人見知りで、私からいろんなものを奪い押しつけた。たとえば、汗水垂らして稼いだお金を無断使用したこと、嫌なことからすぐ逃げるのに私には辞めたら勿体ないと励ますこと、エトセトラ。30年間生きてきて尊敬した回数は、悲しきかな片手で数えられるほどだ。

もちろん好きな部分もある。風邪を引いたときは懸命に汗を拭いてくれ、料理が苦手だと豪語するわりには得意料理がある。やはり天才だ。

一方で、義母の人間力はカンストしている。優しいだけでなく料理もおいしい。魚を捌くのが上手で、毎日新鮮な刺身や塩焼きを食べられる義父が心底羨ましい。安いはおいしくて嬉しいから。

母親の義務は子どもの世話をすること。長年そう思っていたが、いざ自分が出産適齢期になると母親の存在ほど偉大なものはないと再認識させられる。

「子どもを育てるのは楽しいが、しんどい」

Twitterやインスタなどの育児アカウントにて流れる本音のことば。育児をしながら生活の豊かさを見いだすのは、想定以上の苦労があるはずだ。


親元から離れて3年が経ツタ。動揺で誤タップした。
気を取り直すと、私は母の子どもであり、母の手作りサンドイッチを食べる権利がある。母の味が恋しくなるのは正常な判断で、会いたいという感情も誤りではない。片道10時間の走行距離は生きるための術を教えてくれた。実際どこまでいけるかなんて、私自身もわからない。

母いわく「愛情を注ぎたいと思う対象がいれば、なんでも与えたくなる。子どもは自分を成長させてくれる」そうだ。私はサンドイッチを食べられるし、母は料理が上手になる、という解釈で合っているのだろうか。
ほんまかいなと突っ込みを入れるより速く、顔を見れば事実となるのだから頭が下がる。

共感できるフレーズが増えた。生きるのはたいへんだ。冷たい現実にぶつかったり、手の鳴らないほうへ引っ張られたりする。それでも尚、這いつくばって日々をつづるように重ねていく。母の手作りサンドイッチを食べる日を夢みて夢を追い、無事に明日を迎えるのが、いまの私にできる最適解だろう。

読んでいただき、いつもありがとうございます。とても嬉しいです!