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自分たった一人じゃ、自分がいるって分からない

君の膵臓をたべたい。タイトルのインパクトもあって、映画から入り、涙腺崩壊。その後、原作本を読み、さらにはアニメ版の映画も見て、果てはコミック版まで読んでしまいました。


こんな一節があります。

自分たった一人じゃ、自分がいるって分からない。誰かを好きなのに誰かを嫌いな私、誰かと一緒にいて楽しいのに誰かと一緒にいて鬱陶しいと思う私、そういう人と私の関係が、他の人じゃない、私が生きてるってことだと思う。私の心があるのは、皆がいるから、私の体があるのは、皆が触ってくれるから。そうして形成された私は、今、生きてる。まだ、ここに生きてる。
~住野よる『君の膵臓をたべたい』

何度目かの読み直しをしているなかで、この一節に深く考えさせられました。色々考えるなかで、ふと人の認識の発達は、身体があることで成り立っていると思い至りました。オギャーと生まれた時からその発達が始まるとして、その最初の瞬間は自分も外界もない世界にいます。次第に、どうやら自分とそれ以外というものがあるらしいと認識していくわけですが、これは身体があることが前提条件なのではないかと思うのです。体で感じることで外界があることを知る。やがて言葉を覚え、自分以外の誰かを認識するようになる。そうなると人との対話の中で「自分」と「他人」、あるいはその関係性としての「社会」を捉えていく。その過程で言葉も育つ。物事の認識のレベルもあがってくる。すると、自分に感情というものがあることに気づく。それに名前があることも分かる。そして、自分とそれ以外の違いに葛藤を覚えるようになってくる。その葛藤の表れの代表例が、思春期なのだろうと思います。

人の成長にはこうした葛藤が不可欠であると思います。思春期を通過し、成人してからも、就職したり、部下ができたり、上司がいたり、お客様がいたりと様々に他者や社会と関わります。そこでの葛藤が節目となって人を成長させます。そう考えると、成人してからもある種の思春期があると思います。

そうした人の発達については、この本がとても参考になります。

この本では、ロバート・キーガンの「主体客体理論」がストーリー形式で取り扱われています。人間の意識の成長・発達は、「主体から客体へ移行する連続的なプロセス」であるというものです。キーガンは、人の発達を下記の5段階で定義しています。これを概観すると、人は、他者という存在があって自己を確立し、超越していくようにできていると捉えられます。

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成人の70%は、発達段階3の他者依存段階にあると言われています。他者の基準によって自分の行動が規定される段階です。とはいえ、そこにとどまっているわけではないと思います。日々、他者や他者との間にある基準に葛藤します。例えば、わたし達は、外出自粛のなか、自分が選択した行動と他者が選択した行動の違いにモヤモヤしました。これは他者との価値観の違いに葛藤し、そのことで自分の価値観を認識したと言えます。外出が規制されるという既存の枠組みがガラッと入れ替わった時に違いが顕在化しました。そして、その違いについて「温度差」という身体感覚で表現しました。

また「一体感」という言葉がある通り、共通の目標に向かっていることを身体感覚で表現することもあります。今、リモートワークが進む中で、ケアしなくてはならないのはこの一体感だと思います。他の誰かと接触する機会が減少することで、漠然と不安を感じている方も多いのではないでしょうか。もっとも、同じ場所に出社したからといって解決するわけではないでしょう。単にルーチンワークをして家に帰るという状況だと発達段階4や5には、到達しないと思います。

VUCAの時代と言われます。これまでの成功体験があてにならない時代です。これからのアフターコロナの時代はますますそうでしょう。今、わたしたちは、自分を規定していた組織や社会の基準が変わることを体感しています。そうなると拠り所となるのは何でしょうか。わたしは、オギャーと生まれた時から培っている自分の存在意義を形作っていく力だと思います。その力を企業活動の中で顕在化していく場づくりについて、続きを書いてゆきます。

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