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影響を受けやすい自分が「読みたいことを、書けばいい。」を読みつつ書いた文章。

自分で決めるということは果たしてどこまで自分で決められているのだろうか。ややこしいが、自己決定が自分の意志であることを自分がどれほど理解できるているのだろうか。
 
決断を迫られる瞬間は生きていればいくらでもある。私でいえば先月、仕事を辞めるという決断をした。決断をしたのだから、仕事を辞めると決めて、就いていた仕事を断ち切ろうとしたのだが、いざ辞めるとなると周りの目におびえたり、私が辞めた後、仕事は回っていくのかという愚かなことを思ったりしていた。2年目の下っ端が辞めたからといって会社に大したダメージはないはずだ。この程度の動きで傾くような会社なら、先が思いやられる。というか、確実につぶれてしまうだろうな。あ、会社が傾くってすごいことだよね、建物が傾くのは大地震とかの時だけだと思っていた。この場合の傾くは、会社の中の一事業所が潰れるという意味合いになるのかな。わからないけれど。
 
辞めた会社のことは置いておいて、私が辞めると決めた時、自分自身で選択できたといえば嘘になるだろう。だって、色々な人の意見を取り入れて決めたのだから、自分一人で決めたとはいえない。きっと、そんなものだろう、人間の選択なんてものは。誰かからの意見という風になびきまくって決めているのだから、「これが俺様の進む道だ!がはは!」なんて声を大にするのは恥ずかしい。人間と大きなくくりでものを申してしまったが、これは自分自身に言い聞かせています。これは自分のために書かれた文章だ。大したことのない自分が人様に「こうしろ!」と命令することなど、憚れるよ。私自身が書いた内容に納得できればいい、そんな文章だ。そうであると決められているので、他人がどう受け取るかは、私から離れた問題である。そうだ、書いた文章が私の問題であると同様に、私が仕事を辞めることは私自身の問題であるから他人には関係ない、といえば辞めた職場の人たちに「血も涙もない人間だ」と非難されるだろう。しかし、私は血も涙も持ち合わせている。血も涙もなかったらとうに死んでいる。改めてみると、腹が立つ文章だが、文章の中の私の性格はこのような皮肉なもの言いをする面倒な奴だ。実生活でも思い出す節があるため、文章にも人間性が現れるのだなと少し驚いた。こんな皮肉屋で面倒な奴なのに、前職場ではいい子ちゃんぶっていたから、疲れが溜まっていたんだろうな。辞めて正解だったかもしれない。だって、自分が自分でないような感覚があったから。自分から自分が離れてしまったら、それこそ取り返しがつかなくなる。辞めたことで自分を生きる選択が現段階では決断できたと思っている。
 
たくさんの意見に支配されながらも、決断できたじゃないか。偉い。自分は自分で褒めてやらないと誰も褒めてくれないみたいだから、文章の中ぐらいは自分を褒めてやるとする。そうして、自己肯定感が上がれば、一石二鳥だよね。文章という石を投げて、自己肯定をし、何かしらに投稿できるという鳥が落ちてくるのだから。それにしても、一投で二羽の鳥を落とすなど可能なのか。それとも、一つの石を何度も投げて二羽の鳥を落とした話なのだろうか。まあ、どちらでもいいのだけれど、私は労力の少ない前者の意見を推しますけれど、本当にどうだっていいことだな。書いている間に書きたいことを見失うということは大いにあり得る。軸が大事だ、プロ野球選手にも一般人にも。体幹を鍛えようと思う。

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