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狐の嫁入りダンロップ・フォート

 上空からぽたんとひとつ、テニスボールが目の前に降った。大きく撥ねたとおもったら、またひとつふたつ、ぽつんぽつんと降ってきた。それから、撥ねる余地もないくらいにざあっと降り出した。あわてて移動して、降り止むまでのその場しのぎにちかくの軒先を借りた。そんな予報が出ていたのかどうか、雲はあっても晴れていたから、狐の嫁入りらしかった。青い空を背に時速95キロで次から次へと黄色い球体が落下してくる様子は、体に当たりさえしなければなかなか見応えがあった。

 テニスボールと言ってもただ空から降ってくるだけの自由落下にテニスのルールは適用されない。アガシだろうとグラフだろうと、ナダルだろうとシフィオンテクだろうと、降り注ぐ蛍光色のダンロップ・フォートを前にできることは何もない。仮にひとつ残らず打ち返したとしても、その応酬が際限なく繰り返されるとわかりきっている以上、勝ちの目がないことはわかりきっている。敬意を持って受け入れ、やり過ごすほかない。唯一その腕を存分にふるうことができるとしたらそれはおそらくボールボーイだけだった。

 グランドスラムを達成したコート上の支配者たちなら、どんな気持ちで向き合うだろう?ただただ見とれて、美しいとおもうだろうか?それともその所在なさをもどかしく感じるだろうか?イレギュラーなバウンドにゲームのヒントを見出したりするだろうか?あるいはダンロップ博士の空気入りタイヤに思いを馳せることもあるだろうか?

 アンドレ・アガシがグランドスラムを達成したころ、すこしだけテニスを齧ったことがあった。夏に当時としては記録的な量のダンロップ・フォートが降った、たしかその次の年だった。

 最初はあちこちに転がっていたなかでもとくにきれいなボールを、ただせっかくだからという理由で拾い集めていた。よりきれいなひと玉をみつけては入れ替え、入れ替えては拾い、それに飽きると今度は見よう見まねでジャグリングの練習をするようになった。図書館で本を借りて、載っていた図解をノートに写し、それを見ながら家の前でひたすらボールを宙に放りつづけた。どうしても四つ以上を繰れない自分の不器用さにいいかげん嫌気がさし始めたとき、隣の家に住む高校生が見かねてヨネックスの古いラケットをくれた。それで始めた。

 長続きはしなかった。才能と根気のどちらもなくて、挫折する前に手を引いた。向かなかったというよりは何ごとによらずそういう傾向があって、だいたいいつも同じ道を辿った。ひとつくらいは身についてもよさそうだけれど、手を引くタイミングばかり熟れてついぞ身につかなかった。

 どちらかといえば楽観的で、やりおおせなかったあれこれを振り返ったことはほとんどない。こうすればよかったと悔やんだ記憶もない。振り返らずとも歩くことはできたし、気がついたらそのまま大人になっていた。自分の置かれた環境や与えられた役割さえ投げ出さずにいれば、それだけで日々は風車のようにくるくると回った。

 ただテニスのことだけは、こうしてダンロップ・フォートが降るたびにいやでも思い出された。思い出すと言っても懐かしむくらいのものだけれど、時折もうすこし色合いの異なる感慨がぼんやりと心の隅に滲むこともあった。何だろうとおもいながら、それは大抵みじかいため息として外に出た。出てしまえばその由来も未来も知ったことではない。人体の仕組みはかくも合理的で、こう言ってよければじつに神秘的だった。

 気づけば無数の落下は避けて歩くことができるくらいの勢いまで弱まっていた。日常のざわめきが戻り、軒先で足を止めていた人々はまた歩き出した。見上げた空はますます青く、夏らしい風が往来をさらりと吹き抜けた。足下を埋め尽くすダンロップ・フォートはゆるやかに傾斜した道路の側溝に沿ってころころと転がり、その多くがビリヤードのポケットみたいな排球口へと吸いこまれていった。

 嫁入りした狐は活発な才媛だったにちがいない。結納にはたぶん、牛三頭分の腸を使った極上のナチュラルガットなんかが納められたことだろう。

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