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別れの件

それは突然の別れであった。

2月7日 ご飯に行っていた帰りに届いた連絡はおじいちゃんが亡くなった。ということであった。

特別病気だったとかそういう訳ではなかった。
なので最初は本当にびっくりした。悪い冗談ではないかと。

在住が関西であるため、即日おじいちゃんのところには駆けつけることができなかった。

おじいちゃんが住んでいる地域はやや田舎であり、出来る限り早く駆けつけたが、飛行機や電車が遅れ、お通夜には間に合わなかった。

対面出来たのは2月11日の昨日であった。

大学でそのような学習はできていた。
備えは出来ていたはずだったが、亡くなったおじいちゃんと対面した瞬間、涙が止まらなくなった。

あー泣きそうって言って、その5秒後には涙が出ていたのは初めてだった。

すぐにでも目覚めて、おぅ、あんたやっと来たか。遅かったな。と言いそうなぐらい綺麗な顔であった。

これがドッキリであればどれほどよかったか。

それでも、無情にも葬儀は始まる。
真っ直ぐおじいちゃんの顔を見てた。

葬儀が終わり、花を詰めるときに、私が唯一の孫であることもあり、喪主である父がおじいちゃんの好きだったラジオのレプリカを詰めた後に、私の叔母さんにあたる父の姉と一緒におじいちゃんが好きだったゴルフのドライバーのレプリカを棺に入れた。この時もたくさん泣いた。

火葬場に出発する時も、私の事をきっと配慮してくれたのだろう。おじいちゃんの棺の真横に座らせてもらった。

おばあちゃんが亡くなった時に火葬場が1番しんどかった事もあり、あまり火葬場には良いイメージがなかった。

それでも、約2時間その時を待った。

おじいちゃんの骨はすごいしっかりしていた。
骨を拾う場面では、おじいちゃんの右手は絶対拾おうと思っていた。
何度も軽い冗談を言いながら、私の背中を叩いていたから。
その思い出を噛み締めておきたかったのだ。

私自身は遺骨を持たなかったが、父がおじいちゃんの遺骨はとても重かったと言っていた。

そして私自身は位牌を持って葬儀場に戻った。

おじいちゃんは私の本家の中で、唯一数え年で90歳を超えて生きた。
突然の死ではあったが、寿命ではあったし、大変なこともたくさんあっただろう。

ふりかえったり、話を聞くとおじいちゃんは大分不思議な人であった。
それでも、やっぱり私自身はおじいちゃんが大好きであった。父母両方のおじいちゃん、おばあちゃんから沢山の愛情を受けて育った。
おじいちゃんとおばあちゃんには感謝してもしきれない。
そして、本当に失って悲しいと思うのは、自分にとってあまりに身近すぎて、あるのが当たり前のことなんだと改めて実感した。

たくさん可愛がってくれてありがとう。
おばあちゃんと一緒にお話しでもしながら
みんなのことをずっと見守っててね。

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