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iPhoneの修理のはずが、僕の修理になったのかもしれないという話。

僕は、iPhone 6Sを使っている。かれこれ使い始めて7年になるだろうか。そこまでスマホを使いこなすほどのユーザーではないけれども、僕は、このあたりの世代のiPhoneがどうも好きだ。それもあってなかなかモデルチェンジをできずにいる。

使い古しているから故障も多いかと思いきや、そんなこともない。あまりアピールをしないけれども、僕から見ると、Appleの製品は結構丈夫なように思える。学部時代に使っていたMacbook Airもなんだかんだで5年か6年使っていた。僕のタイピングに耐えられず、聞き手の人差し指の圧力が強くかかる"U"のボタンが先に逝ってしまったのだけども。

ただ、さすがになのか、そのときのiPhone6Sは、どうも充電の接続が悪かった。一定の角度にしておかないと充電されないこともあって、毎日正常な充電になる角度になるまで、つける外すを繰り返すのが当たり前になっていた。ただの試練だ。傍から見るとアホのようだ。

ある時期、あんまりにも調子が悪くなったので、Appleショップに行くことにした。この調子になってから半年も経っていたかもしれない。これまたアホである。通常通り、ネットで予約をしてから、決まった時間に現地に行くことになった。

僕は、そんなに人付き合いが良い方ではないし、愛想の良い方でもないと思う。だから、対面のお店に行くことにどこかで抵抗感があった。ただ意外にも、Appleショップの人たちのウェーイ感というのかノリの良い感じには、それに合わせればいいかと思って、ある意味で気楽に思えた。そんなことを思いながら、当日を待っていた。こんなふうにシミュレーションをしてしまっている時点で、コミュニケーションに対する苦手意識はあるのだけども。

当日は、一人でAppleショップに向かった。僕はひとりでどこかに出かける時は、決まって持っていくものがある。本だ。

高校生くらいからだけど、移動時間は常に本を読んでいる気がする。電車の中で揺られながら本を読むのが好きだし、誰かを待っている路上でも本を読む。みんながスマホを開くようなときも大抵は本を開いている。友人やパートナーにたとえ待ち合わせの時間で待たされても、なんとも思わない。だって、ずっと本を読んでいればいいからだ。本という、このひとが側にいてくれれば、僕は基本的に安心していられる。

その日もいつものように本を携えていた。Appleショップに入ると、輝いているような受付の人に声をかけられ、用件を伝えて、階段の上がったところで待っていて欲しいと伝えられた。こういうふうに客を迷わせないオペレーションは結構すごいことだなと思いつつ、僕は席に座った。待つかもしれないと思って、いつものように本を取り出して読んでいた。

しばらくすると、スタッフの人が僕のところに来て話しかけた。

「すみません、お待たせしました」

「いえいえ」

オペレーションにある手続きを簡単に済ませ、どんな用件なのかを聞かれたので、いくつか回答をすると、スタッフの男性は、僕のiPhone 6Sを確認した。

「iPhone6Sですか。このデザインっていいですよね」

とさりげなく言われた。たしかにAppleショップの人だからというのもあるかもしれないけど、そうやって言われたことに何だか嬉しくなった。記憶の限りで言葉をここに再現したけど、きちんと反映できているかはわからない。それでも、その人の言い方がとてもちょうどよかったことを覚えている。その人が予想していたように、僕はiPhone 6Sのデザインが好きだった。あんまり保護カバーもしたくなくて、そのまま持っていたいことも伝えた。

彼は修理なのか裏側の確認なのか、しばらくタブレットに情報を入力しながら、

「本がお好きなんですか。どんな本を読まれているのか気になって」

と僕が読書をして待っていたことについて尋ねてきた。ちょうどその時は岩波新書から出ている『音楽の基礎』という本を読んでいた。以前に投稿した閉店を迎えた書店で最後の方に買った一冊で、ここ一年くらいでNHKのクラシックTVを通じてクラシック音楽を聴くようになっていたこともあって、その本を買うことにした。タイトルの通り、基礎の部分から丁寧に解説をしてくれる本である。音楽とは何かに応答するような内容だった。ここに書いたような内容のことを彼に伝えた。

「へぇ〜、おもしろそうですね。実は、僕も音楽をやっていて、バンドなんですけど、10代の頃からやっていたので、面白いですね」

そのあとの話を聴いていると、どうやら彼は読書という行為そのものに関心を持っているようだった。

「恥ずかしいんですが、最近、本を読み始めたんです」

「そうなんですね。そんな恥ずかしいことではないと思いますよ」

「両親が本をよく読む人で、父の家の本棚には理科系の本がたくさんあって、母の本棚にも別の種類の本が並んでいたんです。ただ、自分はどうも親に反発してしまうところがあって、本を読めって言われると、なんというか気が進まなかったんです。当時は音楽が好きで、音楽にばかりのめりこんで、学校すらまともに行けていなかったんですよ」

「そうだったんですね」

「ただ、行きつけのバーで人に会う中で、学者の先生にお会いしたんです。その先生が色々と本を教えてくださって。その本を読んでいくうちに面白いなと思ったんです。最初はページの少ない本とか、実写化したものの小説を読んでみたりしたんです」

「たしかに、実写化したものは馴染みやすいですよね」

「そうやって本を読んでいくうちに、面白くなってしまって。本を読んでみると、知らないことがたくさん書いてあるじゃないですか。こんなふうになっているんだって宇宙についての本を読んだり。知れば知るほど面白いなって。自分は学者でも何でもないですが、こうやって知ることは楽しいから、もっとやりたいって思ったんです」

「いいですね」と言って、思わずにっこりとしてしまう自分がいた。この人の話を聞いているうちに、なんだかぽかぽかと温かい気持ちになってきた。そのスタッフさんの目はとても綺麗でまっすぐとしたものだった。素直な気持ちに触れると、自分の中の素直な気持ちが呼び起こされる気がした。


実を言うと、僕はそれまでの数週間の生活の中でいくつか嫌なことが重なって、気落ちしているところがあった。思いがけない人間関係の中での嫌なこと。あんまり人生でも経験したことのないような、なんだかいやぁな感覚だった。「嫌悪感」という言葉を使うタイミングがあるなら、このときほど当てはまるものはなかったかもしれない。

そんなふうにして気落ちしている僕にとって、思いがけずに出会ったその人は、ちょうどよいペースで僕の中にある何か気力の出るものを呼び起こさせてくれていた。全くの偶然だし、ご本人にその気があるわけではない。だけれども、結果として何か応援してもらっているような感覚になった。


その人は、とにかく謙虚な人だった。もちろん、店員と客という関係があるからそのようなコミュニケーションが生まれていたとも言えるかもしれない。ただ、そういったものを抜きにしても謙虚な人だと思わせるところがあった。

自分が住んでいる世界の一つは、アカデミア(学問共同体)だ。学者の集う場所である。学者は、言葉だけを見れば「学ぶ者」となるけれども、一般的に学者と聞くと、何だか格式ばったイメージを持たれてしまうところがある。そういうイメージとは離れたところで、純粋に学ぶことを楽しむ姿勢のようなものをこの人から感じ取っていた。何かを学び始める人の素直な気持ち。そういうものを思い出させてくれた。


ここでは具体的な名前は書かないけれども、最後に興味をもつきっかけになった本をその人は教えてくれた。とても読みやすそうな内容でありつつ、知識のあり方について議論をして検討をする内容だった。ちょうど時事的に問題になっているような科学的なトピックに関しても、偶然にも重なるような内容が含まれていた。

僕もお返しにと思って、とっさに加藤秀俊先生の『独学のすすめ』を紹介した。その人が学歴を気にされていたこともあって、「どこでも一人で学べる」ことを伝えられる内容として良いかなと思ったからだ。


先日、ある本屋を訪れた時に、このスタッフの人が紹介してくださった例の本が売っていた。その本を見つけた時に、このスタッフの人のことを思い出した。

このスタッフの人の存在は、僕にとって「いつからどこからでも始められる」という感覚を思い出す大きな拠り所になっている。


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