「面倒くさい」がイノベーションを生む

何もかもが面倒くさい!と感じる自分の心理を夏のせいにしたいのは山々なのだが、私の面倒くさがりは四季折々に理由を付けて顔を出しQOLをぐんぐんと低下させて満足げな顔をして衣服の散乱した部屋で寝転がっている。

だがそれだけで私のことをゴミクズ、畜生と断罪するのは待ってほしい。
世の中面倒くさがらない人間なんているのだろうか。

「面倒くさい」という言葉は多重的に意味を持っている。

■時間的面倒くさい
ex.)これ全部スプレッドシートにまとめろとかクソめんどくせえなぁ

■肉体的面倒くさい
ex.)洗濯って洗うまでは良いけど干すのがクソめんどくせえなぁ

■精神的面倒くさい
ex.)先輩の結婚披露宴、俺のテーブル上司まみれとかクソめんどくせえなぁ

など。これらの面倒くさいはもちろん重なり合って、例えば時間的と肉体的両面の意味で使用されることも多いだろうと思う。

この世で面倒くさいという感情が無い人がいるならば、カレーが食べたくなったらまず土を耕し各野菜やスパイスの苗を植えて水を与え草を抜き収穫し子牛を飼い放牧、育成し屠殺して各部位に分解して火打石と石器と土器でも使ってプリミティブな調理をしてくださいよ!と思う。

こんなことを言えば嘲笑されるのは私だろう。
それはもはや面倒くさいとかいう話ではなく、ただ時間的に肉体的に精神的に無駄なだけだろゴミクズ、と。

なぜ無駄なのですか!と私はイキりたって尋ねる。

それは単純にこの世の中には自ら食材を一から作らなくても専門で作っている人がいてそれを売っているから。
もっと言えば調理する必要すらなくカレー屋さんに行けばカレーそのものが売っているから。
人間の社会というのはそのようにそれぞれに専門的に特化した分業制度で全体の効率化を図っているのだよわかるか畜生くん!と言われるかもしれない。

という事は世の中は誰かの「面倒くさい」を誰かが請け負うことで成り立っていると言っても過言ではない。
そしてじゃがいも単品よりカレー野菜セットのほうが値段が高く、それよりもレトルトカレーが高価でカレー屋のカレーがもっと高いお金を払わなければならないという事はその面倒くささに応じて社会的価値が上がっていくということだ。

つまり世の中というのはみんなの「面倒くさい」で成立していると言ってしまっていいのではないだろうか。

という事は私のような面倒くさがりな人間というのはイノベーションを起こす可能性が他人より高いということになる。
何故ならば他人が面倒くさいとなんて思いもしないところに面倒くささを見つけることができるのだ。
私の世界には面倒くささのフロンティアが無限に広がり正にゴールドラッシュでGOWESTな気分だ。

人間というのはそれまで不便さを感じなかったものでも誰かの手によってそれがより便利になったときに、初めてそこに不便さを見つけることもよくあるだろう。

私が学生の頃、中野駅にエスカレーターが設置された。
それまでホームへ行くためには階段しかなかったがあまり自分は気にしてなかったので設置された当初は「あぁ、ラッキーだな」くらいに感じていた。
しかしそれから数カ月ほど経ったある日、エスカレーターが点検か何かで使用できなくなった日があった。
そのときに私は「何だよ、面倒くせえなぁ」と感じてしまったのだ。
最初は0からのプラス、ボジティブな要素でしかなかった便利さが定着してしまったことでプラスであったはずの地点が0として設定され、それがなくなった瞬間にネガティブな不便さとして私の心に現れたのだ。
当たり前のようなことだが、一つ便利になるということは一つ不便さを知ることに他ならないということを身を持って実感した出来事だった。

これからの世の中をより便利にすることでまだ皆さまの知らない不便さをお伝えできる自分を誇りに思いながら洗い物が溢れるシンク、空のペットボトルと缶が並んだ机、3日前に干したままのバスタオルその他諸々の面倒ごとに目を反らして明日の私に期待して寝よう!!!

地方都市に住むにんげんです。 なにか思ったことなど、カタカタ書いておきます。