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他人の推しを嗤うな~レベルって何だ?Ⅱ

御承知の方もいるだろうが、自分はサッカーチームについては、基本的にガイナーレ鳥取推しを強く標榜していて、付随してデッツォーラ島根ECや湘南ベルマーレ、女子のディオッサ出雲FC、更にはフットサルのポルセイド浜田まで、多岐にわたって推している。

これらのチームを推すきっかけは様々にあった。

ガイナーレ鳥取の場合は上記にその辺が書いてある。

デッツォーラ島根ECならばこの辺り。

ポルセイド浜田だとこの辺。

上記それぞれで紹介したように、どんなチームにも推したきっかけってものはある。好みは人それぞれなので、誰からも後ろ指を指されることもないと思っている。指されてなるものか。自分はそういうのは許さない。
と言っても、面倒くさいことは嫌いなので、そんなことでいちいち突っかけてくる人はそもそも相手にしないし、する気にもならない。自分の立場とかが著しく脅かされるような場合を除いては、だが。
それに、相手にしても自分に何のメリットもないのだから。

まあ、しかし、中には「あなたは何で〇〇が好きなの?」ってなことを単純な興味として訊くのならまだしも、その口調に揶揄というか、嘲笑が混じっている人(今のところあまり見たことはない。エゴサーチみたいなことはしないので、自分が知らないだけかもしれないが、おかげさまで長年ブログとか書いてると、わけのわかんない人は時々いるようだ)がいる。

そういう連中は大抵の場合、『俺はイングランド・スペイン・ドイツ・フランス・アルゼンチン・ブラジルのどこそこ(これらはほとんど同じようなもので、大抵はそれらの国々の最上級プロリーグの著名チームを指す。クラブチームでない場合は代表チームが強い国の名前を指すこともある。更に、場合によっては、それらのチームににいる〇〇という選手、という選手推しの場合もある)が好きなんだけど、君は?』みたいな展開になる。

面白いのは、そういう連中はほぼ決まって「レベルが云々」と言い出す。自分も前にこういうのを書いたことがある。

このレベルというのが、一見するときわめてわかりにくい概念ではある。しかし、現実には非常に単純明快な概念だとも言える。何故か。
それはつまり競技レベルという茫洋とした指標は誰にも可視化できないものだからだ。

そのような理由から競技レベルの高低などという曖昧な概念は、本来は使われるべきではないと思う。

それらを示すものが数値化・データ化されて、客観的な指標となって初めて有用に使われるべきもののはずで、それは観戦時の指標としてより、むしろ競技力の詳細な分析などに使われるべきもののはずなのだ。

スポーツ競技だけでなく、例えばポピュラーやクラシックなどのジャンルを問わない音楽。小説などの文章、詩歌の類、ジャーナリズム、映画・演劇などのような文化的なフィールドにあるものでさえもそうだと言える。

それらのレベルについて、どうやって数値化・指標化できているのだろうかと、毎回毎回不思議である。

例えば、音楽で言うと、ビルボードのチャートに日本人アーティストの曲は滅多にランクインしない。米国内での商業化が確立されていないからでもあるのだが、あと、日本国内で流通して、それなりに大ヒットしている音楽はそもそも米国国内向けにカスタマイズされた音楽ばかりではない。

例えば、AKB48が今のままの売り方で北米でディストリビューションされたとしても、日本みたいに売れるわけではない。
彼女ら自体は可愛らしいお人形さんみたいなものなので、相応に人気は出るだろう。しかし、だから北米で売れるわけではない。

大昔だが、あの坂本九さんが「上を向いて歩こう」で、世界中のヒットチャートでは権威的な存在とも思われるBillboard Hot 100で全米1位を獲得したことはあるが、あれはむしろ特殊なケースだった。ただ、印象は非常に強かったので、後年でも「SUKIYAKIのキュー・サカモト」として認知されていたそうだ。

この曲はそもそも北米向けのアレンジなどなく、これを聴いたとあるDJの推奨などがあって、火がついて大ヒットしたという。今聴くと、エディ・コクランの「Sittin' In the Balcony」みたいな趣がある。

この「SUKIYAKI」は、北米向けのチューニングはなかったが、北米向けにチューニングされて売れた人(たち)と言えば、ピンクレディーがそれに該当し、彼女らは「Kiss in the dark」という曲で全米37位というスマッシュヒットを飛ばしている。これはかの「SUKIYAKI」を除けば、日本人でBillboard Hot 100で最も上位に入った曲でもある。

あちらのライターが作った曲で、楽曲を聞く限りは、この頃に流行していたディスコミュージックのノリが多分にあり、確かに日本人デュオという括りがなかったとしても、それなりに売れる要素はあったのかもしれない。

また、この曲と同時期にNBC(全米三大ネットワークの一つ)で冠番組まで持っていたというから、契約が切れることなく更新され続けていたら、あるいは日本よりもむしろ北米向けで名前を売っていたように思われる。
但し、その際は日本向けのバブルガムアイドルでなく、より北米向けにチューニングされていた可能性もあるだろうけれど。

ただ、その当時に活動に際してのヴィジョンが作られていたわけでもなかったらしく、また、先程ちょっと触れたように日本での活動時のイメージとかなり異なることなどから、日本国内で紹介される機会も少なく、その評価は現在ではまちまちだと言わざるを得ないようだが。

話を戻すが、そんなわけで、現在はこのような規模でヒットを飛ばす音楽家はほとんどいない。チャートイン自体はピンクレディー以後も多数の例があるが、いずれもピンクレディーを上回っていない。
ましてや、日本人で全米1位の快挙は坂本九さんしか存在しない。その快挙から、もう半世紀以上経過している。

突出したチャートアクションで名前を売らなくても、世界的に著名な音楽家だったらポピュラー音楽の世界ではイエロー・マジック・オーケストラの3人(細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏。但し彼らもチャートイン経験そのものはある)などがいる。

あのピコ太郎もランクインしている。彼の「PPAP」のヒットは先にも触れた坂本九さんの「SUKIYAKI」のパターンに近いと思う。北米向けに特別に編集などしなくても、その内容だけで受け入れられた、というものだ。

これを自分が面白いと思うかどうかは別にして、わざわざ海外向けに特殊なチューニングやアレンジをしなくても、結果的に世界中でこれが受け入れられ、爆発的なヒットになったことは間違いない。

で、これらの事例を根拠にして「日本のポピュラー音楽は、欧米に比べて低レベルなのか?」という話になると、答えはNoとしか言えない。

映画などでも同じようなことがよく議論の的になる。「興行収入が高いから良い映画か?」というあれ。
「興収が高い」=「映画として上質」という論理は、この両者の間に確たる相関関係が認められないと成り立たない。だって、衆目の評価の高い上質な映画は必ず興収も高くないといけないことになる。しかし、現実には違うでしょ。

テレビに於いても同じで、番組の質的な部分を高く評価されたものが、視聴率も高いのかというと、そんなことはないわけで。
例えば土曜日の地上波に於けるゴールデンタイム(仮に21時とする)の番組を例に取ると、人によっては「嵐にしやがれ」を見るだろうし、また別の人は「世界ふしぎ発見」を見るかもしれないし、更に別の人は「土曜プレミアム」や「サタデーステーション」「出没アド街ック天国」を見るかもしれない。「NHKスペシャル」だったり「すくすく子育て」かもしれないが、いずれにしろその時間に習慣として地上波のテレビを見る人は、どれかを選ぶだろうが、その結果が番組の質を保証するわけではない。
恐らく視聴の理由はそんな質的なことではなく、もっと単純なことだと思えてならない。

先に挙げた音楽だって同じだ。ビートルズを愛好する人もいれば、AKB48を愛好する人もいるだろう。セックス・ピストルズを愛好する人もいれば、忌野清志郎だったりブルー・ハーツだったり、槇原敬之だったり、あるいは春日八郎や小林旭、更には美空ひばり、また、氷川きよし、北島三郎、坂本冬美や石川さゆりなどを愛好する人々もいる。
愛好する音楽家が複数いるケースだって当然ある。しかし、個々人が愛好する音楽がそれらの質を保証するわけではない。

俳優だって同じ。欧米の有名俳優が好きな人もいるだろうし、日本の有名な俳優かもしれない。あるいは知名度や認知度はやや劣るが、その人にとっては名優だという人もたくさんいるだろう。
だが、それらの認知度や知名度が即ち、その俳優の質を保証するものではない。

作家(及びその文章)にも同じことが言えるし、映像作家(及びその作品)についても然り。それらがどんなものであろうと、好む人がいるのなら、それはそれで存在価値がある。

ここで敢えて言う。
常識的な範疇であるならは、あなたが何かを推すことは少しも恥ずかしくない

我が国の法律や住まう場所などの条例、その場のルールなどを遵守し、然るべき義務を果たす限りは、我々は如何なるものでも愛好する権利がある。

推しがあることは良いことなのだ。推しが存在することで、あなたの人生をちょっとだけでも豊かにするかもしれない。そしてそれはあなたを少しだけでも勇気づけるかもしれない。だから、推しを持つことは良いことなのだ。

その一方、あなたには他者の推しを嗤う権利はない

あなたの隣にいる人が何を好きで推しているのだとしても、それが公共の迷惑でない限りは、何人たりとも止めることはできない。あなたが何かを好きでいるように、その人はその人なりに何かを好きでいるだけなのだ。それを嗤う権利はないだけの話。

あなたが他人から己の好みを嗤われる道理がないように、あなたも他人の好みを嗤う道理はない。何かを好きになる権利は誰にでも等しく存在する。

スポーツチームだってそうだ。あなたが、何処かのチームを好きでいることについて、誰が咎めることができよう。

だから、あなたはあなたなりの方法でそのチーム(または選手)を好きになればいい。好きなものを好きになる権利は何処のどんな人にもある。特定の誰かだけが特権的に持つような権利ではない。

しかし一方で、愛し方が度を超えたり、良識を逸脱したり、相手に迷惑をかけることだけは絶対にダメだ。それができない人は誰かを推す資格はない。ストーキングみたいな行為など、論外も論外。常識の範疇で、何かを愛するなら、誰も咎めることはできない、というだけの話だ。

まあ、クッソエラソーにあれこれ書いたのだけど、あなたの好きを何人たりとも侵害する権利はないし、あなたも同じように他者の好きを侵害することはできないよ、という話をしたいだけだ。

それだけのことにここまで尺を使うべきだったかどうかはわからない。

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