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サッカーの試合の楽しみ方は、千差万別人それぞれで良い

今から、わかりきったようなことを書こうと思う。

サッカーの応援者、俗にサポーターと呼ばれる人々の中には、「俺(私)はホームだろうがアウェイだろうが可能な限り行く」と豪語し、実際にそういう行動をできる人がいる。

確かにそれは非常に素晴らしいことだ。

しかし、その一方で、様々な事情により、参戦不能な試合が生じてしまったり、限定的な参戦しかできない人もいる。

皆さんは、単純にどちらが偉いと思う?

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私自身は、病気などに起因して主に後者の人間なので、行ける範囲で試合に行ければそれで十分だと思っている。

たくさんの試合を見られたら、そりゃそれで良いに決まっているけれど、数さえこなせば良いのだろうか。
むしろ、そうして機会を得て行った試合に何らかの価値を見出し、それを愛でることができるなら、まさしく万々歳ではないのか。

例えば、あなたが出向いたある試合で、例えば以下のようなことが起きるとしよう。

一推しまたはそれに匹敵する○選手が大活躍した
スタジアムグルメに○という店が出店していて、そこの店で売っているグルメをたらふく堪能した
新しいグッズの○が出ていた
サイン会に出てきた選手が、一推しまたはそれに匹敵する○選手だった
……他諸々。

その全てでも、どれか一つでも構わないが、これは自分にとっての、まさしくスペシャルワンだと思える要素があるなら、その試合に行ったこと自体が大成功だったと言える。

そういう喜びに浸りることができるなら、行ける試合数が少なくてもその人にとっては十分に幸せなのだと思う。
行った試合の数だけ感動や喜びがあるのではなく、あなたがその場に立ち会うことで得られる喜びや感動というものがあるはずなのだ。

行った試合の数でカーストを作ってみても、それを作ったあなただけしか満足しない。

私は、こういう身体になってから特に、行けた時に行けた場所なりで無理をすることなく楽しめれば良いや、と思うようになった。

数でなく、質を楽しみたいとも思うようになった。質と言っても、その場でやってくれるサッカーの内容にもよる面はあるが、そこにばかりフォーカスしていても、肝心のものを見逃してしまうかもしれない。

例えば、イベントかもしれないし、スタジアムグルメかもしれない。あるいは、新しいグッズかもしれない。何かは知らないが、それらが幅広くあなたを待ち受けているだろう。

それが、仮にサッカー以外のものであったとして、何が問題なのだろうか。そこでは「祭」をやっている。

きわめて乱暴な言い方をすれば、サッカーの試合は、その中に含まれる一要素でしかないのだ。

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そもそも、あなたがそこで見るものは、その時にしか起こらないものだ。

毎度毎度、定常的に起きるものではない。常に千変万化する状況の中の、ほんの一部にしか過ぎないものだ。
それがあなたの目の前で繰り広げられる。あなたは、その眼前で起きている物事を切り取って記憶すれば良い。

祭というのは概ねそういうもののはずだ。あれは記録されるためにあるものではない。その刹那を楽しむためのものだ。

サッカーのゴールが刹那で決まるもののように、野球のホームランや三振なども、いくつかのプロセスは経るが、基本的には刹那の中で決まる。

テニスのウィニングショット、バスケットボールのブザービーター、駅伝やマラソン、あるいはモータースポーツや競馬などで前の走者、車、馬などをオーバーテイクすること……。

それらにもプロセスはあるが、基本は刹那的なものだ。

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私も今年はいろいろな刹那を楽しんだ。

それらの一つ一つに、何らかの意味があると思っている。

ガイナーレ鳥取にしろ、ポルセイド浜田にしろ、Yonago Genki SCにしろ、オリンピックやパラリンピックにしろ、何でもそう。

私の眼前で繰り広げられる刹那の積み重ねが、私の人生の潤いになり、活力になっていく。

そりゃあ相手のあるスポーツには、概ね勝敗がついて回るものである以上、中には意図しない結果になることもあるし、どうにもならないものしか見られないことだってあるだろう。

でも、それらにガッカリする前に、それらの中に、あなたを充実させる何かが紛れ込んでいるかもしれない、と思った方が良い。
そうすれば、見えてくるものも自ずと違ってくるかもしれないし、同じ事象の見え方も異なってくるだろう。

目の前でやっている試合について、あなたなりの楽しみ方を見つけていただきたい。

人それぞれの見方、楽しみ方があって良いのだ。それを咎める無粋を、誰が許すだろう。
試合が行われている国の法律や当地の条例、その場のルールなどに抵触することなく、あなたが好きなように楽しむことは何ら罪ではない。その権利は何人に於いても保障されているはずだ。
それを、誰が抑えつけたり咎めたりできようものか。そんな権利は誰にもない。

まさに「みんな違って、みんな良い」の精神で応じることなのだ。それでいいのだから。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。