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サバ云うなコノヤロー!~ハナ肇とクレージーキャッツを巡る考察みたいなもの

♪学校出てから十余年~

という歌い出しの「五万節」という古い曲がある。歌っているのはハナ肇とクレージーキャッツ(以下、文中敬称略とさせていただく)。
リードを取っているのはその中の、ハナ肇・谷啓・植木等のお三方だ。作者は、作詞が青島幸男、作曲が萩原哲晶だ。
以下にご紹介するのは、歌詞に問題があるということで回収された、いわゆるオリジナルヴァージョンである。植木等が歌っているパートがマズかったのだと推測できる。

自分は長らくテンポの少し速い改訂ヴァージョンしか知らなかったので、後年オリジナルヴァージョンを聴いた時に、その歌詞がこの時でも問題になったのかと思ったし、敢えて植木等のパートにそれをぶつけてくる青島幸男という人の胆力がたまらないなあ、と思った。

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さて、ところで。

この曲、学校を出てから十余年後にあるクラス会が舞台であり、そこに集まるいろんな人間が大袈裟なホラを吹き倒した挙げ句、最後に「サバ云うなコノヤロー!」というツッコミが入る、というパターンが繰り返される。

この「五万節」を自分の境遇でやったらどうなるだろう?

学校は出てから既に十余年では利かない程度になっているので、後年、大瀧詠一の手による「新五万節」に倣って「ン十年」にした方が良いのかもしれない。

例えば、こんな感じ。

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学校出てからン十年 今じゃサッカー追いかけて
適当なことばっか書き倒し 観戦したのが五万回♪

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実際に五万試合も見てるわけがないのであって、ていうか、そんなに見てたら、目も肥えて、書く文章の内容もそれなりのクオリティになるわけで、そうなると一端のライターになれるっての。

でも、現実の自分はサッカーについては目なんか肥えてもいないし、文章はどうしようもないし、おカネとって読んでいただけるなんて恐れ多くて。というタイプなので。

まあ、そういう風に読んでもらえて、それなりの評価をいただく様子を夢想するのが関の山なのね。セコいというか安っぽいというか。

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ところで、今更ハナ肇とクレージーキャッツでもないが、しばし、彼らについての論考におつきあい願おう。

ハナ肇とクレージーキャッツ名義の曲は、この五万節に限らず、面白い曲がとても多い。これらの主として作られた時代が1960年代であることを考えても、結構先進的な気がしてしまう。
もちろん、中には時代にそぐわない表現もある。「ハイそれまでョ」の三番に出てくる奥さんなんて、今の時代にはまずあり得ない。

自分はハナ肇とクレージーキャッツをリアルタイムでは意図的に視聴したことがない。
そんなグループがあったことは知っていたが、彼らが勢揃いするのを見ることは数えるほどしかなかった。

ただ、江口寿史やとり・みきのマンガに、彼らのことが時々出てくるので、どんな人たちだろう、と興味があった。

彼らは映画にも出ているが、映画はなかなか観られないので、とりあえず音楽を聴こうとなって、音源を仕入れてきて、「なんじゃこりゃあ!」となってしまった。以来、ハナ肇とクレージーキャッツが大好きになった。

彼らは折に触れて再評価されるものらしい。つい最近も、山本耕史が主演したNHKのドラマ「植木等とのぼせもん」などがよく知られるだろう。あれは自分も見たし、とても楽しめた。

テレビ番組は古すぎて、滅多にリバイバルされない。あのナベプロ丸抱えのお化け番組「シャボン玉ホリデー」だって、ろくに残っていないだろう。時々YouTubeなどで視聴することもできないわけではないが、それだって当時放送していたオリジナル版ではない。

願わくば、1980年代にリバイバル放映されたスペシャル版をみてみたいと思うのだ。あの当時の若いメンバーたちと絡むクレージー。さぞ面白かっただろうと思う。

そして、それらを観て思う。クレージーキャッツは芸達者なのだ、と。特に音楽が絡むとセンスの塊みたいになる。7人のメンバーが、強い個性を発揮してしまう。

クレージーだけではない。メインのザ・ピーナッツも同じように才気を爆発させていた。

今、シャボン玉ホリデーを再現させることは不可能に近い。クレージーキャッツがほぼ全員物故者になっているとかいう物理的な理由だけではない。
あんな芸達者が、恐らく今の日本の芸能界にはいない。トークやリアクションは抜きん出ているかもしれない。今はそういうものが持て囃される時代なのだろうし、それはそれで良い。
そして、むしろこちらの方が理由としては大きいだろうが、コストに見合う番組が提供できないだろう。

これを読むとわかるのだが、この番組は正味30分足らずの尺しかないが、その番組にふんだんな内容を詰め込み、放送作家の数もクレジットされる1名を別にすると、結構な人数がいたのだという。
出演する人の多くは渡辺プロダクションが抱えるタレントばかりで、そういう意味では作りやすいが、今で言えば、よしもとクリエイティヴエージェンシーのタレントばかりで番組を作るようなものだが、それを嫌う視聴者も増えている昨今では、なかなか考えにくいかもしれない。

昔は映画でも五社協定みたいな縛りがあったので、そういう拘束がある程度常態化していたと言えるが・・・。

あと、今のテレビ番組を取り巻く環境は、あの番組が隆盛を誇った当時に比較すると、どう言ったら良いのか、とてもギスギスしているようにさえ思えてしまう。
あの当時もいわゆる放送コードというものはあっただろうけど、現代と比較すれば相当に緩かったのではなかろうか。
今の基準で番組を作ったら、たぶん相当につまらないものになるのではないかとさえ思える。もちろん、料理の方法1つで面白くもできるかもしれないが、それを見出すにはやはり時間がかかると言わざるを得ないだろう。

こういう番組は、今ではむしろYouTubeやニコニコ動画辺り、あるいは、AbemaTVだとか、hulu、Netflix、Amazon Prime辺りでやるのがベストなのかもしれない。
恐らく、既存のTVに代表されるメディアでは、もうかなりの割合で困難なのかもしれないと思う。

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長々とくだらないことを書き連ねてきたが、ハナ肇とクレージーキャッツは日本の芸能史に於いて語り継いでいくべき人たちだ。そこだけは絶対に譲れない。異論も受け付けない。

リアルタイムで彼らの全盛期を見ていない自分でさえそう思う。同じように全盛期をリアルタイムでは知らないビートルズでもそう思うのに。

ハナ肇とクレージーキャッツは、コメディアンではなく、基本的にはバンドマンの集まりだ。ミュージシャンと言うよりはバンドマン。どう言ったら良いのかな、ミュージシャンとバンドマンという言葉の間にあるニュアンスは微妙に異なる。

彼らの笑いはバンドマンの余芸なのだ。だが、その余芸が玄人はだしで、しかも達者だったからたまらない。

彼らのナベプロに於ける後輩に、あの有名なザ・ドリフターズがいる。ドリフも同じように音楽上がりのお笑い集団なのだが、彼らは結果として音楽を放棄してお笑いで天下を取った。ドリフのやり方は彼らの実情を鑑みれば正しい。ドリフもクレージーと同じように尊敬に値する。

ドリフを、少なくとも荒井注が辞めた後、頻繁に見たし、「オレたちひょうきん族」が始まるまでは、「8時だョ全員集合」を毎週のように見ていた。それだけではない。「ドリフ大爆笑」も毎回のように見た。

むしろドリフ(特に志村けん加入後)の方が世代的にはストライクだ。だから、ドリフが、例えばビートルズの前座をやっている様子は、後年になってから映像で見たが、それにはあまり現実味を感じられない。
このように、音楽バンド時代のドリフは、面白いのかもしれないが、クレージーと似たような路線でいる限りは浮上は難しいとさえ思えた。だから、志村けんが入ってきて、音楽を脇に置いた時から、ドリフの快進撃は始まったと言えるかもしれない。

実際、ドリフはとても面白い。前述の様々なものも見た上でそう思う。だけど、ドリフの面白さとクレージーの面白さとは恐らく違うものだろうし、自分はクレージーの面白さにシンパシーを覚える。それだけのことだ。

もう一度言うが、ハナ肇とクレージーキャッツの凄さは、彼らが最後までその芸を「バンドマンの余芸」としてやり遂げたことにあるんじゃないかと、かなり強引且つ勝手に思っている。
ドリフはお笑いを究めたが、クレージーは笑わせることもできるバンドマンであろうとした。たぶん、笑いの追求の仕方や深度が、ドリフとクレージーでは違ったのだろうし、自分の場合はクレージーの方が腑に落ちる、というだけの話だ。

座付きの、青島幸男をはじめとする有能なブレーンの存在も大きかったことはここで申し述べるまでもない。

ただ、基本的に彼らは笑いに執着していたとは考えにくく、あくまでも笑いを「バンドマンの余芸」としてやっていて、常に「余裕」があったのだと思える。
こういう、必要以上に構えず気楽にやろうとする姿勢が、このグループ全体に漂う「余裕」の源泉なのだろう。

自分はたぶん、そういう「余裕」に憧れて、クレージーを愛好しているのかもしれない。恐らく自分では醸し出すことのできない「余裕」を持つ彼らへの同形が、その源泉と言えるだろう。

これからも自分はハナ肇とクレージーキャッツを楽しむと思う。彼らがやる「バンドマンの余芸」を、彼ら自身が醸し出す「余裕」と共に。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。