自己肯定感等々

最近の“自己肯定感”に関して、強く思う。

「自分は素敵!」や「自分が一番!」のマインドが大切です!ていう具合な声がよく聞こえる。少々解像度が低く若干稚拙に聞こえてしまうかも知れないが申し訳ない。

勿論その考え方は大賛成の嵐だが、その考え方
“だけ”は最早“自己ポジティブ化”では無いのだろうか。あちきにとってはその考え方だけでも充分だがそうで無い人がいるのも十二分に知っている。彼らに向けてはこのフレーズは悪手なのだ。だからその人達に向けて、は多少驕っている部分もあるが、僕の考えを広めたい。

今時分は就活が終盤に差し掛かってきたころだけども、少し遡りまして。
就活始まりたての頃、某は出来るだけ頑張りたく無い性格なので適当にやってた。周りはというと、「他はもっと頑張っているからボクワタシはこんなんじゃ駄目駄目だ。」みたいな声が少なくありませんでした。これはただのきっかけで、そこから体調を崩すに至る友だちまでいました。

これは億万もある例の一つだが、
皆さん、ん?って思わんかった?僕は思った。
もっと抽象的に言うね。言いたいのは、他人の定規でなんで自分の事を測るんだ?ということ。大袈裟に言えば、その理屈だと某日本人メジャーリーガーの事考えたらストレスで死なん?って純粋に思うのです。
彼はそりゃあ努力や自分を律することに関するでっけぇ「定規」持ってるんだから。そんなんで僕を測ってしまったらミジンコサイズって言うのも烏滸がましいくらい。

ここまで踏まえて何が言いたいかっていうと、僕含めみーんな自分の定規で測り続けて欲しいなって。僕はコミュニケーションと英語の定規は少し大きいかも知れない。けど主に化学と数学に関しては「ゑ?」ってくらい短い。他にも勿論あるけどね。けれども体に支障がでることまではしない。
なぜか、自分が出来ることも出来ないことも分かろうとしてるから。出来ないことだけにスポットライト当ててないから。そこ当てがちだと思うけど、それ以上に皆んなの出来ることって凄いと思うから。なんでそこの評価を控えて出来ひん方に焦点を当て続けるんですか。
この「出来る、得意」と「出来ない、不得手」を自分が認めてあげて自分を慈しみ愛でることが、
「自己肯定感」の真髄じゃあないのか?

これは幸福に関しても言えるぞ。
昨今はsnsのおかげで?せいで?皆んなの生活が必要以上に晒されるようになったよね。ほんでほっぺが落ちそうなご馳走とか、息をするのも忘れるくらいの絶景とか、ネモフィラとか嫌ほど見るよな。そこでも自分の尺度を忘れちゃあかん。自分は自分の好きなことしてください。
そこに上も下も無いです。
皆んな最高ハッシュターグです。
頑張りすぎず、
幸福意識のアンテナぴんぴんで、いきましょう。

追伸
最近あたらしいスラングなく無い?やばいとかそんな感じの。俺らで作ろうぜ。
大阪ついたんでこの辺で終わります。

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