自分は有る?それとも無い?

『世界は人間無しで始まって、人間無しで終わるだろう』

そのように言われています。
生物としての人間は、世界の始まりにはいませんでした。
単細胞の生物から始まって、魚類、両生類、爬虫類、ほ乳類・・・、遥かな時間を経て、やっと人間が登場しました。
長い歴史の中では、ほんの短い時間しか過ごしていない、新参者です。
人間が、世界の終りまでずっと栄えている確率は低いでしょう。
ある程度の気候変動が起きたり、隕石が落ちたり、超悪性の病原体が流行したりと、人間を滅ぼすものは、いくらでも考えられます。

地球も同じです。
太陽系の中では、最初からあったわけではありません。
その太陽だって、宇宙のはじまりには影も形もありませんでした。
銀河系も存在していませんでした。
ビッグバン以前には、時間さえも流れていませんでした。

わたしたち人間は、それぞれ人である前に、自分個人を生きています。
そのうちに、自分が生まれる前から親がいたことを知ります。
さらに成長していくうちに、自分が居なくなっても世界が続くであろうことを、知るようになります。
連綿と続いている自分の家系の中で、自分の存在はとても小さな、あるいは短いものだと気づきます。
特定のコミュニティにとっても、自分がいてもいなくても、その違いはほとんど無いようです。
国の中ではさらに、世界中ではもっともっと、自分の存在は無に近いです。
時間と場所を乗じるとどうでしょうか?
世界の歴史における自分の存在。
ほとんど塵や芥のようなものだと言って、差し支えないようです。

それなのに、なぜ私たちは、こんなに自分が大事なのでしょうか?
いてもいなくても、ほとんど何も変わらない存在のはずなのに。
例えば、ちょっと小指をテーブルの脚にぶつけたら、大騒ぎをしてしまう。
酷いと、近くで見ていた人が心配してくれないことに、腹を立ててしまう。
「私がこんなに痛いのに、なぜ平気でいられるの?」

こうして客観的にみると、自分の主張がおかしいということはわかります。
こんなに頑張っているのに、なぜ評価されないんだろう?
いつもこちらから先に挨拶している。
これだけ説明しているのに、なぜわからないんだろう?
最近はずっと天気が悪いなぁ。
こんなに良いツイートをしているのに、誰もリアクションしてくれない。

まともな第三者はこう言うでしょう。
「そんなこと知るか!」と。
「なぜ自分の欲求通りになると思ったの?」と。
もし、自分が塵や芥のようなものだと知っていたら。
砂漠にある砂の一粒や、大海にある海水の一滴だと知っていたら。
変に怒ったり悲しんだりせず、穏やかな気持ちでいられる気がします。

そして、砂漠は一粒の砂が集まった物であり、大海は一滴の海水が集まった物であり、悠久の時の流れが一瞬の積み重ねでもあります。
一粒や一滴や一瞬が無ければ、砂漠や大海や時間は存在し得ません。
それも併せて理解しておけば、そんなに悪い気分ではなく、生きていけるはずです。

『世界は自分無しで始まって、自分無しで終わるだろう』

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