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資本主義から離れるセルフケア

『竹端寛×永井玲衣「迷惑をかけあう社会に向けて~ケアしケアされ、生きていく」『ケアしケアされ、生きていく』(筑摩書房)刊行記念』のイベントに参加してきました。

このイベントは、福祉社会学者・竹端寛さん、哲学研究者の永井玲衣が、研究者でもあり、実践者でもある二人の対話を聞くことができる貴重な機会でした。ここで言う「ケア」は弱者のための特別な営みではない、生きづらい社会から脱するために『ケアしケアされ、生きていく』そんなキーワードが中心で対話が進んでいて、あっという間の2時間でした。

個人的にですね。イベント終了後に竹端さんとお話しする場面で「どこが面白かった?」と聞かれたときに、「二人の人柄が伝わって来てよかった」程度のうすっぺらい言葉しかあの瞬間は出てこなくて。場づくり関係性を育むことに興味ある私が、共感した点、印象的だったこと、感じたことを数点書き留めておこうと思います。


どうしたらいいですかね/なんなんすかね

何か質問をされたときに、使える言葉。
上司モード、ファシリテーターモード、傾聴モード。大抵質問をされると答えを出すモードに自分が入る。そんな時こそ、自分のモードを意図的に変えてみる。その一つとして、”弱さを出すというモード”を一つの手札にしておく。「どうしよう、どうしよ」とある種のべそをかくような、弱音モードや共に考えるモードを持ち込むことの重要性。そして、何より「こういう問題にはこうすれば解決する」そんなものから争う一つの態度。

自分の言葉を取り戻す

「対話は大切」と聞かれたときに、条件反射的に対話が良いと言ってしまう。対話は大切だと言いながら「対話にいくのは怖い」そんな感覚も合わせてもってしまっていることに気づかされる。その上で「何故、対話って大切なのか」その一つの返答として「自分の言葉を取り戻す」そんな効果があるから。そして取り戻したときに、改めて自分が何を欲しているのかを気づくことができるのではないか。
ただ、これも分かりやすく「対話」について知るについて、誰でも必勝法の解決方法はなく。小さな積み重ね。対話を積み重ねることが、対話の大切さに気づくことなのかも知れないということ。

資本主義から離れるセルフ・ケア

”高級なバスタオルを買う”、”今日は特別な入浴剤を入れてお風呂にはいる”。私たちは、お金を使って自分のために何かを買ったり、サービスを受けたりすることが=セルフケアをしていると思いがち。その先にあるのは、お金を払って自分のために使い。明日から引き続き、”がむしゃらに働きましょう”という構造を脱しない。お金を使い”セルフケア”するという枠組みではない、ケアをもう一度、見つめ直す時間をつくろう。そして、疲れ切ってしまう要因が何故おこるのか、その社会の構造を見つめ、アクションするという選択も、変化を生み出す一つであることに気づく(動画はトークの中で、紹介された ”風邪は、社会の迷惑です。”が印象的な1980年代のCM)

相談と対話の共通点

悩んでいるときは、その悩みはその一人が抱えているもの。その悩みを相手に話したりすることで変化する。または悩みが”問い”という言葉に置き換えられると、また大きく変化していく。そのためにも一人の頭の中だけではなく、保健室の先生でも心療内科や臨床心理士の人も、職場の信頼できる上司や友人にでも、オンライン上の誰かでも、”相談しに来た時点で正解”それは本当に大きな一歩。相談と比べて、「対話は難しい」「対話はハードルがある」「哲学対話とか難しそう」「対話って何」と思う部分もあるだろう。ただ、対話も同様に、そこに”座った時点でOK”花丸だ、対話の場に来て座った時点で大きな一歩。変化がスタートしている。そう捉えると、もっと身近なものであるし。そこに一歩踏みだしたことに、拍手を送ろう。


この観点が私にとって面白かった、興味深った部分。竹端さんこれで伝わってくれていたなら嬉しい。

竹端さんと永井さんの対話は、ケアというテーマについて深く考えさせてくれました。ケアは特別なことではなく、自分や他者、社会や環境との関係性/繋がりを大切にすることであり、迷惑をかけあうことでもあるということを、忘れないでおきたい。 早速手元に持っている本、今日買って帰った本をゆっくり読んでみようと思います。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。