「電力会社の憂鬱」 第一章
プロローグ
海野雅治(うんのまさはる)は元西日本電力の副社長である。
退任後、妻が気に入っていた発電所近くのマリーナに家を借りて、夏になると夫婦で長期滞在している。
マリーナのある入江は穏やかで、釣り人達のために海釣り用の筏がいくつも並んでいる。朝、民宿から舟で送ってくれて、夕方に迎えに来てくれるシステムで、筏には簡易式トイレまで設けてある。
海野が釣り糸を沈めてから一時間ほどたった時、異変が起きた。
朝からべた凪ぎの海だったが、少し波が引いたかと思うと、突然、顔にまでかかる波しぶきが襲い掛かった。海野は、慌てて濡れた体を持参したタオルで拭いながら、半年前の大災害を思い出していた。
2011年3月11日。
東日本大震災、発災。
大地震による被害もさることながら、原子力にかかわってきた海野にとって、ショッキングだったのは発電所事故であった。
地震に伴う津波により、福島第一原子力発電所が水没。
全電源喪失事故により制御不能となり、炉心が溶融、水素爆発を誘発。
大量の放射能を漏出した。
福島県東北部は、地震・津波の影響に加え、放射性物質のホールアウトにより、壊滅的な打撃を受けたことは記憶に新しい。
後の発電所長の発言や報道内容、特にテレビ会議での本社と現場とのやり取りをみると、本社の意向を現場に押し付けるシーンが印象的である。
技術的原因もさることながら、電力会社の企業体質・企業文化に起因するのでは、と思わせる点も垣間見えた。
西日本電力の地震・津波に対する技術的対策は既に完全であるが、今後、この事象の水平展開として、規制当局や地元から、更に厳しい対策が求められることになるだろう。
ただ厄介なのは、この企業体質・企業文化というやつである。
エリートと呼ばれる一握りの人間が、権益や支配欲を満たすため、現場に無用な口出しをしてくる。
今からずいぶん前に、海野も地元だけでなく都心までも巻き込みかねない、大原子力災害の一歩手前の事故を経験していた。
時は20年前まで遡る。
第一章 融和と軋轢
漁師町「浜波」
海野雅治は京都大学工学部原子力工学科博士課程を卒業。
西日本電力の原子力部門のエリートとして、本社と現場を転勤の度に行ったり来たりしている。
現在は、日本海原子力発電所の次長という肩書である。
海野の風貌は、身長180㎝で、学生時代アイスホッケーで鍛えただけあって筋肉質の恵まれた体形の持ち主であった。
見る角度によっては、同名のシンガーソングライターに似ていると言われることもあり、地元自治体の女性職員や女性記者、果ては地元の奥さん達からも人気は上々であった。
地元地域は風光明媚な町である。
夏は大勢の海水浴客が訪れ、それを目当てにした、花火大会などの数々のイベント。日本海に面した美しいドライブコースの絶景。少し山に向かうと渓流釣りも楽しめる。夏以外は、地元の伝統的な様々な「祭り」やフォトコンテストなどの文化行事。
町の観光課が工夫を凝らしている。
蟹」や「フグ」などの海産物はもちろん地元の名産である。
発電所が立地しているのは地元町の最も奥の集落「浜波」である。
元々は小さな漁師町で、過疎に悩み、少ない収穫を皆で分け合って生き延びてきた限界集落であった。
ただ地盤形状やもろもろの条件が、原子力発電所に最適で、これまで西日本電力が8基もの発電所を立地している。
特に最新の7・8号機は最新鋭のAPWR(Advanced Pressurized Water Reactor)という定格出力200万kwという、日本最大のプラントを有している。
西日本電力全体の50%以上の電力はここから供給されている。
会社にとって、如何に重要な地域であるかがわかる。
発電所が来る前は隣接の市にちょっとした買い物に行くのも、船を使うか、一本だけあった獣道を何時間もかけて移動するしかなかった。
発電所ができてからは、工事のための取り付け道路が整備され、夏にはこの一番奥まった集落にも海水浴客が訪れるようになった。
それ以外の季節には発電所の定期検査で、一プラントあたり3000~4000人とも言われる工事関係者で賑わっている。
集落の人たちも漁師だけでなく、食堂や民宿をはじめたりし、大いに活性化してきている。
まさに地域と発電所の共存共栄のモデルケースともいえるところである。
海野もここまでの関係を築いてきた先人達の努力に敬意を払っていた。
また、この関係を自分の代で終わらせるわけにはいかないというプレッシャーも感じていた。
海野はこの町の景色に心を奪われていた。
特に宝石を散りばめたように美しい海岸線に、原子力発電所が同化した風景に魅せられている。
発電所は、10万個以上といわれる各部品が芸術的に組みあがり、とてつもなく大規模な電力を生み出す。巨大技術の粋と言われる原子力発電所が見事に風景に溶け込んでいる。
特に、冬場の澄んだ空気に、「ブロー」という発電所が吐き出す蒸気が雲と同化する様子に、自然と人工物の融和を感じていた。海野は発電所の目の前にあるこの「浜波」には特に気を使っていた。
それには理由があった。
チェルノブイリ
1986年4月26日。
旧ソビエト連邦(現ウクライナ)で、国際原子力機関の公式発表で、死者4000人、避難移住住民16万人。
放出された放射性物質は、広島に投下された原爆の400倍。
影響範囲はヨーロッパを中心とした北半球全土という、人類史上最悪と言われる原子力災害が発生した。
原因はさまざまな複合要因で、第一には、西側諸国では絶対に採用されないような設計思想の型式であったこと。
加えて、事故当時は実験中といわれていたが、運転技術の未熟さと、幹部の自己保身のための対応遅延や虚偽報告などが挙げられている。
日本への影響は当初は雨水に若干の放射能が検出された程度であったが、徐々に原子力そのものへの国民の不安感が増大していき、政府も「日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きない」というステートメントを出さざるを得ない状況まで陥っていた。
原子力現場での対応は過酷を極めていた。
反対派はプラカードで「原発即止めろ!」「チェルノブイリの二の舞はごめんだ!」と大挙して押しかけている。
これに労働組合が加わるのは良くあることだが、今回通産省以下推進側を愕然とさせたのは、これに地元の一般市民まで加わったことだ。事態の深刻さを物語っている。
更に輪をかけたのは「風評被害」である。
「原子力発電所近隣の生産地の食べ物は危険ではないのか?」
「ソビエトやヨーロッパからの輸入食品も危ないらしい。」
「スーパーで食材を選ぶ時は原産地の確認を。というかそんなところから仕入れをしているスーパーには行かない。」
一次産業を生業とする地元には大打撃であった。
結果、地元で農林水産業に関係する団体も、反対運動に加わり兼ねない状況となっていた。
通産省も説明会を十数度開催し、ソビエトの発電所と日本との設計の違いや運転管理・技術力の違いを説明し続けた。
その度に、原子力の存在そのものを否定したい人たちとの話は交わるはずもなく、会場は常に騒然となり、何が何かわからない内に終了となり、打つ手はついえていた。
そんな何回目かの説明会。
いつもの通り会場は怒号とヤジ包まれている中、一人の男が発言を求めた。
色は浅黒く、如何にも漁師然としていた。
「浜波」の区長で網元の武村源一郎である。
現網元の父親である。
みんな聞いてくれ。わしは浜波の網元の武村や。まずは、後ろで鉦や太鼓で騒いでるやつ、すぐに外に出ろ!それと他県から騒ぎに来てるやつはすぐに追い出せ!」
会場は急にシーンとなった。
「みんな。本当にこんなんでええんか?
地球の裏側で起こった事故で、右往左往して、県外から面白半分で来てるやつらの口車に乗って・・・。
東京から何度も偉い先生が来てくれて、ここは安全や言うてくれとるやないか!何よりも、ここまで誠心誠意やってきてくれたに西日本電力さんを困らせてどうするんや!
また何十年か前の極貧にもどりたいんか。
町長も上の段に並んどんやったら、何でそれを言わんのや?」
ひな壇に並んだ町長は無言であった。
「確かに今は、放射能がどうやこうや言うて、魚は売れん!
全部猫の餌や!
けど、俺らは今まで通り西日本電力を信じて頑張る。
西日本電力さんも、賢い人ばっかやから何か手を考えてくれるやろ。これはわしだけの思いやない。」
武村は、つかつかとひな壇に歩み寄り、町長に何枚かの紙切れを渡した。
「それは県道3集落の『念書』や。他の2人の区長・網元の一筆や。
こんなところで喋んの嫌やったけど、我慢出来んようになってしもうた。
後のことはみなさんよろしく頼みます。」
この時、海野は若手技術者として情報収集と説明資料作りに追われていた。先代網元の、口下手ではあったが、みんなを黙らせる迫力・熱意・勇気それと西日本電力に対する優しい眼差し。
「男ぼれする」という言葉があるが、海野には絶対に忘れることは出来ないというか、原子力に携わる西日本電力の社員は、ここに発電所を置く限り、記憶に留めるべき言葉だと信じている。
網入れ
海野はこんな強烈な記憶もあり、「地元中の地元」である「浜波」の行事ごとには何があっても駆けつけることにしている。
とは言っても漁師町なので、行事とは言っても、何かにかこつけての宴会がほとんどだが。
「明日はいよいよ大敷網か。
去年は飲み過ぎて網元に迷惑かけたからな。今年は控え目にしないと。」
海野は自戒ぎみに呟いた。
毎年初網入れの日には、網元以下、漁師が全員揃い、その年の豊漁を願って、昼間から夜中までひたすら飲み続ける。
海野も毎年招待されていた。
あまり酒が強いほうではないので少し憂鬱だったが、断るわけにもいかなかった。
翌日、海野は一升瓶を二本抱え、網元の自宅へ。
みんな三々五々寄り合いかけていた。
「本日はおめでとうございます。お天気にも恵まれ最良の網入れでした。
今年もお世話になります。」
「おお次長、よくきてくれた。
去年みたいにぶっ倒れるまで飲んでくれ。ここで寝て帰ったらええから。」網元が声をかけてくれた。
「みんな、今年も、日曜日にもかかわらず発電所の海野次長が来てくれた。この人が来て、酔いつぶれた年は大漁や。
みんなで精いっぱい飲ますんや。」
「乾杯!」
宴会が始まった。
酒が進むと、網元の命令通り、みな代わる代わる海野のところに親し気にお酌にきてくれた。
「次長、あんたの顔を見てたらほっこりするよ。何とかいう歌手に似てるって、母ちゃんや娘たちがキャーキャー騒いどるよ。今日は美味い、このわた漬けてるからの。」
「次長はえらい大学出てるのに、偉そうにせんから大好きや。」
「俺たちと一緒、漁師町出身やから、気持ち、よくわかってくれるんや・・・な。」
景色だけでなく、浜波の人間にも溶け込んでいた。
海野も瀬戸内の漁師町で育った。
「育った」というのは、生まれは兵庫県の街中であったが、物心つく前に両親を交通事故で無くし、漁師の祖父母に引き取られたのだ。
その集落は、「子供は集落みんなの子供」という雰囲気であった。
親を亡くした海野も、なんとなく大人は全部が親で、子供は全部が兄弟と思って大きくなった記憶がある。
海野は集落一の秀才であった。
「みんなで助けるから、カネのことは心配せんと大学に行け」と言われた。しかし、進学はしたいものの、流石に甘えてばかりいられないと思い、受験は一回だけ、それも授業料の安い国立大学だけ、というノルマを自分に課して、受験勉強を頑張り通した。
場所こそ日本海だが、こういう雰囲気で茶碗酒を煽るのは海野にとっては、当たり前の光景であった。
京都に行く前の日に、ばあちゃんが大ぶりの鯛を焼いてくれたことや、仲間が大漁旗を振って送りだしてくれたことを懐かしく思い出していた。」
電力会社にはこういうウエットな人間関係を嫌うものが多いが、自分はそうではないと自負している。
社内外を問わず人間関係を守ったり、繋いだりすることが仕事になっていることに、やりがいさえ感じていた。
日本海発電所
海野は日々の業務から解放されると、ふと思うことがある。
こういうところにいると本社の出来事を遠くに感じてくる。
同期はそろそろ役員に上がれるかどうかの正念場。
目ぼしい奴はほとんど部長クラスだけど、自分はまだ次長。
「現場が大好き。」「技術屋は現場を離れたらただの人。」
と公言してきたから、まあしゃあないか、という気分と、
自分も役員まで上がれる実績と学歴は十分。本社の役員レースに参加する資格はある、という気持ちが錯綜する。
そんなことを考えていると、いつも誰かが現場案件を相談に来たりして思考停止を余儀なくされる。
しかし、それに没頭することこそ技術屋の誇りとも感じていた。
海野の現在の肩書は、日本海発電所の安全担当次長。
発電所の運転・補修・放射線管理などは技術次長が分掌する。
安全担当次長は指導監督官庁である通産省(現経産省)や、自治体、地元町報道機関などに日々起きる出来事を報告・連絡・説明するのがメインの業務である。
海野が今、頭を悩ませているのが「蒸気発生器」。
西日本電力に対する東日本電力の採用する原子力発電所は沸騰水型軽水炉と言い、ウラン燃料で作り出した高温高圧の蒸気を直接タービンに吹きかけ発電するタイプ。
一方、西日本電力が採用するのが、加圧水型軽水炉で、ウラン燃料に直接触れる一次系と、タービン側の二次系に分かれている。
二次系の冷却水には放射能を含まない。
両タイプともそれぞれ一長一短がある。
沸騰水型軽水炉は熱交換器がいらないが、放射性廃棄物を大量に生み出す。加圧水型軽水炉は放射性廃棄物を減容できるかわりに熱交換器が必要になる。この熱交換器を「蒸気発生器」と言う。
これが難物である。
熱交換効率を高めるため、直径2センチほどの細管数千本で構成されているが、経年劣化と高温高圧環境下での酷使の結果、ひび割れや、酷い場合にはピンホールという細かい穴が開き、放射能を含む一次系の冷却水が二次系に漏れ出す事態になる。
そのため加圧水型軽水炉の「アキレス腱」とも揶揄されている。
海野は朝から気分が重かった。
現在3号機の定期検査中である。
朝一番、蒸気発生器細管の探傷検査結果が上がってきたのである。
ABC蒸気発生器3台あわせて異常信号が約600本、うちピンホールの可能性が高いと思われる細管が8本。
他のプラントも含めて、『過去最悪』の結果である。
海野はすぐに報告書にまとめるよう補修課長に指示した。
「これから地獄の時間が始まる。」
心の中で呟いた。
まず東京支社を通じて通産省に報告。
「西日本電力はたるんでいる!
毎回同じ報告ばかり持ってきやがって!
国のエネルギー政策の根幹を揺るがせるつもりか。
ここまで来たらプラグするなどという対処療法ではなく、抜本的な対策を講じる必要がある。考え得る抜本対策を明朝までに提出せよ。」
プラグとは、問題のあった細管の両端に栓をして、その細管を使えなくするという工法である。毎度毎度の報告書に対処策として登場する方法で、ついに指導監督官庁が認められないと言い出したのである。
要はキレた。
しかも明朝までに抜本対策を出せなどという、無茶苦茶な指示である。
当然徹夜になる。
そんなに簡単に抜本対策など出せるはずもなく・・・を将来検討するとか・・・であるが時間を要するとか、誤魔化しだらけの報告書をでっち上げるしかない。
本社原子力管理部と擦り合わせを済ませたのが午前4時。
そこからタクシーを飛ばして何とか午前中に霞が関に到着。
散々絞られた挙句、帰路に。
一報は入れているものの、まだ県と町が残っている。
東京からの帰路そのまま県庁に報告。
「なぜ一報から報告に24時間もかかるのか。通産省に対応していたなんて言い訳にならない!地元県民を馬鹿にしているのか!
明らかに原子力安全協定違反。
このことも含めてすぐに記者発表する。
『過去最悪』には新聞記者も食いつくだろうな。」
意地悪そうな担当者の顔つきが暫く夢に出てきそうだ。
夕刻そのまま町役場へ。
同じように報告遅延を叱責された。
「通報連絡協定違反だ!
地元をないがしろにするなら、今すぐ発電所を風呂敷に包んで持って帰れ!」
強烈な一言である。
海野は泥のように疲れ切った体を引きずり発電所に戻った。
定期検査の度にこんな寿命が縮むようなことを繰り返している。
それでも自分は良い。気になるのは現場スタッフである。
今日のように、本社や国・県・町・報道機関などから過酷なストレスを掛けられ続けているにもかかわらず、発散できる場所もない。
都会なら、ちょっと居酒屋にでも行って話を聞いてやろう、というところだが、ここではそうはいかない。この町にもちょっとした飲み屋はあるが、夜8時になると閉店で真っ暗になる。
自然とストレスの溜まった若い社員は、寮で一杯ということになる。
一週間ほど前の出来事である。
運転課長と女性社員が海野の部屋を訪ねてきた。
男女雇用機会均等法以降、西日本電力でも、女性技術者を採用し、三交代勤務に起用しているが、問題はアフターファイブである。
寮での飲み会には半強制的に声が掛かり、中で一番偉い社員の横に座らされる。
「周りからは、あの人の機嫌を損ねないように。」と。
「まるでホステスです。」
涙ながらの訴えである。
「たまになら良いんですが、こんなのが毎日続くと耐えられません。
何しに西日本電力に入ったのか、なんで大学で原子力を勉強してきたのか・・・。わけがわかりません。
次長には申し訳ありませんが、辞めさせていただいて、もう一度大学に戻りたいと思います。」
今年に入って3人目である。
先週は先週で、若い者が大勢で大金を持って隣町に繰り出し、大散財。
普通に遊んでいたら良いものを、質の悪い客引きに引っかかり、大枚ぼったくられるわ、殴られるわで、地元警察署に身柄を引き取りにまで駆り出される始末であった。
海野は口では叱責するが、本気で怒る気にはならなかった。
海野には苦い経験があった。
何年か前、発電所の補修課長をしていたとき、部下の係長を死なせた経験がある。
案件は忘れたが、今回と同じように県や町からの過酷な要求と、現場担当者の疲弊ぶりとの狭間に立ち、自分ですべてを被り、最後は耐えきれず自らの命を絶ったのだ。
今でも欠かさず墓参りをし、ご家族の顔を定期的に見に行っているが、 一人息子が段々と父親に似てくるのを見ると居たたまれない気持ちになる。
海野は一日のほとんどを今日のように外出しているが、その時のトラウマで、短い時間でも必ず担当者の顔色を見に現場を歩きまわっている。
たまに書類を持ち回ってくる若手がいれば、冗談交じりに声を掛け、私生活にまで立ち入って話を聞くことにしている。
本社の横暴
今日も疲れた体を引きずって、補修課兼蒸気発生器特命チームの執務室に足を運んだ。
東京で買い込んだ「芋羊羹」が手土産である。
みんな大好物なことはわかっていたが、反応がない。
課員の表情を見ると、全員目が充血して、疲れ切っている。
補修課長が飛んできた。
「次長、ありがとうございます。あとでいただきます。」
「いったいどうしたんだ?」
「本社からの命令の資料作りで、みんな疲れ切っています。
ご無礼があったならお許しください。」
「何の資料なんだ?」
「今回定検で『過去最悪』とか言われたもので、本社原子力管理部がナーバスになっています。
宮崎は、全プラントの運転開始以降の、定期検査ごとのプラグ本数の実績をトレンドで表にしろと言われています。」
「こいつが生まれる前からのデータを掘り起こせということか?」
「はい。しかも明日朝までに。」
「篠原。お前は?」
「南川副社長がスリーブに疑念をお持ちなので、四つ葉重工からの購入実績と使用実績を時系列で出せと言われています。」
スリーブとは、探傷検査で異常値が出たものの、プラグまでする必要がないので、細管の内側に更に薄い管を挿入して、細管を継続使用するための工法である。
ただし、溶接に適している金属素材が「金」であるため、一本100万円前後する。経理担当の南川副社長は驚き、前々から執拗にその必要性を指摘していた。
「いつまでに出せと言うんだ?」
「これも明日朝までと原子力管理部からの厳命です。」
酷すぎる。
「それと・・・。補修課長が言いよどんだ。」
「どうした。何があったんだ。」
「海野さんが役所の対応の擦り合わせで、本社に行かれている間に、人事部の調査課の人間が3名、突然やってきました。」
「人事部?」
「はい。突然来て、ずかずかと部屋の中に入り。『人事部調査課です。今から調査をします。全員この部屋から退出願います。キャビネットの鍵は全て開けておいてください。』
ということでした。
3~4時間ほど部屋から追い出されましたが、戻って見ると資料は出しっ放しで、一部は持ち帰った様子でした。
持ち帰った資料を見ると、どうもスリーブ関連のもののようです。
その後すぐに原子力管理部から篠原に電話があり、今こいつが作っている資料を明日朝までに出せ、ということです。
突然の出来事で、私には意味不明です。
みんな疲れている上に、こんな精神的打撃を食らい、参りきっています。」
海野の血相が変わった。
「俺がいない時を狙って・・・姑息なことをやりやがって!」
海野は怒りに震えながら原子力管理部で信頼する白井課長に電話した。
「白井!うちの補修課に病人が出るぞ。こんなバカげた資料、お前の指示か?なんで明日朝までなんだ!
それと人事部が突然来たのも、お前は知っていたのか?
知っていて、へらへらと昨日俺と役所対応の打ち合わせしていたのか!」
「海野さん、落ち着いてください。人事部の件は、本当に知りませんでした。南川副社長が、人事担当の石田常務に直接指示されたものと、さっき知りました。
本当は経理部が調査したかったみたいなのですが、現場調査の権限がないので、人事部に頼まれたそうです。人事部の部長以下も乗り気ではなかったようですが、南川副社長の勢いが物凄かったらしいです。」
南川副社長は『現場の人間がスリーブを10本盗んだら1000万だ。』とまで言っていることは海野には伝えなかった。
海野の性格を知り尽くしているからだ。
「人事部の調査では、たいしたことはわからなかったらしいです。
そんなこともあって、明日役員会で、蒸気発生器が話題に出るのは間違いないと思います。」
「思います?確証はあるのか?」
「ありませんが、これだけ役所や県から叩かれて、報道もされていますし、南川副社長の件もあります。」
「海野さん、落ち着いてくださいよ。
その辺は管理部がうまく対応しますから。」
「対応?誰への対応だ?」
「もちろん南川副社長はじめ、全ての役員です。即答できなければ、原子力管理部の役割が問われます。」
「白井!
例え役員会でも、所詮相手は社内の人間だろう。
昨日まで、奴らはお前が指示した何倍もの資料作りを役所に言われて対応してきた。
もう3日、まともに寝ていない奴もいる。
今から俺が命令して、補修課員を全員帰宅させる。
もちろん明日資料は出ない。
もし、お前の役割が問われたら、俺の責任にして構わない!」
「海野さん。すいません。
でも、僕の立場も分かってくださいよ。」
「お前はエリートだ。
放っておいても必ず原子力管理部長になる。
でも、その前に一度は必ず現場に引きずりこんでやる。
覚悟しておけ!」
こんなことが度々繰り返されている
翌日、補修課長から報告が入った。
「係長が一週間以上も出社してきません。寮にはいるのですが塞ぎ込んで、様子がおかしいんです。
一刻も早く家族と暮らせる本社に配置転換した方がいいと思います。」
海野の動きは速かった。
人事部長の坂本は同期入社である。
神戸の超進学校から東大法学部卒のエリートである。
人事という仕事柄、あまり回りからは好かれていないようだが海野とはなぜか気が合った。
家族ぐるみの付き合いで、毎年夏に海水浴に招待している仲で、信頼もしている。
「蒸気発生器特命チームの係長の件で相談がある。俺が本社に行くのが筋だが、動きがとれない。こっちに来ることはないか?」
「ちょうど明後日に近くの支店にいくから、そのまま足を伸ばすよ。」
「それは助かる。夕方迎えにいくよ。寿司でも奢る。」
海野は現場調査の件は飲み込んで口にしないことにした。
突然の現場調査などという暴力的な強権を持つのも人事部であり、今回のような時、助け船を出すのも人事部である。
人事部の持つ権力の大きさに、驚きと恐怖を感じていたのも事実であった。
二日後、坂本を駅まで迎えた後、連れ立って馴染みの寿司屋に入った。
「大将、まいど。」
「あ、次長。いつもどうも。
カウンター二席開けています。」
「良い魚あがってる?」
「今日は烏賊と甘えびがいいよ。」
「いいね。じゃあそれとお造り、適当に。
あと上握り一人前と、いつものやつで。」
「それと、瓶ビール2本ね。」
「はいよ。」
「なんだ、いつもやつって。」
と坂本。
「次長は魚はお好きだけど、酢飯がダメみたいなんですよ。
それなのに嫌な顔せずにごひいきにしてもらいましてね。
だから『卵かけご飯』なんですよ。」
とビールを運びながら女将さん。
「卵かけご飯!
日本海発電所の次長が?
寿司が食えないということは、適材適所ではないということか?」
「えっ!」
「冗談だよ、冗談。」
「人事部長が言うと冗談に聞こえないよ。首筋が凍るよ。」
坂本は海野とは対照的に、ずんぐりむっくりした体つきで、大き目の眼鏡の奥に鋭い切れ長の目が光っている。
「顔と声は笑っているが、目は笑っていない」という陰口をよく耳にする。
「こいつはこれが若い奴に怖がられて、嫌われる原因かな。」と前から思っていた。
「ところで相談ってなんだ?」
補修係長の件を話すと坂本は、
「よし分かった。そいつは今週中に本社に帰そう。
後釜は元気で精神的にもタフな奴を赴任させるよ。」と二つ返事。
「ありがとう。恩に着るよ。
持つべきものは友だな。」
「この程度の事で、この豪勢な寿司なら安いもんだ。」
「それともう一つ。」
「なんだ。言ってみろ。」
「関連するんだが、労務管理の問題でも色々あってね。」
ここ一週間の出来事を話した。
また、春のこの時期、地元のイベントが多くて準備の打ち合わせから当日の運営まで、町も手が足りず、なんだかんだと巻き込まれ、気が付けば何か月も自宅に帰れてないことも話した。
坂本は言い放った。
「つまるところ、お前が仕事を抱え込み過ぎているんだ。
後の二つは事務次長の仕事だ。事務次長は誰だ?」
「片山君だ。」
「あれは内向き過ぎる奴だな。
流石に今週という訳にはいかないが、次の定期異動で何とかするよ。」
「まるで将棋の駒だ。」
海野は小声でつぶやいた。
本社人事部
本社ビル。
1951年の戦後電力再編成の時に新築されたビルで、約50年を経過した建物である。
1階の吹き抜けにある時代遅れのシャンデリアが建物の古臭さを強調するように存在感を押し出している。
外観はベージュとこげ茶の中間のような色である。元々どちらかの色だったのかもしれないが、長年の風雪を物語るような色合いに変色している。
良く言えば歴史を刻み込んだ重厚感。
悪く言えば地味で、いかにも魑魅魍魎たちが蠢く、おぞましい出来事が起きそうな伏魔殿のような佇まいである。
人事部は、その最上階を占領している。
役員室以下は下階なので、人事部が、全社員を睥睨しているようなイメージである。
坂本はその一番奥の人事部長席で机を睨んでいた。
もう2時間経つ。
机の上には何か手書きのメモと週刊誌のコピーがある。
何か異様な雰囲気を回りの部員も感じ取っており、次に部長に呼ばれるのが誰か、戦々恐々としていた。
沈思黙考はさらに1時間。
堪らない雰囲気の中、ついに坂本の口が開いた。
「山本、ちょっと。」
人事課長が呼ばれた。
「はい。」
「7月の人事異動だが大規模なものにする。
どの部門も、特に技術系がそうだが、メンバーが固定化して錆び付きかかっている。
新しい血を入れる必要がある。
部門間異動も含めて1か月早いが考え始めてくれ。
上にはこの方針を明日にでも伝えておく。」
山本は驚いて質問した。
「部門間異動ということは、火力の人間を原子力に、とかも視野にということですか?」
「技術系は無茶できないが、それも有りだ。
事務系は経験を考慮せずに考えろ。」
「わかりました。2週間で案を出します。」
「ただし『ソルジャー』だけでいい。それ以外は俺が考える。」
山本が席に戻りかけると、後ろから追いかけるように坂本の声が掛かった。
「それともう一つ言っておくが、われわれ人事部も例外ではない。
人事部だけ変わらなかったら、また『お手盛り人事』と非難される。
役職者の半分は変えるつもりだ。
それと新任役付候補者も一挙に出させる。
これも君には重荷だろうから、俺が考えてみる。」
みな震えあがった。
西日本電力には『ソルジャー』という言葉がある。
総社員数50000人のうち、ほとんどの社員がこう呼ばれる。
意味は想像に難くない。
これに対する言葉は社内にはないが、指揮官すなわち幹部候補生というところか。
サラリーマン人生で、『ソルジャー』は、うまくいって本社の課長か現場の営業所長、技術系なら電力所長止まり。
かたや、幹部候補生はソルジャーが行き着くところまでは殆どの社員には保証され、その上は実力次第で役員まで道は開ける。
その差は何か。
ズバリ「学歴」である。
毎年一握りだけ採用される東大・京大卒の人間のみである。
それ以下が『ソルジャー』となる。
事実、現社長は東大。何代か遡ると東大→東大→京大→東大といった具合である。
現役副社長をみても、東大4名、京大2名である。
全社で数百名しかいない幹部候補たちが、実際に役員対象年次になるまでに数名に絞られていくという構造である。
電気という商品特性から、営業力や営業成績が社員の人的評価になりにくく如何に上層部の覚えがめでたいか、如何にライバルが脱落していくかが決め手となる。
彼らのほとんどは、企画・人事・労務・秘書・経理といった本社管理部門に配属され、現場の実態を全く意に介さない業務指示や命令を出す。
フォア・アワーセルフである。
結果、現場が混乱し戸惑うことは日常茶飯事である。
今回の坂本の人事異動の構想がどういったものか分からないが、例によって現場からの要望を踏まえたボトムアップ的なものでは無さそうである。
オイスターバー
アメリカの西海岸で流行している、オイスターバーが駅の近隣に進出してきた。
店は西海岸風のオープンな造りで、中央に大きな大理石のテーブルが置かれている。
テーブルの上に直に盛り塩をし、そこにおびただしい数の、殻を外して食べやすくした生牡蠣が置かれている。
生牡蠣をメインに、その他のサイドディッシュが並んでいる。
カキフライやソテー、サラダのほか牡蠣入りの茶碗蒸しまである。
若い女性やファミリーをターゲットにしているのは明らかで、デザートや果物もこれでもかというくらい盛り付けられている。
これにワイン飲み放題で、大人4000円、子供は2000円とリーズナブルである。
平日の夕方ともなると、若い女性グループ、カップル、サラリーマンでごった返していた。
そんな中でも、ひと際目を引く女性が二人、窓際の席に陣取っていた。
二人とも「超」がつくほどの美人で、傍を通る男性は、ほとんどが見ないふりをして横目で「チラ見」して行った。
中にはゲスな声を掛けて通り過ぎる男もいた。
二人は慣れ切っているのか、全く無視し意に介していない風情であった。
ボブヘアーの方が、
「こういう感じの店、ロスのフィッシャーマンズワーフにあったね。
生牡蠣って、あたったらきついんでしょ?
いったいいくつまでなら食べて良いんだろうね。」
ショートカットの似合う女性が、
「へえ夢子ちゃん、そんなこと気にするの?
でも、あっという間に5個食べてるよ。」
ボブヘアーは、有村夢子。
色が抜けるように白く、目は大きく黒目勝ちである。唇はぼってりと肉厚で「オフェロメークを意識しているの?」と女友達から聞かれるくらい、フェロモンが溢れ出るルックスである。
小さい時から「いやぁー、市間人形さんみたいに可愛い。」と言われて育った。
ショートカットは、高宮理子。
夢子とは違い、純和風美人である。
とはいえ、アメリカ人の血が入ったクオーターである。和風の中にエキゾチックな感じもする。
というのは目が大きく虹彩は茶色がかっているからである。
二人は、西日本電力人事部人事課員である。
坂本部長、山本課長、伊賀副長の東大法学部ラインの下の担当者という身分である。
入社8年目の同期で、西日本電力が採用した女性総合職の一期生である。
今日は二人で、『三十路記念』ということで食事会に来ていた。
二人に「超」と付くのはルックスだけではない。
頭脳にも「超」がつく。
二人とも、上司3人同様、東大法学部卒。
夢子に至っては、上級公務員試験いわゆるキャリア試験にパスしている。
絵に書いたような『才色兼備』である。
理子が牡蠣をほおばりながら言った。
夢子ちゃんは、なんで公務員にならなかったの?
キャリア試験までパスしてたのに。」
「そうね。まわりの人はみんな頭は良かったけど、なんかオタクっぽい人ばっかり。こんなのと何十年も机を並べるのってどうかなと思ったの。
それと、雇用均等というものの、女のキャリアって、やっぱり男の人から遠ざけられるのかなと思ったわけ。」
「そこに、同じスキー部の先輩の伊賀さんがリクルートに来たわけだ。」
と理子。
「そんなことより、伊賀さんが言ってたんだけど・・・。
私たち、西日本電力の女性役員候補者らしいよ。」
「伊賀さんが?いつ言ってたの?
会社でそんな会話する余裕ないでしょ。」
夢子は大きな目で理子を瞬きもせずじっと見つめた。
「夢子ちゃん、あんた、まだ伊賀さんと続いてんの?」
「私、結婚して欲しいなんて絶対言わないし、彼にとっては都合のいい女なんだと思うの。それに伊賀さん、かっこいいし。」
伊賀は夢子の5年先輩で、今でも競技スキーを続けるスポーツマンである。
理子は夢子を同い年ながら妹のように感じていたが、「ついていけない」と思うのは、この軽さである。
伊賀は妻帯者で子供までいる。
もちろん西日本電力では社内恋愛は自由だが、不倫には徹底的に厳しい。
社内不倫がばれて、それに法的な紛争やカネがからんで懲戒処分になった社員は大勢いるし、出入り業者が女性社員とそういう関係になり、取引停止になったケースもある。
しかもそれを取り締まる立場の人事部員の伊賀と夢子が・・・。
理子がうつむき加減に黙り込んだので、夢子が、
「理子ちゃんも、坂本部長とはどうなの?
いつもあんな怖い顔してるのに、あんただけには『リコちゃん、リコちゃん』て・・・。あれはあれで、まわりで見てて変だよ。」
理子は少しムッとしながら、
「あれは、私に他の部門の情報集めをさせているからでしょ。
スパイみたいな仕事だから、少しは罪の意識があるんじゃない。
そんなことより、何で私たちが役員候補なの?」
夢子は気を取り直して話だした。
「私たち同期は、西日本電力で初めての総合職採用でしょ。
それまでは一般職のみだったらしいよ。」
西日本電力は過去、女性社員は高卒か短大卒の一般職採用のみであった。
要は若いお嬢さんを採用し、社内でそれに見合った男性を見つけて、早々に寿退職してくださいということであった。
しかし、1985年の雇用機会均等法施行後、他企業同様に大方針転換し
女性の大学卒の総合職の採用を始めたのである。
条件は男性と全く同一で、人事考課も転勤も、なにもかも雇用条件は男性と違いも優遇もない。
ただし、夢子や理子の入社した年次だけは移行年次で、総合・一般職を混在で採用していた。
その結果、二人の年次の総合職は10人のみであった。
夢子は続けた。
「政府も女性活用担当大臣を新設するほどの力の入れようなので、次に来るのは必ず女性役員の誕生だって。
国に対してもいい顔できるから、争って優秀な女性社員の発掘ということになるって。」
理子が口を挟んだ。
「でも、だからといって、何で私たちが候補者なの?」
「お前らは端境期で、同期が10人しかいないし、中でも東大・京大卒は
4人だけ。
二人は、一番有利な人事部に席を置いているし、俺はどちらかが必ず役員候補の最有力になると思う。
今回は大異動にすると部長も宣言しているし、お前らも一年早いが役職に上がる可能性が大きいはず。
二人は大学の後輩だし、どちらが選ばれてもフォローするよ。でもひいき目でいうと、夢子ちゃんに頑張ってほしいな。だってぇ。」
理子は夢子を睨みつけた。
「ばっかじゃないの。でも確かにそうかも。
京大の小百合ちゃんと美和ちゃんは、営業部と広報部だし、それ以外はちょっと考えにくいし・・・。
人事部の仕事は大変で、部員は鬱陶しい人が多いけど、出世レースでは一歩先に出てるような気がするわね。」
夢子は真顔になって。
「二人でタッグを組んで、いろいろと作戦を考えていきましょうよ。
男なんて、手のひらで泳がせてみたら良く尽くしてくれるし・・・。」
理子は思った。
「この小悪魔は真顔になると瞬きが止まるらしい。
確かに真正面からこの大きな可愛い目に見つめられると、電力会社のうぶな男なんか、ひとたまりもない」と。
魔界部屋
人事部には通称『魔界部屋』という作業場がある。
超極秘マターである人事異動や人事措置が話し合われる部屋である。
そこで、社員の2~3年、時には一生を勝手に決められてしまう。
部外者だけでなく、人事の担当でない他の課の部員もその部屋の存在を知っていて見ないふりをする。
不思議な、まさに『魔界部屋』である。
いまそこで二人の男がコソコソ話をしている。坂本と山本である。
「部長、お約束の2週間です。至りませんが異動案を考えました。」
「ご苦労。その前に、構想を石田常務に説明した。」
人事担当常務の石田も、人事一筋で、全く妥協を許さない。
管理業務の権化のような男である。
見かけは坂本とは逆に痩せ型で、いかにも融通が利かなそうな青白く角張った顔つきである。
坂本との共通点は「目が笑っていない」というところで、更に「この世に楽しいことなど何もない!」と表現しているかのような顔つきである。
笑い顔を見たものはほとんどいない。
「時々こういう異動で他部門に刺激を与えるべし。これからも人事権を駆使して、人事が会社を仕切れ。」と励まされた。
加えて、今回は小村社長が地域経済連合会の会長に就任されるので、徹底的にフォローすることを忘れるな。」とも言われた。
「はい。心に刻み込みます。」
と山本。
「異動規模は?」
「約3000人です。過去2番目かと。」
坂本は暫らく資料を熟読していた。
おもむろに顔をあげると、
「わかった。これはこれでいい。」
「我が人事部だが。」
「まず伊賀を経済連合会の秘書広報課長に据える。
連合連ではこのポストが肝だ。」
伊賀は山本の直接の部下の人事課副長だ。
西日本電力では現場でいう係長を本社では、副長と呼ぶ。
威厳を持たせるためか、一説には新選組に倣ったとも言われる。
「次に、東京支社副長に有村夢子をあてる。
これは村田支社長のたっての要望だ。
最近、社長から中央の精度の高い情報を求められることが多く、彼女ならキャリア試験にもパスしているし、若手官僚とかの知人も多いだろうということだ。」
西日本電力には多くのの支店・支社がある。
顧客を抱える電力供給エリア内の事業所を支店と呼び地域経営を担うのだが、東京支社だけは他と一線を画している。
主な業務は、指導監督官庁である通産省との連絡調整であるが、最近とみに重要視されているのが情報収集である。
国会議員、通産省を中心とした各省庁、報道機関、学者、電力連合会、他電力など多数の情報源が存在する。
したがって表向きは、他支店・支社と横並びであるが、実際には東京支社長の格は、他と比べて一段も二段も高く扱われている。
山本はこれで自分の首はつながったと思った。夢子も自分の部下である。
常識的に人事ラインの課長と副長、それに担当者まで、同時に変えることなどありえないからだ。
坂本は続けた。
「管理が必要な部門が多くある。
広報部は毎晩毎晩、接待と称して記者や広告代理店と飲み歩いている。
燃料部は意味不明な海外出張が多すぎる。
資材部や工務系は、業者たかりが横行していると聞く。
こういう部門はすべて人事管理が必要だ。
若手を送り込んで目を光らせる。
経理部は、教育担当の橋本だ。キーポイントの決算課の副長にする。」
「最後に君だが・・・。
日本海発電所の事務次長に行ってもらう。
これまで人事一筋で、俺に仕えてくれたことには感謝している。
ここらで一度現場を見ておいた方が良いと思う。二階級特進だ。
君ならみんな納得するだろう。
それと一人では不安だろうから、下の係長に高宮理子をつける。
彼女をうまく使ってくれ。」
山本は驚いた。
理子も自分の直接の部下である。
課長である自分を含めて若手だけ残して、ほぼ総替えである。
山本は顔には出さずに抗議の気持ちを込めて返答した。
「ありがとうございます。身に余る光栄です。
しかし、こんなに人事課の人間を入れ替えてよろしいのでしょうか?
それと、私、現場は初めてですし、原子力など全く経験ありませんが・・・。」
山本の抵抗はここまでであった。
被せるように、坂本が、
「人事課は全員格別の栄転だ。後顧を憂う必要はない。
君は単身赴任になるだろうが、それも経験だ。海野が同期なので君と理子のことは良く伝えておく。
まだ2か月あるので、今回の俺の異動の狙いは改めて伝える。
人事部異動を踏まえた異動原案を完成させてくれ。」
取り付く島もない。
坂本の目は有無を言わせるものでは無く、『魔界部屋』の主の目つきであった。
異色候補
日本海発電所、安全担当次長、海野雅治は相変わらず忙しい日々を送っていた。
原子力発電所には1年のうち3か月前後の法定の定期検査が義務付けられている。
約10万以上と言われる全部品を分解点検して僅かな不具合も発見する。
特に問題の「蒸気発生器」は渦電流探傷検査という磁気を利用した非破壊検査を、細管一本一本に施す。
気の遠くなるような作業である。
また核燃料も三分の一ずつ新燃料に取り換える。
電力会社にとって、原子力はベースとなる電源で、ウラン燃料のコストの安さから、常にフル稼働を求められる。
特に電力需要がピークを迎える夏場は、絶対に止めることができない。
もし何らかの都合で停止することになり、需要を賄うために火力発電所でカバーしたとしたら、コスト高の原油の焚き増し分だけで、一日に3億円の損失という試算もある。
したがって、夏場を控えたこの時期に定期検査は重なることになる。
分解点検した各機器を組み上げ、綿密にチェックした後、制御棒を引き抜き、核分裂連鎖反応を安定化させる「臨界操作」を行い、調整運転に入る。
その後、国の最終検査に合格すると営業運転ということになる。
『過去最悪』の蒸気発生器細管損傷を記録した3号機のあと、2号機の定期検査を終え、今は最終の1号機の定期検査の真最中である。これを通り越せば、8機すべて夏を迎える準備を終える。
検査報告は日々山のように上がってくるが、海野にとって、やはり気になるのは蒸気発生器である。
幸い、2号機の蒸気発生器細管の損傷本数は、3号機と比べてひと桁少なかった。
ピンホールの恐れもなしという結果だった。
「1号機は最も古いプラントだからどうかな。」
「それが、過去の実績を見ますと、細管損傷は非常に少ないんですよ。」
と補修課長。
「古いし、国産化率も低いのですが、それが却って良いんですかね?
不思議なんです。」
「その点は、通産省からも県からも、解明できないかと言われています。
1号機の蒸気発生器は、アメリカのウエスティングハウス社製。
他の7プラントは日本の四つ葉重工。何か関係あるんですかね?」
最新鋭の7・8号機から数字が小さくなるほど古いプラントということになるが、蒸気発生器の傷み具合はどうも経年年数とリンクしていない。
「そのあたりは一度うちの冶金工学出身の連中に研究させないとな。」
「それと、2号機は安定していてホッとしたな。
3号機より古いんで、心配していたが問題なくて助かったよ。」
そう言ったものの、海野には何かしっくりこない漠然とした嫌な予感があった。
翌日、1号機、蒸気発生器細管探傷検査結果の報告がきた。
AB蒸気発生器合わせて異常信号はわずか7本。ピンホールも可能性もなしということである。
海野は上がりかける口角を無理に下げながら、冶金工学出身の補修課員にこの差の解明を命じた。
海野を含めた技術陣にとっては、何日、何か月ぶりかの、ゆっくりコーヒーを味わえる報告会議であった。
「今回は走り回らなくて済みそうだな。」
一息ついたところに事務課の職員。
「本社の坂本部長からお電話です。」
「久しぶり。この前は本当にありがとう。」
「何が?」
「係長の件だよ。
本社に行った時、あいつに会いに行って顔を見てきたよ。原子力の研究部門で退屈らしいが、顔色が戻って、元気になっていたよ。」
「そうか。それは何よりだ。ところで今日は『内示』だ。」
「内示?俺がこの時期に転勤か?」
「いや、そうじゃないんだ。
来週後半から、米国での経営学研修だ。期間は一か月だ。」
「なんだそれ?」
「黙って聞け。
研修終了後、君は直ちに日本海発電所長に昇格だ。
研修に参加するのは、
企画部長の中原、
経理部長の神田、
秘書部長の天童、
東京支社の村田支社長、
それと俺の6人。
小村社長が直接指名した。」
「この夏前のくそ忙しい時に、一か月もアメリカ出張なんて。
本社は原子力現場のことを本当に分かっているのか?非常識だ。」
海野は珍しく語気を荒げた。
「社命だ。社長の直筆のメモも見た。
いろいろあるなら、発電所長になってから取り返せばいい。
とにかくわかったな。
詳細はうちの担当から連絡させる。
それと友達のよしみで、面白いものをファックスで送るよ。
今回の出張の意味も少しは分かるよ。」
企画部長は一年上、経理部長は一年下、秘書部長は海野と坂本の同期。
東京支社長の村田は2年先輩で、坂本の前任の人事部長である。
いずれもエリートである。
自分以外は・・・海野は正直に思った。
坂本から送られてきたファックスを見てさらに驚いた。
某週刊誌のコピーである。
『西日本電力、次期社長候補確定!
原子力発電所からも異色の候補!』
内容は、
企画部長の中原は、現社長の小村と同じ、企画部門の超秀才。
秘書部長の天童は、小村が最も信頼する秘蔵っ子で、溺愛している人物。
経理部長の神田は、難関である公認会計士の資格を持ち、経理に疎いとされてきた社長を裏方で徹底的に支えてきた人物。
人事部長の坂本は、西日本電力ナンバーワンと思える頭脳の持ち主で、常に冷静に事に臨むクールな人柄。
東京支社長の村田は坂本と同じ、神戸の名門私立高校から東大法学部卒。
頭脳もルックスも抜群の西日本電力の貴公子。
上層部に対するパフォーマンスもスマートで自然体。
と評価していた。
最後に海野に関しては、
電力会社では、これまで原子力出身者をトップには据えないという不文律があった。
原子力という性格上、何かあると直接責任が及ぶためである。
現場が長く、硬直化しやすい内部管理部門の人間だけでなく海野の現場感覚を経営に持ち込みたいという小村社長の深謀遠慮。」
という説と、
「単なる『当て馬』という説がある。」
という論評であった。
「だから、この6人でアメリカに行って、経営の勉強をして来いということか。」
海野は呟いた。
『当て馬』とはいえ、こんな中に名を連ねられるのは迷惑であった。
同時に、自分とは遠いところで大きな歯車が回りだしたような気がして何か不気味でもあった。
ここから先は
「電力会社の憂鬱」第一章~第四章
電力会社の企業体質をテーマにした小説です。第一章は無料、第二章から第四章は200円で公開していますが、当マガジンでは全章で500円です。
是非サポートをお願いします。小説の構想はまだまだありますので、ご購入いただいた費用は、リサーチや取材の経費に使わせていただきます。