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気の力

アマラとカマラの姉妹はオオカミに育てられたという。
容姿の異なる人間の赤子を、オオカミが守り育てたのはなぜか。
二人が全身で放った生きようとする「気の力」のおかげではなかったか。

二人は、ひたすら泣き、ひたすら乳房を探し、ひたすら温もりを求めた。
そこには無心で真っ直ぐな精気と和気が満ち溢れていたに違いない。

アマラとカマラは、慈悲深い神父に見つけ出され人間社会に戻ったが
長くは生きることはできなかったという。

その理由はよくわからないが
二人の精気と和気が薄れていったことは間違いない。

徳を含ことの厚きものは、赤子に比す。毒蟲も螫(さ)さず、猛獸據(よ)らず、攫鳥も搏(うた)たず。骨弱く筋柔かにして而も握ること固し。未だ牝牡の合を知らずして、而もシュンの作(おこ)るは、精の至ればなり。終日號(ごう)して唖せざるは、和の至ればなり。和を知れば曰ち常、常を知れば曰ち明。生を益せば曰ち祥、心氣を使へば曰ち強なり。物壯んなれば則ち老ゆ。之を不道と謂ふ。不道なれば早く已む。

『老子』(玄符第五十五)

攫鳥(かくちょう):猛禽類
牝牡(ひんぼ)の合:男女の交わり
シュン《にんべんの代わりに血》:男の赤子の生殖器
號(ごう)す: 泣く
祥(しょう):災禍

徳の厚い人というのは、赤ん坊のようなものだ。毒虫は刺さず、猛獣も通り過ぎる、猛禽も攻撃しない。
赤ん坊の骨は弱く筋肉も柔らかいけれどいったん握るとしっかりと握る。男女の交合は知らないが、陰部は勢いよく立っている。精力に溢れているからだ。
終日泣き続けていても、のどを壊すことはない。和気が充満しているからだ。
和気の充満は、恒常的な順調をもたらす。これを知っている者は明という。無理に寿命を延ばそうとするのは不吉といい、カラ元気で自分を元気づけるのことを強がりという。
この世の物事は、壮なれば次は老しかないのだ。
それは「道」の教えに反する。だから早く終わってしまう。

『老子 道徳教講義』田口佳史 抜粋

【解説】
赤ん坊の瑞々しい生命力に目を向けたよい文章だと思う。
老子は、赤ん坊の生命力に精気と和気という「気の力」を見出している。赤ん坊は純粋・無垢だからこそ、人間が生来に有している「気の力」がむき出しで表出するということであろう。これは老子が繰り返し述べてきた「道」の比喩として秀逸なものである。

赤ん坊の精気と和気の対極にあるのが、科学と打算かもしれない。
オオカミに育てられた赤ん坊が人間社会で長く生きられなかったのは、科学と打算に満ちた私達の社会が、「気の力」つまり「道」の力を摩耗させてしまうからかもしれない。
 
 


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