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行き過ぎることの危うさを知る

デカルトは要素還元論を説いた。
「複雑な対象を要素に分解することで全体を理解できる」
この考え方から、近代科学文明が生まれ、豊かな社会が実現した。
一方で、核兵器や遺伝子操作作物もまた、要素還元論の産物である。

ホーリズム(全体論)は、そのアンチテーゼである。
「全体は部分・要素に還元することはできない」
それは、大自然に神の存在を感じ取った、太古の人々の信仰を想起させる。
太陽は恵みを与えてくれるが、日照りをもたらすこともある。
雨は慈雨にもなれば、洪水にもなる。
人々は、自然に感謝し、自然を畏れもした。

信仰は恩寵であり、畏怖であった。
行き過ぎることの危うさを知ること。
それが人間の叡智である。

道は常に名無し。朴は小なりと雖も、天下敢えて臣とせず。侯王若し能く之を守らば、万物将に自ら賓(ひん)せんとす。天地は相合(あいがっ)して、以て甘露を降(くだ)し、民は之に令する莫くして自ら均し。始めて制(さ)けて名有り。名も亦既に有れば、夫れ亦将に止まるを知らんとす。止まるを知るは殆(あやう)からざる所以なり。道の天下に在るを譬(たと)ふれば、猶ほ川谷(せんこく)の江海に與(くみ)するがごとし。  

『老子』(聖徳第三十二)

朴(ぼく):伐り出したばかりの粗木
賓(ひん)す:帰服すること
甘露(かんろ)を降す:祝福することの意
自ら均(ひと)し:人民が睦あって争わない
制(さ)けて:裁断して器を作る意

「道」は、凄すぎてどう表現したらよいか解からものだから、名付けようもない。永遠に名前がない存在である。
あえて喩えるならば、伐り出したばかりの手つかずの木材、すなわち「朴」のようなものだ。これから何になるか、大きな可能性に満ち溢れている。人間でいえば、そうした人は、たとえ低い身分であっても、誰も好き勝手に使用人にはできないものだ。
もし王たる人物が、同じように道を守って生きれば、万物は自ずから付き従うであろう。
天地も力を合わせて甘露の雨を降らし、民衆は、命令がなくても自ずと分け隔てなく平穏に治まるであろう。
手つかず状態の「朴」を細かに切り分け、さまざまな器を作ることで、はじめて名前が付けられる。
名前が付いたからといって、さらに細かく切り分けてしまうと何の用も足さないものになってしまう。どこかで止めないといけない。
適当な段階で止めることをわきまえていれば、危うさというものがない。
道の精神で生きる人間を喩えてみれば、河川や谷筋を流れ下る水が、やがて大海に注ぐように、全ての存在の集積するところといえる。

『老子 道徳教講義』田口佳史 一部改訂

【解説】
スケールが大き過ぎて捉えどころがない「道」を、比喩を使って説明している。老子にはこうした比喩表現が数多くある。

私は「朴」にかかわる部分に着目したい。
伐り出しの粗木で名前もないが、それゆえに無限の可能性を秘めていた「朴」は、細かく切り分けられ、器という機能を有したことで初めて名前がつけられる。

細分化された器は、機能的価値を有したが、「朴」が持っていた全体性という魅力を失ってしまったともいえる。

名前を持つということは欲望を持つことの比喩であろう。目の前の欲望を満たすことは、無限の可能性を小さく切り刻むことでもある。

私にはこの喩えが、要素還元主義とホーリズム(全体性)の対比を予見しているように読める。
「複雑な対象を要素に分解することで全体を理解できる」と考えるのか
「全体は部分・要素に還元することはできない」
とするのか。
これは哲学的な論争でもある。

「朴」のままでは用が足らない。かといって切り刻み過ぎると瑞々しさを失う。どこで止めるのかが難しい。「道」を守って生きるということは、どこで止まるのか、という叡智を言っているのかもしれない。

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