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トップの役割
不祥事を起こした組織の謝罪会見には二つのタイプがある。
ひとつは、トップの両脇に役員・部門長が何人も並ぶ場合。
いまひとつは、トップが一人で臨む場合である。
経営幹部が雁首並べて頭を下げる光景はちょっと情けない。
批判の受け側を分散することで、追及をかわそうとしてるようにも見えてしまう。
トップが一人で矢面に立つ姿は潔い。
答えられない質問も含めて批判を一身に受け止めることから始めようという覚悟を感じる。
かわして終わりにしようとするのか、受け止めて始めようとするのか。
そこにトップの矜恃を見る。
天下の柔弱(じゅうじゃく)なるもの、水に過ぐるは莫(な)し。而も堅強を攻むる者、能く勝(まさ)るあるを知る莫し。其れ以て之に易(かわ)るもの無し。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざるもの莫きも、能く行ふは莫し。
故に聖人云ふ、国の垢(あか)を受くる、是を社稷(しゃしょく)の主と謂(い)ひ、國の不祥(ふしょう)を受くる、是を天下の王と謂ふ、と。正言(せいげん)は反するが若し。
社稷(しゃしょく):土地の神(社)と五穀の神(稷)の総称。朝廷、国家を意味する
不祥(ふしょう):災厄、不吉の意味
この世で最も柔らかくしなやかなものは、水に優るものはない。
堅くて強いものを攻めるには、水に勝るものはない。水の代わりを務められるものなどない。
しなやかなものが強いものに勝ち、柔らなものが剛(かた)いものに勝つことは、この世で知らないものはないが、それをよく行うものはいない。
従って「道」に生きる人はいう。
国の汚れを引き受ける、これを国の主という。国のよくない点を引き受ける、これをこの世の主という。
ほんとうに正しい言葉は、世の中で言われていることとは反対のようだ。
前半は、老子の特徴である「水の思想」を述べている。ここでは水こそが最強だと言っている。
最後から四行目の「故に聖人云う・・・」からは、指導者は水の如くあれ、と「水の思想」を指導者論に拡張させている。
水はこの世のあらゆる汚れ、穢れを自らの身に引き受けて、汚濁、汚水となることで、この世を浄化してくれる存在である。
同じように、王たる者は、国家の汚れ・不祥を自らの一身に引き受けて、民を汚れ・穢れから守る役割がある、と喝破しているのである。
この示唆は、実に今日的で共感する人も多いだろう。「水の思想」を起承とし、指導者論にまで論を発展させる流れは見事である。
孔子、孟子といった中国の儒家思想では、飢饉、洪水等の天災が続き、民衆の疲弊が頂点に達した時に王朝の交代が起きると考えた。
「王は、天子としての徳を失った」というのが王朝交代を迫る側の論拠であり、人々はその主張を是としてきた。これが「易姓革命」の論理である。
天災の続発をもって天子の徳の喪失の論拠とするのは、曲がりなりにも科学的知識を身につけた私達には強引に感じるが、民衆の汚れ・災厄をその身に受け止めてこそ指導者だ、という老子の指導者論は、その逆をやって批判を招く指導者が多いだけに、説得力がある。
「正言は反するが若し」という最後の一文も、鮮やかな結句といってよい。
指導者のあるべき言動は、よく見られる実際の言動の正反対のものだ、と強烈な皮肉で結んでいる。
不祥事の記者会見を見るたびに、この見事な起承転結を思いだす。
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