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父であり、母である

「道」が母で、「徳」が父であろうか。
いや、「道」が父で、「徳」が母なのかもしれない。
生命を産み出し成長へと導くために、父性と母性が両輪であるように、「道」と「徳」も切り離して論ずるものではない。

人間は、父性と母性の両方に支えられ、人として成熟していくように、「道」と「徳」の両方の存在があって、この世界は成り立っている。

そして忘れてはいけない。
万物を産み出した「道」が、この世を所有、支配、頼みにしないように、
子供を産み育てた親は、子供を温かく見守り、静かに消えていく方がよい。

道之を生じ、徳之を蓄(やしな)ひ、物之を形づくり、勢(いきおい)之を成す。是を以て萬物、道を尊(たっと)び徳を貴(たっと)ばざるは莫(な)し。道の尊きと徳の貴きとは、夫れ之に命ずる莫くして、常に自然なればなり。故に道之を生じ、徳之を蓄(やしな)い、之を長じ、之を育て、之を成し、之を孰(じゅく)し、之を養ひ、之を覆(おほ)ふ。生じて有せず、為して恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず。之を玄徳と謂ふ。  

『老子』(養徳第五十一)

玄徳(げんとく):玄妙な道の働きのこと

「道」が万物を生み、「道」の大きな徳がそれを育て、各々の目的のものの特性に形が出来てきて、「道」の大きな勢いが完璧な成人にする。
したがって万物は、自分を生み、成長させ、そのものにならせ、育てている。「道」の働きや「道」の徳の偉大さを貴ばないものはいない。
真の「道」とその徳の凄いところは、誰かに頼まれ、命令されたからそれを行っているのではないところだ。すべての行いはごくごく自然に何気なく行われているのだ。
したがって「道」はそれを生み、「道」の徳がそれを養い、それを成長させ、それを育て、それを完成させ、それを成熟させ、それを養い、それを守っているのだ。
そこまで行っている「道」は、しかし生んだからといって所有しようとしないし、育てたからといって頼みにすることもないし、成長したからといって自分の支配下に置こうとはしない。
これこそが「道」の徳、ほんとうの大きな徳「玄徳」という。

『老子 道徳教講義』田口佳史

【解説】
「道」は万物を生み、養い、育て、成長させるけれども、けっして恩に着せることはない、見返りを求めない、と老子は言っている。「道」という言葉に仮託した老子の「生成化育」論と言えるのではないだろう。

生み、養い、育て、成長させる、というのは親の役割と同じである。しかしながら「生じて有せず、為して恃(たの)まず、長じて宰せず」という部分は、親の身としては耳の痛いところである。

子供は親の所有物ではない、見返りを求めて育てたわけではない。そう頭で理解してはいても、「誰のおかげで大きくなったと思っているのだ!」という小言を口にすることが誰にもあるものだ。

無意識に自分の期待を子供に押し付けていることもあるかもしれない。
子育ても難しいが、子離れも同じように難しい。
我が子の成長を見届けた後は、静かに消えていく。それが私の親としての理想だと、この章を読んで改めて気づかされたように思う。


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