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炭焼きの村で唄は育まれ─岐阜県本巣市根尾

盆踊り唄に刻み込まれる生活の痕跡

岐阜県本巣市旧根尾村。岐阜県のいわゆる西濃地域に位置し、越美山地を隔てて北は福井県大野市に接する。かつての村域のほとんどは山地に覆われていて(根尾村時代は、総面積の95%が山地だった)、耕地はほとんどない。よって、この村の産業は農業に比べ、林業の比重が非常に大きかった。炭焼き、材木の切り出し、筏流しなどの山仕事が重要な収入源だった。

庶民の娯楽(ハレ)と、日常生活(ケ)は切っても切り離せない関係にある。そう強く意識させられるのは、この村の古老に盆踊り文化について質問をすると、必ずどこかの節でそういった山仕事や畑仕事の思い出話に転がっていくのである。

例えば、根尾の盆踊り歌の歌詞についてお話を伺っている時に、こんな話が出た。

「『山家なれども 八谷※は名所 五月かぼちゃを 売りに出す』という歌詞があるな。この村は田んぼが少ないから、あまり米がとれなかった。山の斜面にある山畑でかぼちゃやら芋やら荏胡麻やらを作って、大垣の殿様に献上したんや」

※八谷......旧根尾村の地区の1つ

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さらに、古老は続ける。

「僕も小学五年生の頃から畑に行ってた。昔は沢山作ったで。10〜15アールくらいあった畑。そこで里芋を作る、ジャガイモを作る、白菜を作る。弟と妹もいるもんでお守りしながら、牛はおるし、馬はおるし、馬の草は刈っておけよと言われるし、お袋と親父は山へ行ってまうし、大変やったよ。芋を水洗いでゴロンコ、ゴロンコとかけるやつ(芋車)に、遊びたいやろ4年生や5年生の時は、ちーと遊んどると芋を洗いすぎてしまって、削れてまって、真っ白になって困ったなあ。4年生の頃からお釜でご飯も炊いたし、だから今でも自分一人でお勝手ができるし、どんな料理もするし、人には頼らへん」

そう力強くおっしゃるのは、根尾の大井地区に住む吉田喜作さん。昭和15年生まれで、今年80歳を迎える。数年前にパートナーを喪くされ、現在は一人暮らしだが、その言葉通り、一人でもテキパキと家事をこなしている。

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吉田さんはこの地域に伝わる根尾盆踊り保存会の会長を務めている。若い頃から盆踊りに親しみ、民謡を愛し、さらには地元の盆踊り唄の収集活動も行なうなど、民俗芸能の継承活動にも大きく貢献されている。

唄を取り合い踊るのが拝殿踊りである

初めて僕が吉田さんと出会ったのは2018年の5月のことだ。その前年に、東京の盆踊り仲間の一人が未知なる盆踊りを求めて、根尾の盆踊り・花火大会に参加し、吉田さんとの繋がりができた。その縁から「みんなで根尾の盆踊りを習いに行こう」という機運が生まれ、現在までに何度か足を運び、保存会の練習に混ぜていただいたり、自宅に泊まらせてもらったりと、その都度いろいろとお世話になっている。

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吉田さんと出会うきっかけを作ってくれた、盆踊り仲間の野口さん。吉田さんのご自宅にてジャンボ椎茸をご馳走になった。

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吉田さんと初対面の時。根尾の名所である淡墨公園の薄墨桜の前で直々に盆踊りをご指導いただいた。
写真:小野和哉

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盆踊りの翌朝、吉田さんのご自宅で朝食をいただく、の図。

「ただ、のうのうと踊っていたらあかん」というのは、吉田さんの口ぐせだ。

根尾に古くから伝わる昔ながらの盆踊りは「拝殿踊り」という形式である。各集落のお宮の板敷きの拝殿が盆踊りの舞台。下駄を履いた老若男女が輪を作り、提灯の薄明かりの中で、順繰りに「七・七・七・五」形式の唄を出し合いながら踊り明かす。唄を出す順番は決まっておらず、前の人が1つ唄を出したら、すぐさま誰かが後に続けて唄う。また、一人が唄い出したら、下の句を続けて全員で合唱する「連れ節」スタイルも、この土地の流儀だ。

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〽︎唄を出したら
追いつぎ出しゃれ
唄の途切れは
聞きにくい

〽︎儂が唄っても
付けてもくれず
ひとり旅より
なおつらい

〽︎つけておくれよ
前音頭様
おどち咲くよに
ぞくぞくと

根尾に残る盆踊り歌にも、踊り子たちの唄による積極的参加を促す歌詞が多数残っている。踊って、唄って、参加者全員で寄り合って「場」をつくっていくという「共創」的な感覚が生きている。

「盆踊りは歌って踊らなきゃ楽しみがない。ただ黙って黙々と踊っとったらあかん。僕がいつも言うのは、好きな歌詞を一つか二つでも覚えて歌うっていうことが大事。『私しゃ唄好き 唄数知らず 一つ出しては 七返す』っていうように、同じ歌詞を七回唄ってもええんや。間違わないかしらって恥ずかしい気がするんやな。でも、しまいまで唄わなくても、みんなが(歌を)付けてくれるから、頭の部分だけ出せばええんや」

唄うのは気恥ずかしいが、みんなが支えてくれると思うと、少し勇気が出てくる。

一晩で下駄を一足履き潰す

吉田さんの家は一家全員が盆踊り好き。明治42年生まれの親父さんは、樽見小学校の運動場で行われた盆踊り大会に呼ばれ、音頭取りを務めていたという。吉田さんが盆踊りに参加するようになったのは、中学二年生の頃からだ。

「お袋が浴衣を3着作ってくれたんや。帯も兵児帯やったんやけど、『お袋、目立つような帯を買ってきてくりょ』って言って。引きつけなあかんでな、娘を」そう吉田さんは笑う。

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お盆がやってくると、吉田青年は浴衣を着て、ステテコを履いて、自転車にまたがって出発する。

「根尾の外れにある高尾ってところにまず行ってな。夜7時くらいかな。お宮で待っとると娘たちが集まって来るんや。そこで唄って30分ほど踊ったら、自転車に乗って次の場所に行く。高尾は16日の晩はお神酒が出るんやで。お宮の拝殿で茶みたいにガーッて注いでくれるんで、カーッと飲んで唄って踊る。飲酒運転したってあの頃はやかましくないもんで、自転車でフラフラしながら、浴衣をステテコにゆいつけて走ったよ」

「高尾、水鳥、板所、板谷、中村、越卒、門脇、長嶺、能郷、最後に在所の大井。10箇所くらい周るもんで、大井に着くのは夜2時とか3時。ほんで、お袋から怒られてなあ。朝4時くらいまで踊ったんや」

昭和30年から45年頃、根尾の地域では、14、15、16、17日の晩に盆踊りが各集落で行われたという。なかでも17日に踊ったのは大井だけだったという。

「その日は大井だけだったから、夜7時から1時くらいまで踊ったな。うち(の家族)はみんな好きやったでなあ。姉3人もお盆で機織りから帰省していて、わしとお袋と親父と6人で踊り始めると、村の衆も来て踊りだす。それはテレビも何もない時やでな。一番の楽しみやった。踊ったなあ。うん」

その熱中ぶりは、下駄を一晩で履きつぶしてしまうほどだったという。

「踊っていると、拝殿の板場で釘頭が出ているところもあって、下駄の歯が欠けてしまうんや。昼間買ったばかりなのに、あくる日また買いに行くやろ? そしたら下駄屋のおばさんが『お前よ、昨日買ったばかりなのになんで......』って。それぐらい踊ったんやて」

女の子と拝殿の下でボソボソボソボソ......

盆踊りの昔話を聞いていると、若者らしい少々やんちゃなエピソードも出てくる。吉田さんは盆踊りの時は、いつも仲間4〜5人を連れて行動していたそうだ。

「(お宮に着くと)大抵のところでは、(村の衆が)拝殿の腰板に座って。どうして踊らんのやって言ったら、唄ってくれる人がいないと踊れないっちゅうやろ。踊れるんやけど、きっかけがないとなかなか踊り始めん。ほんならって4人か5人でバーって唄い出すと、やれ若衆がよく来てくれたって踊りの輪が二重にも三重にもなって、そのうち年寄りも唄い出すんや。若い連中で揃いの浴衣を作ったこともある。白地に『花』と『龍』って文字を入れて、それは見事やったよ」

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そんなド派手な演出をするのも、やはり女性の気をひくためである。

「娘が近くに寄ってくると、余計張り切って踊るわな。いいところ見せなあかんで。踊っとるうちに『ちょっと休もうか』って連れて行っては、拝殿の下の方でボソボソボソボソって。ヤブ蚊に食われながら、お宮の杉の木の陰でしゃべっとるやろ。それで、杉の皮をペロコンペロコンって剥がしながら話してるから、どこのお宮の杉の木もこれぐらいの高さまでは真っ赤になってたりするわ」

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かつての「娘」たちは、いまもお元気に根尾盆踊りを踊っている。大井地区の七社神社にて、テレビの撮影で踊りと唄を披露する、根尾盆踊り保存会の皆さま。
撮影:小野和哉

女の子と仲良くなったらお宮からこっそりと抜け出して、自転車の荷台に乗せて走ることもあったという。まさに青春の1ページだ。

「縫製屋とかバッタンコ屋さんで働いていた娘たちも、お盆には帰ってくるでね。ちいと仲良くなったものは住所を聞いとって、後でラブレターをだいたり(送ったり)な。今度来たら会いましょうって。あの頃は携帯もないで、電話をしてくださいとも言えないので、お手紙くださいって言ったんや」

山仕事をしながら親父に教わった唄

若い頃から現在に至るまで、ずっと「音頭」の魅力にとりつかれている吉田さん。そのバックグラウンドを語る上で、「炭焼き」という仕事は外せない。

先に触れたとおり、根尾村では林業に従事する人が多かった。大垣藩が治めていた時代には、年貢の代わりに「段木(だんぼく)」や「つだ」と呼ばれる薪を納めていた。「つだ刈り唄」という民謡も残されている。

「段木」は雑木を長さ75cmくらいに切ったもので、秋から冬にかけて生産したという。段木は家庭用の燃料にもするし、一部は売って現金収入にしていた。年貢として納めていた当時は、根尾川を流して大野の呂久の渡しというところまで持ってきて役人に渡していたそうだ。

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現代における根尾の林業の様子。
写真提供=伊藤翔汰

つだ刈りの他に、炭焼きの仕事もあった。この炭焼きは、特に明治に入ってから盛んになったようで、高尾、水鳥、奥谷、そして吉田さんの在所である大井でも炭焼きをする者が増えた。そういった村々では、村中で炭焼きに取り組み、炭焼きをしないものは一人前ではないとさえ言われたようだ。畑仕事は母子や老父母が務め、収入になりやすい炭焼きは戸主が行った。吉田さんのお父さんも、やはり炭焼きをやっていたという。

「親父は炭焼きをやっとったんやけど、僕も親父について3月から雪が降るちょっと前までの11月までは炭焼きをやっとった。炭俵を3つ背中に負んで山を歩いたんや。儲かったなあ。あの頃は炭焼きばかりやったで」

吉田さんがお父さんから音頭を覚えたのが、この山仕事の時だった。

「山で炭にする木を切るやろ? 今のようにチェーンソーはないで、ノコギリや斧(よき)、鳶鉈(とびなた)で切った。危険なためにお互い別々の場所で切っとるんやけど、えらい(身体がもたいないの)で休んでいるうちに唄うんや。それで仕事もはかどるから。親父が休んでいる時に唄うと、僕もそれに返して唄うんや。ほうすると『坊、坊』って、その頃は坊って言われたでね、『坊、そんな唄い方はいかん』って教えてくれるで。それで唄うやろ。そしたら『おお、そうや』ってまた親父が唄うんや。そうやって唄を覚えた」

そのように親子が唄う様子を他の炭焼き仲間も見ており、夕方仕事が終わった頃に顔をあわせると「あんたのところの親父は唄っとったなー」とよく言われたそうだ。

郵便局員となり年寄りから盆踊り唄を収集

中学を卒業してから家の畑仕事や山仕事を手伝っていた吉田さん。しかし、ほどなくして農業を離れ、一時期は名古屋に出て働いていたそうだ。お父さんが60歳で亡くなってからはまた地元に戻ってきて、土建屋などいろいろな仕事に従事したのち、25歳で郵便局に入った。

戦後まもなくして、人々の生活は急速に様変わりしていった。食べ物や物資に困窮していた時代から、豊かな生活を求めて人々が高品質の商品を買い求める消費社会の時代に。 物を買うためでなく、子供の教育費も必要だ。ますます現金収入が必要となってくる。そうすると兼業農家を始める者や、自営業を始める者、土木業などの勤め人になる者も出てくる。 また昭和30年の朝鮮戦争の特需で重工業が発達した。エネルギー革命が起こり、もはや炭焼きは時代遅れとなってくる。

吉田さんがたどったキャリアの軌跡は、このような時代の流れをなぞっているようだ。

しかし、この郵便局員という仕事は吉田さんにとって天職だったかもしれない。33年間勤めたという実績もさることながら、就職からほどなくして配達で各家庭を周りながら、年寄りから盆踊り唄の聞き取り調査をするようになったからだ。最初は「わしゃ知らんで」「昔は唄ったけど忘れてしまった」とかわされるが、「ええで、ちょっと歌ってくれたらわしゃ(手帳に)書くで」「要所要所でもええから」と説得していると、少しずつ唄ってくれる。そして唄っているうちに、年寄りたちも思い出してくるのだ。調査の成果は最終的に歌詞集となり、昭和43年頃、1800部ほど刷られ村中に配布された。

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「なんで小さいサイズにしたかというと、ポケットや浴衣の袖に入れるため。踊っている時に見れるようにしたんやけど、字が細かいから読めんかった。ははは」

歌詞集は、平成10年になってより大きな判型でまた作り直された。

今でも続く根尾の拝殿踊り

かつては吉田さんが10箇所もハシゴをした根尾の拝殿踊りは、ほとんどの地区で廃絶してしまっている。吉田さんに言わせれば、テレビが家庭に普及し出したことが衰退の契機となっているようだ。

しかし、この土地で盆踊りという文化自体が途絶えてしまったわけでない。毎年8月のお盆に大垣と根尾を結ぶ樽見鉄道の終着、樽見駅前で開催される「根尾盆踊り・花火大会」が開催されており、周辺から多くの人が詰めかけ、生唄ではなくテープをかけながらではあるが、根尾の伝統的な盆踊りが踊られている。そして昔ながらの拝殿踊りも細々と継続している。

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写真提供=野口沙絢

僕が根尾の拝殿踊りに初めて参加したのは、吉田さんと出会った2018年の夏のことである。この時は吉田さんの案内のもと、根尾の大井、長嶺地区で行われている計2カ所の拝殿踊りに参加させていただいた。

最初に足を運んだのは、吉田さんの在所である大井の七社神社。少し高台となった見晴らしのいい場所に神社の本殿と拝殿が構えている。参加者は東京から遊びに来た僕を含む盆踊り愛好家仲間と、地元の人は吉田さんのみ。盆踊り保存会のメンバーは多くいるが、大井では拝殿踊りに足を運ぶ人は少ないようだ。いつか盆踊り保存会の女性が「昔は、拝殿の外に人があふれるくらい人がいたよ」と仰っていたことを思い出す。

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2019年に行われた大井の七社神社での拝殿踊り。この年は台風の猛威で全国各地で盆踊りイベントが中止されたが、根尾の拝殿踊りは嵐の中でも決行された

「さあ、みんな唄ってよー」と、吉田さんの声が飛ぶ。覚えたての踊り、覚えたての歌で、輪を作る。音響もない、太鼓もない、人の唄声と下駄の鳴り響く音だけで踊る素朴な盆踊りだが、楽しい。山間の大自然と静寂に包まれた環境の中で、小さな明かりの中で踊ると、唄が身体に染み込んでいくような気がする。

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2019年に行われた門脇の素戔嗚神社での拝殿踊り

続いて、車に乗り込み次の会場に移動する。門脇地区での拝殿踊りは終了してしまっていたようなので、通り越して長嶺の素戔嗚神社に向かった。会場に着くと、大井と違って既に拝殿に多くの地元衆が集まり大いに賑わっている。老人もいる、大人もいる、子どももいる。これぞ夏祭りといった風情だ。下駄の音もより大きく鳴り響き、踊りも熱気に満ちていく。吉田さん自身も声を張り上げて唄いながら、唄や踊りのレクチャーにも余念がない。

根尾には現在でも多くの盆踊り唄が伝わり、実際に唄い踊られている。「さんより」「草刈り」「まねき」「しっこのさい」「どどいつ」「やちく」「新草」「お七くどき」「島田」「輪島」「おわら」「チョイナ」「さのさ」。この他にも、踊り方が忘れられてしまった「甚句」、”変わり節”と言われる、他の踊り唄の途中から切り替わる「アサヨイワイ(かぼちゃ)」「汽車は出ていく」などもある。これだけの唄が絶えず現在まで継承されているのは、吉田さんというリアルな音頭取りがあってこそだと思う。その日は結局、長嶺の拝殿では夜10時過ぎまで8曲ほどが唄い踊られた。

音頭イズノットデッド

2018年の秋頃、吉田さんはドクターヘリが出動するほどの大きな交通事故に遭った。しばらくは入院と治療で音信不通の時期が続き、ようやく年明けの春先にお元気そうな吉田さんと再会することができた。片足を不自由にされてしまったが、電話をするとこちらが気圧されるくらい威勢のいい声が受話器から聴こえてくる。

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足は不自由ながらも、盆踊りでは拝殿の腰板に座った吉田さんはいまにも歩き出しそうな勢いで踊り子たちに檄を飛ばし、自身でもまた唄う。

また、吉田さんと唄い、踊ることができる。自分を含め、吉田さんにお世話になった東京の盆踊り好きたちが胸をなでおろすとともに歓喜したことは言うまでもない。まだまだ教わらなければいけなことはたくさんあるのだ。

そんな期待に応えるように、いや、期待以上に吉田さんと会うと止まることのないくらい何時間でも里の暮らしや昔話、盆踊りのことを喋っていただける。とても僕らのインプットが追いつかないくらい。

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吉田さんは岐阜県特有の犬種、美濃柴犬のブリーダーをされている。かつては猟犬として飼われていたようで、顔だちはキリリと精悍だ。

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飼い猫の五月(さつき)。「メイちゃん、メイちゃん(5月だけに?)」と吉田さんから可愛がられている。

「音頭イズノットデッド」

バイタリティーあふれる吉田さんに接していると、そんな言葉が頭に浮かぶ。音頭という文化はまだまだ死んでいないし、死んではいけない。盆踊りや音頭とは伝統的文化である、民俗芸能であると、そう思っていた僕の認識を、根尾の盆踊りが変えてしまった。

声ひとつで人々を熱狂させ、踊らせる。そんな素晴らしい文化がある。そしてその背景には、文化を育んだ先人たちの豊かな生活と歴史がある。吉田さんが語る根尾盆踊り全盛期の話は、時代を超えて血湧き肉躍る興奮を与えてくれる。音頭は現代人をも魅了している。こんなカルチャーが「伝統」なんて、カビ臭い言葉で修辞したくない。

山の中で、人々の営みとともに育まれ、愛された唄がある。その「音頭」はきっとこれからも唄い続けられるはずだ。 

テキスト=小野和哉
写真=渡辺葉

(参考文献)
本田安次 著『日本の民俗芸能. 4 (語り物,風流2)』(木耳社)1970年
根尾村 編『根尾村史』(根尾村)1980年



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