見出し画像

4.4ヘクタールのアジール。多摩ニュータウンの農と福祉と里山を守った”牧場のおっさん"物語

私が学生の頃に住んでいた町に、ニュータウン開発計画に抗って4.4ヘクタールの酪農地を親子2代で守った親子がいました。大学生の時は知るよしもなかった土地の歴史。掘り下げてみると、まちづくり、自然保護、農業、福祉と、現代の日本が直面するさまざまなイシューに対する挑戦の軌跡がそこには眠っていました。少し長めの記事になりますが、お付き合いください。
執筆・編集:小野和哉/撮影:田中亜玲(クレジットのあるものは筆者撮影)


プロローグ

 大学に入学してから4年生の夏くらいまで、僕は東京都八王子市の堀之内という町に住んでいた。ニュータウンのありふれた町という印象で、ロードサイドに立ち並ぶドン・キホーテやブックオフのような郊外的な大型チェーン店と、「東京」のイメージにそぐわないやけに豊かな自然が、僕が4年間見てきた堀之内の光景のすべてだった。

画像27

 大学に通う4年間だけこの町に「滞在」しているような人間は、おそらく堀之内の歴史なんて考えることすらなく卒業していく者が大半だろう。キャンパスへ向かう道から少し脇に逸れた場所に、小さな氏神様が祀られていることだって、気づくこともない。

画像27

 ところが、僕たちが何気なく通っていた大学だって、この土地の成り立ち、多摩ニュータウンの歴史と無関係ではなかったりする。

「中央大学はね、はっきり言うと、多分政界とつながってたんだね。(土地を)買うのが早すぎる。(ニュータウン)計画が発表される前に、二束三文のところを買っちゃったの」

 そうあけっぴろげに語るのは、NPO法人 YUGI 代表理事であり、堀之内で先祖代々、農業・酪農を営んできた通称”牧場のおっさん”こと、鈴木亨(1954年生)さんだ。

画像14

 亨さんは2008年(平成20)に長期の入院を余儀なくされる大病を患いドクターストップで乳牛を手放してしまったが、里山保全の運動や、社会福祉法人の設立、また多摩の新規就農者への支援活動など、今なお精力的に地域の「まちづくり」に関わっている。

「(中央大学多摩キャンパスから)道路隔てて、西側にグラウンド(中央大学多摩競技グラウンド)あるじゃん、そのグランドの西となりの山はうちの山なの」

 あっさりとその口から放たれる言葉の重みに、スケールの大きさに、押しつぶされそうにもなる。「土地」という概念から遊離して、ふわふわと生きてきた自分には、とても受け止めることができそうにない。

 1964年(昭和39)に八王子市に合併するまで、堀之内は「由木村」という村を構成する1つの地域だった。住所としては「神奈川県南多摩郡由木村堀之内」だ。そう、由木村を形成する11ヶ村が明治5年に神奈川県の管轄となってから、明治26年に南多摩郡が東京府に編入されるまで、堀之内は神奈川県だったのである。 

 堀之内の中でも、僕が住んでいた京王堀之内駅周辺エリアは、ニュータウン計画区域としてすっかり開発されつくされてしまっているが、野猿街道あたりを境とした北西部のエリア、いわゆる亨さんの住んでいる堀之内の「寺沢」という地区ではいまも農地や里山の驚くほど豊かな自然が残っている。

画像27
画像27

 京王堀之内駅から平山通りを真っ直ぐに北上して、堀之内北八幡神社のあるトンネルを抜けると、視界は一気に開け、この場所にたどり着くことができる。どこか懐かしいような田舎の農村の風景。まさか自分が住んでいたニュータウンの目と鼻の先に、こんな場所が残っていたとは思いもしなかった。

画像27

 多摩ニュータウンの開発計画は、八王子市・多摩市・稲城市・町田市の4市にまたがる約3000ヘクタールの広大な土地に人口40万人の人工都市を造成するという前代未聞のプロジェクトとして昭和30年代にスタートした。その開発を押し進める法的根拠となったのが、1963(昭和38)年に公布・施行された「新住宅市街地開発法」だ。

 同法は計画区域の土地を強制的に買収・収用する力を持っていた。堀之内をはじめ、多摩ニュータウン区域に指定された南多摩エリアは、かつては人と自然が共生する豊かな農村地帯だった。代々受け継がれてきた農地を奪われた人々は、別の場所に移転して農業を続けるか、廃業をして別の職を探すしかない。

画像27

 亨さんの畑からは、ニュータウン開発地区の街並みがよく見通せる。都市と農村の境界にあるこの場所が、なぜ今のような形で残ったのか。その背景には、堀之内に住む酪農家たちの長年にわたるニュータウン開発への粘り強い抵抗運動と、農家と都市住民の共生に向けた模索の歴史があった。

開発に抗う堀之内寺沢の酪農家たち

 多摩ニュータウンは「丘陵」といわれる、なだらかに台地が起伏する地形の上に作られている。高い山もないし、視界を遮るビルもない、開発の手が及んでいない多摩の里山に行くと、空の広さに驚かされる。丘陵地は一面が雑木林に覆われ、その麓には田畑が広がる。堀之内寺沢で生まれ育った亨さんもかつての故郷の光景を「田舎。すべてが緑だった」と回想する。

 由木地区では、東京オリンピック後の昭和40年代半ばになっても、民家全体の半数が茅葺き屋根だったという。都心から電車でわずか40分ほどの場所に、奇跡のような農村地帯が残されていたのだ。

画像7
© 1994 畑事務所・Studio Ghibli・NH
画像8
開発前の南多摩の原風景は、多摩ニュータウン開発に抗う狸たちの姿を描いたジブリ映画『平成たぬき合戦ぽんぽこ』で克明に描かれている。© 1994 畑事務所・Studio Ghibli・NH

 由木では昔から農業のほかに、養蚕や酪農も農家の重要な生業だった。
 多摩の地に酪農を持ち込んだのは、由木村松木の井草甫三郎(ほさぶろう)という人物だ。1869年(明治2)生まれの甫三郎は、養蚕を主体とした多摩農家の農業経営を安定させるため、千葉県からホルスタインの牝子牛を一頭購入。1892年(明治25)、ここから多摩の酪農の歴史は始まったと言われている。由木の中でも堀之内寺沢はとりわけ酪農が盛んだったという。

画像13

「鈴木家」は、堀之内の旧家である。亨さんの父親である鈴木昇(1920年生)さんが子どもの頃は、家に奉公人や子守娘、作男(雇われて耕作をする人)がいたそうだ。もちろん鈴木家は昔から酪農にも取り組んでおり、亨さんの祖父にあたる鈴木理輔は由木村酪農組合のリーダーであった。昇さんは農作業や養蚕、牛乳を絞る手伝いをしながら少年時代を過ごした。

 農家の跡取りである昇さんは、太平洋戦争真っ只中の昭和15年に赤紙で召集されたが、なんとか命を繋ぎ、1947年(昭和22)6月に八王子駅へと生還した。戦争が終わると、次は飢えと戦いの時代。なんでもいいから食糧を分けて欲しいと、都会から「買い出し部隊」がやってくるという状況の中、国民の腹を満たすために、昇たち日本の農家は奮闘した。昭和30年代には由木地区の酪農家の戸数は百二十数戸に達したという。

 特に旧由木地区の実行委員会の中で、酪農が盛んな堀之内は食糧生産がトップだった。昇さんはやがて、由木酪農組合長となり、東京都下の「酪農王国」を夢見た。そんな矢先の、ニュータウン開発計画だった。

画像24

 飢えの時代から一転、高度経済成長とともに日本の人口は急増。肥大化する都市と開発の波は、多摩地域のような地価の安い周辺地にも及ぶようになる。多摩ニュータウンの都市計画は、そのような無秩序な開発を防止し、かつ大量の住宅を供給するためにスタートした。

 先にも触れた、1963年(昭和38)施行の「新住宅市街地開発法」は、ニュータウン計画を語る上で外すことができないイシューだ。同法はニュータウンの広大な開発区域をスピーディーかつスムーズに取得することを目的としているため、地域住民に相談もなく計画区域を指定し、かつ強制的に土地を収用できるという強権を付与されていた。

 農家たちにとっては、自分たちの預かり知らぬところで先祖代々の土地が用地指定をされた上に、強制的に土地を買収されてしまうのだからたまったものではない。昇さんも「都市という形の中には農業の存在は許さない土地計画が出来上がったが、それで都市は生きられるのかと、私は言いたい」(薄井清編『現代の農民一揆』所収「多摩ニュータウンはいらない」)と憤っている。

 亨さんは「新住宅市街地開発法」について、次のように語る。
「農家に権利なんかないよ、所有権はないよっていう法律。僕は21歳の頃、農家をやりたいなら、那須高原に行け、北海道に行けって言われた。でも仕事ってさ、別に那須高原じゃなくたっていいわけだよね。職業選択の自由っていうのがあるわけでしょ。それと生まれた地で農業やることだって権利があるわけじゃない。それを、更地にするために全部強制移転させられるわけだから。今、(ニュータウンに)住んでいる人たちってそんな風に買収したって思ってないよ、みんな。想像できないもん」

画像15

 当初は、農家の中でもニュータウン開発を歓迎する声もあったようだ。戦後のエネルギー革命によって薪や炭の需要が減る中で、先行きを案じる農家にとっては、土地売却は願ってもない話だった。

 多摩ニュータウン開発に先立ち、1958年(昭和33)には、府中カントリークラブ創立のために、多摩村と由木村をまたぐ約27万坪が買収され、土地所有者の懐には大金が舞い込んだという。1963年(昭和38)には、多摩村地主会が日本住宅公団の団地を誘致する件についての陳情を多摩村村長あてに提出している。

 しかし、実際に日本住宅公団によるニュータウンの用地買収が始まると、土地の売却に前向きだった農家から不満の声も現れるようになった。
 当時、ニュータウン計画区域の約 2,000戸の家のうち、実に1,100戸ほどが農家だったとされているが、全面買収によって農地を失った後、気になるのは次の食い扶持である。「新住宅市街地開発法」の条文には、土地の提供によって生活基盤が失われた者に対する生活再建の事項も盛り込まれていたが、「申出があつた場合」「事情の許す限り」「努める」と歯切れの悪い言葉が並んでおり、実際に地域住民の説明会では補償や生活再建の対策が具体的に示されていなかったという。

 期待していた代替農地の斡旋などもなく、団地内商店への優先出店が斡旋されるのみだった。

 その結果、1965年(昭和40)からニュータウン計画区域からの除外を求める請願運動が陳述や請願運動が次々と行われるようになった。昇さんの住む、いわゆる「多摩ニュータウン第十九住区」(東中野ー谷津入、堀之内ー中寺沢・下寺沢・芝原・引切、越野)も、1966年(昭和41)6月7日、堀之内地区の住民320人から東京都知事及び都議会に対して「東京都八王子市(旧由木村)の全地域を多摩ニュータウン開発区域より除外する請願」を提出。度重なる請願運動の結果、同年の11月には、多摩町・町田市域の既存集落区域約210haを「新住宅市街地開発事業」区域から除外し、「土地区画整理事業」として施行することが決定された。

画像27

「土地区画整理事業」とは、町のハード面(道路や公園、建物、各種インフラ、街並みなど)を改善、整備して、住みよい「町」づくりをする事業のことだ。歴史的には災害復興に適用されるケースの多い事業だが、公共施設を作る土地の提供など、地権者同士が公平に負担(減歩)をしてまちづくりをするという仕組みは、強制買収よりは民主的・共創的とも言える。

 なにより「新住宅市街地開発法」との大きな違いは、土地所有者が開発によって土地をすべて失なう心配がないという点だ。住宅地化するとはいえ、細々ながら農業を続ける余地もあった。しかし、所有している土地の価値によって「減歩率」、つまり提供する宅地面積の割合が変化するというシステムが、営農継続を希望する農家にはネックだった。

 簡単に言ってしまえば、農地は土地としての評価が低い分、減歩率も高くなり、提供する土地の面積が大きくなってしまう。特に酪農経営には、放牧場、採草地のほか、匂いなどの問題で、住宅地との間に緩衝地が必要になるため、ある程度の面積の土地が必要になるのだ。

 さらに、1968年(昭和44)に定められた「新都市計画法」により、多摩ニュータウン第十九住区は「市街化区域(すでに市街地を形成している区域及びおおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域)」、つまり宅地化が前提とされた区域として指定(線引き)され、一層開発の圧力が加わることになった。

 ところが第十九住区は、「土地区画整理」にも反対し、「市街化区域」の線引きにも反対したので、「事業許可(承認)未定区域」として、依然多摩ニュータウン都市計画区域として土地買収の脅威にされられながらも、いわば宙ぶらりんの状態で、ひとまず農業を続けることができた。

 多摩ニュータウンの造成工事が着手されたのが、1966年(昭和41)のこと。1970年(昭和45)には第一次入居の募集が始まり、昇さんらの反対運動を尻目に、ニュータウン計画は着実に歩みを進めていた。

 1973年(昭和48)になると、抵抗運動は新しい局面を迎えた。この年の夏に、東京都住宅供給公社の山林買収の強行が始まったのである。地主の元に公社の職員が出入りするようになると、危機感を募らせた昇さんら反対派は対策委員会を設け、公社との合同会議に臨んだ。しかし、相続税に苦慮し土地を手放すことに肯定的な者など、地主たちの思惑も様々であり、一枚岩ではなかった。

 合同会議はそのような地主たちの温度差を露呈することとなり、結果、委員会は解散し、公社との買付交渉は各戸個別に対応することになった。以降の請願運動は、全面買収絶対反対を貫いた堀之内寺沢の酪農家らを中心とした、少数精鋭の戦いを余儀なくされた。

画像27
『「農」はいつでもワンダーラウンド 都市の素敵な田舎ぐらし』に掲載された、鈴木昇さんの写真。

 マイノリティとなった酪農家グループたちは、内部ではなく、外部に連帯の輪を広げていく方針に転換した。
 連帯先は、労働組合、日本共産党のほか、東京の若い農業継承者団体である「八王子みどりの会」、「東京都学農青年連盟」など、次世代も巻き込み展開した。

 この時期が、最も請願運動が激化した時代に違いない。1975年(昭和50)頃に父親から酪農家の4代目を引き継ぎ、請願運動にも加わった亨さんも当時の状況を「父と母と私は毎日の仕事と市や都や国に何年も請願を出し続ける生活」「そのころは会合などが多くて、仕事がおろそかになりがちだった。『なぜこんなことをしなくてはいけないのか』と思ったときもある。周囲の牛小屋は真っ暗なのに、わが家の牛小屋にだけ、電気が煌々とついていた」と文章に残している。
 同年5月23日に東京都議会に受理された昇さんを代表とする請願には、次のような問題提起がなされている。

「最近、農家の子弟が営農に意欲を失い、農業を捨て街に出る傾向の強い中で、畜産に熱意を持ち、農業に専念する若人農業後継者が増加しているのが地区の特長であります。国際的には食糧危機が議論され、特に国内での食料自給率の低下が問題になっている状況のもとで、限られた農業に適した農地を確保していくことは極めて重要な課題と考えます。」

 1976年(昭和51)には「多摩ニュータウンを考える都民会議」という全都民的な団体が発足するなど、運動が拡大・活性化していく中で、ついに1983年(昭和58)、酪農集約地(4.4ha)を多摩ニュータウン事業用地から除外し、「市街化調整区域」(市街化を抑制する区域)に編入長年にわたる請願運動が身を結び、堀之内寺沢の酪農家が正式に酪農を継続することが可能になった。

「アグリ・ニュータウン」という構想

 堀之内寺沢の酪農集約地が「市街化調整区域」として保護される一方、その他の第十九住区は多摩ニュータウン区域として宅地開発されていくことになる。先述の通り、酪農地と住宅地の間には緩衝地域を設定しなければいけないため、4.4haの土地をどのように設計していくかが今後の課題となった。

 これからの開発計画を検討するために、1984年(昭和59)に、「多摩ニュータウン十九住区酪農経営調査委員会」が発足する。約1年間の調査の結果、都市農業とニュータウン開発の調和として、”酪農ビレッジ”という概念が提唱され、より具体的な施策として農業公園の設置が構想される。その機能的位置づけは以下の通りだ。

1) 都市住民に牛乳・乳製品を供給する機能。
2)酪農生産の中間物たる堆肥供給機能。
3)野菜・花などの農産物の供給機能。
4)漬物・みそなど農家手づくりの農産加工品の供給機能。
5)自有農地を市民菜園などとして貸付ける機能と、その管理保全、栽培技術指導の機能。
6)都市住民の災害避難地、緑、オープンスペースなどの豊かな生活環境供給機能。
7)乳牛などの家畜とその飼い方を見学させたり、農業畜産の仕事を体験させるなど、観光牧場や体験農場としての機能。
8)牛乳・乳製品の処理加工、料理などを実習できる研修教室としての機育。
9)ホタルやトウキョウサンショウウオ、小川や雑木林の保全管理を担う自然環境保全機能。
10)祭りなど伝統文化の継承機能と、その地域住民への開放。

ユギ・ファーマーズ・クラブ編『「農」はいつでもワンダーラウンド 都市の素敵な田舎ぐらし』学陽書房
画像28
毎年、たくさんの小学生の社会科見学を受け入れてきた鈴木さんの牧場。 提供:鈴木亨

 この理想的な農業公園構想をさらに実現へと近づけるべく、地域住民や周辺の都市住民、農業や地理学などの専門家も交えて「酪農ビレッジ研究会」が1986年(昭和61)に発足した。その共同研究成果がトヨタ財団第4回コンクール「身近な環境をみつめよう」の予備研究に採用され、優秀賞を獲得、また都市開発と農業・酪農の実践的活動として、田植え、ハム・ソーセージづくり、お茶づくりなどのイベントやワークショップが開催された。

「酪農ビレッジ研究会」は1987年(昭和62)、参加者の間口を広げて「ユギ・ファーマーズ・クラブ(正式名称:由木の農業と自然を育てる会)」として、発展的解消を遂げる。代表は請願運動の中心だった鈴木昇さん。市民参加型で、誰でも会費(入会金1000円、年会費2000円)を払えば入会することができ、さらに自分が興味のあるイベントがあるときだけ参加すればいいという、拘束されない自由なスタイルが採用された。体験型のイベントがメインで、酪農・農業・養蚕・炭焼き・食品加工・工芸品づくり・野遊びなどなど、多種多様な活動が行われた。

画像11
出典:ユギ・ファーマーズ・クラブ編『「農」はいつでもワンダーラウンド 都市の素敵な田舎ぐらし』学陽書房

 このような活動の先に構想されていたのは、先に紹介した「酪農ビレッジ」に通ずる、「アグリ・ニュータウン」という概念だ。「農業とニュータウンが有機的に結びついたまち」を目指し、堀之内寺沢の里山を舞台に、都市住民が農地と自然と隣り合って暮らしながら、農家との交流を通じて農のある豊かな生活が思い描かれた。

 地域のニュータウン住民は余暇を活用して、農家にレクチャーしてもらいながら、ワークショップ形式でチーズやバター、ヨーグルトづくりに挑戦する。自分で手をかけた出来立ての乳製品は美味しいだろうし、出どころもわかって安全だ。子どもたちに体験してもらえれば、食育にもつながるかもしれない。酪農家にとっては、農業や農産物に理解を深めてもらういいチャンスになるし、住民たちの手によって生乳を加工してもらうことで、農産物に付加価値を与えることができる。

 これは、農家と都市住民が共生する、究極の理想形と言えたかもしれない。

 当時、ユギ・ファーマーズ・クラブの活動は社会的に大きな脚光を集めた。1994年(平成6)にはトヨタ財団の支援により、その活動成果や「アグリ・ニュータウン」の構想をまとめた『「農」はいつでもワンダーラウンド 都市の素敵な田舎ぐらし』(学陽書房)という本が出版された。

画像27

 しかし、2000年前後には昇さんなどクラブの主要メンバーが高齢化したことなども影響し、思い描かれた通りの農業公園、アグリ・ニュータウンはついに完成することはなく、ユギ・ファーマーズ・クラブ自体もいつしか衰退してしまった。
 しかし、その精神を受け継いだ活動は、八王子市堀之内を拠点とするいくつかの里山ボランティア団体や、亨さんの農地に新しくやってきた若い農家たちに引き継がれている。

命からがらの里山保全運動

 両親とともに、多摩ニュータウン第十九住区の酪農を守るための活動に身を削ってきた”牧場のおっさん”こと、鈴木亨さん。お父さんである昇さんは2002年(平成14)にこの世を去ってしまうが、世代交代と言わんばかりに、これ以降は亨さんの新しい「まちづくり」の活動が始まっていく。

 先述の通り、「ユギ・ファーマーズ・クラブ」が2000年前後に衰退することで、かつて構想された農業公園は完成の目を見なかった。しかし、亨さんは酪農経営を安定して続けるために、住宅地との間に緩衝地帯としての自然公園を設けることを依然として訴え続けていた。そこで2005年(平成17年)から、独立行政法人都市再生機構(UR)と八王子市、堀之内町会との間で協議が行われることになった。

 ここで一旦、時計の針を戻したい。多摩ニュータウンの第一次入居が始まったのが1971年(昭和46)のことだ。当初は都市部における住宅難の解消という名目でスタートした多摩ニュータウンだが、実はこの時点で東京への人口流入はひと段落しており、さらに1973年(昭和48)にオイルショックが起こったことで住宅需要は一層、大きな冷え込みをみせた。以降、多摩ニュータウン計画では、住宅の大量供給という「量」を重視した方針から、住宅の多様化や緑のある豊かな暮らしといった、住環境の「質」的向上という、入居者の新たなニーズに沿った開発方針に舵を切っていくことになる。

 2005年というと、”自然の叡智”をテーマとした愛知万国博覧会が開かれ、さらに京都議定書が発効された年でもあり、環境問題に対する意識も一段と高まっていたに違いない。「都市に自然公園を作る」という要望は、時代に要請にあったものでもあった。

 その結果、2008年(平成20)には、亨さんの牧場と隣接するように「堀之内寺沢里山公園」が完成した。公園の管理には、市の支援を受けながら、市民自身が公園の維持活動を行うという「公園アダプト制度」が採用された。里山ボランティアや地域住民が保全活動にあたるこの場所は、地域の交流の場としても機能しているという。

画像27
堀之内寺沢里山公園で開催されたイベント。提供:鈴木亨

 亨さんの里山保全活動の成果としてもう1つ注目したいのが、八王子市堀之内の里山保全地域指定だ。「保全地域」とは、1972年(昭和 47 )に「東京都における自然の保護と回復に関する条例」を制定した際に都が創設した制度であり、里山保全地域としては、八王子市堀之内が都内で二番目の事例。2009年(平成21)に、多摩ニュータウン区域外の堀之内北部に位置する「宮嶽谷戸」が里山保全地域に指定された。

 この活動の背景にあるのは、「残土問題」「墓地造成」だ。「残土」とは建設の副産物として生まれる土のことで、通常は業者によって適切に処理されるものであるが、違法残土といって、残土が反社会勢力によって不適正処理されることが以前から問題化していた。

 堀之内寺沢の里山にもそういった残土が違法に捨てられていたため、鈴木さんらは警察に通報したり、山道に鉄杭を打ってトラックの侵入を物理的に阻止したりと、実力行使で抗った。さらに捨てられた残土の近くには墓地の造成も計画され、亨さんはこれにも対しても、自然保護団体と一緒に反対の請願運動を展開した。

 地権者自らが自然保護活動を展開するのは、相当に稀なことだったようだ。「地主に猛反発食らったもん。 自然保護って土地を売るなってことだもん。村八分になったよ」と亨さんも語る。

 相続税の問題から土地を手放したいと考える地権者は多い。その地権者に向かって「土地を売るな」と言うのは、自然保護という名目とはいえ、確かに理解を得るのは難しそうだ。八王子市と東京都に対する墓地計画変更の請願は、計画に違法性がないということで結局下げられてしまったが、この運動を通じて亨さんは環境局とのつながりができ、さらには多摩丘陵の里山保護の機運が高まる中で、東京都、八王子市、日野市、地域農家、自然保護団体との協議が進み、ついに亨さんの土地を含む、八王子市堀之内の約7haの土地が里山保全地域の候補地となった。

 ここにちょっとしたドラマがある。
 亨さんが大病を患い病院で長期の入院をしていたことは冒頭で述べたが、そのタイミングがまさに里山保全活動の最中(2008年)であったのだ。悪いことは重なるもので、入院の直後に、世界的な金融危機であるリーマン・ショックが発生した。父親の代から土地を売らない酪農家だった鈴木家。その時点で、農林金融公庫に4,000万円の借金があり、鈴木さんは破産も覚悟したという。当初は里山保護を目的としていた活動だったが、それに加えて借金返済のための命がけの交渉が始まった。

 亨さんは病身でありながら、入院先の病院から東京都環境局と電話のやり取りを続けた。

「東海大の病院から2時間も3時間も環境局に電話しっぱなし。先生に怒られたね(笑)。携帯電話があったからよかったけど、公衆電話だったらアウトだった。病院の中にデイルームっていうのがあるんだけど、そこから看護婦さんに見つからないように電話するんだよ」

 問題は先にも説明した違法残土だった。亨さんにすれば無法者によって勝手に捨てられた土だが、当初、環境局の見解では、残土が入れられた土地は里山保全地域に指定できないということだった。その面積、約1ha。

「で、俺が何を言ったかというと、小鳥が草花の種を食べてうんこすれば、それは土の上に落ちるよね。草が生えるよね。今度は木の実を食べた鳥がうんこをポトンと落とすと木の苗が出てくるわけだよね。そのうち50年経てば、クヌギとかナラっていうのは生えてくるわけじゃん。職員さんに、それはなあに?って聞いたの。自然でしょって。里山だって自然の中の営みなんだから、今は更地だけど50年たったら同じになるんだって言ったの。そこまで想像がつかないんだよね。今はとんでもない泥を入れられたけど、自然を大事にしていれば立派な里山の一部になるわけだから、50年先考えろ!って言ったの」

画像19

 2009年(平成21)の3月に亨さんは退院、そのタイミングで堀之内の里山保全地域指定が正式に決定した。年間予算の都合で指定地域は一度に全てではなく、部分的に順繰りで買い上げられていくのだが、病気のある人、相続問題を抱えている人の土地は優先的に買い取ってもらえたため、亨さんはトップで土地を売ることができた。

「イッヒッヒ。これも運だよね。悪い運だけどね。病気じゃなきゃ買ってくれなかったんだから(笑)。でも病気だったから借金返済できた。タイミングっていうか、運が良かった」

保全地域に指定された約7.5haの自然について、亨さんは「北海道の自然からしたらたかがしれた自然かもしれないけど」と前置きしながら、次のように言った。

「あのね、僕面積の問題だと思わない。なんでかっていうと緑の効用っていうのは、お金には換算できないくらいの素晴らしさがあるから。いま、エーディージーエス? SDGsか(笑) 。そんなの昔からやってきたから。そんな言葉を覚える必要もないし、本を読む気もない。だって、本を読んでもやれる人っていないよね」

畑に福祉事業所を建てるべ

 亨さんの口から発せられたADGs、ならぬSDGsでは「誰一人取り残さない」というスローガンが掲げられている。「そんなの昔からやっているよ」という言葉は、この土地の歴史を調べてみると決して壮言大語でもないということがわかってくる。

 おっさんの活動を語る上で里山保全運動とともに外せないのが、障害者自立支援施設などを運営する「社会福祉法人由木かたくりの会」の設立だ。

「かたくりの会」の歴史は1980年代に遡る。当時、障害の子を持つ親たちにとって、堀之内のある由木地区は八王子市と多摩市の行政の狭間にあり、遠く八王子市まで行かないと「作業所」(障害のため就職が困難な方の社会的自立を支援する施設)がない不便な場所だった。そこで親や施設の教員たちが自主的に学校や公園などを利用した放課後の活動を始めたのである。

 戦後、障害児の教育を受ける権利について様々な議論や運動が起こる中で、その制度的な不備を指摘されながらも、1979年(昭和54)に「養護学校義務化」が実施され、障害児が通所する多くの学校や作業所が作られた。しかし、「ばらまき福祉」と批判されるほど福祉に予算を割いた、革新都政・美濃部亮吉都知事の時代(1967-1979)が終わると、公共の施設作りが激減したという。

「特別支援学校って言って、昔は養護学校って言ったんだけど、エリアごとに作ったんだよね。作ったけど、現実的にはそれ以降の社会に出ていく障害者の受け皿って何もなかったの、30年以上前は。東京都と国は事業所は市町村で作れって言ってるわけ。でも八王子市はやらなかった。だから、かたくりの会ができたの」

「かたくりの会」が、活動をさらに外側に向かって広げていこうとしていた最中、メンバーがタウン誌で「ユギ・ファーマーズ・クラブ」のことを知り、その新年会へ子どもたちと足を運んだ。これが「かたくりの会」と「ユギ・ファーマーズ・クラブ」の最初の出会いである。

 昇さんたちは「かたくりの会」の面々を快く迎え、以降、畑を借りての農作業や、近くの会館を利用した畑で採れた作物の調理をしたり、ゲームで遊んだり、誕生日会のしたりと、鈴木さんの農地が「かたくりの会」の活動拠点となっていった。

画像20

 通所訓練施設の開設を求めていた「かたくりの会」。「ユギ・ファーマーズ・クラブ」のリーダーだった昇さんも、その活動へ次第に共鳴を深めていったのか、自分の土地に福祉施設を作るための交渉を八王子市と始めた。

「ニュータウンに越してきた人は土地持ってないわけじゃん。土地っていうかせいぜい分譲住宅の集合住宅の分譲か、もしくは一戸建て。そこに施設を建てられるわけないけど、たまたま畑を持っていたから、単純ではないけど、親父が俺のところの畑に福祉事業所を建てるべってやったの」

 1983年(昭和58)から市街化を抑制する市街化調整区域となっていた鈴木さんの土地では、施設の建設が困難であったという。

「本来は法的には無理なんだけど、食い下がってそれを作っちゃったの、すごいでしょ。どうやって? それは交渉力。ニュータウンの請願運動で交渉は手慣れたもので、議員より素晴らしかった(笑)。だから八王子とか東京都を納得させたの。東京都から補助金として500万円を引っ張って、ログハウスの通所訓練施設を作った(92年4月)。やっぱりなんでも限界とは思わないで(やってみるべきだよ)。だって限界を超えるような制度はないんだから。難しいようなことを前提に書いてあったら、誰もやらないでしょ?」

 ユギ・ファーマーズ・クラブ最盛期に構想された事業体「ユギ・ファーマーズ・コーポレーション」の機構図には、農家、都市住民に加えて、障害者(作業者)も、事業の担い手として位置付けられた。

画像12
出典:ユギ・ファーマーズ・クラブ編『「農」はいつでもワンダーラウンド 都市の素敵な田舎ぐらし』学陽書房

 2002年(平成14)、牧場のおっさんの父である鈴木昇さんが亡くなった。残土問題や墓地造成問題を抱える最中、息子の亨さんにはさらに「相続」の問題が重く降りかかってくる。相続税の申告期限は、被相続人が死亡したことを知った日の翌日から10ヶ月以内に行わなければいけない。

「うちの親父が地域との関わりの中で、福祉事業所を親父の説得力で行政に認めさせて作った、それがずっと継続して、親父が亡くなっちゃったときに相続で施設を継続するか、もしくは畑に戻してやめるかって、見極めをしなければいけなかった。それを10ヶ月以内に決めないといけないの。でも相続しないとなった時に、”出てけ”って言ったら人間じゃねえべ? 畑とともに仕事をしたり、授業を受けたりしながら暮らせるそれなりの施設を作ったわけで、それを壊すわけにはいかないから、それだったらどうしたらいいかって考えた」

 亨さんはやはり、福祉施設を相続して残すことを念頭に置いていた。そこで取り組もうとしたのが、「かたくりの会」を社会福祉法人化して運営基盤を安定化させることだ。社会福祉法人として認可されることで施設整備に補助を受けられたり、税制上の優遇措置がとられたりと、さまざまなメリットを得られる。一方で、認可を受けるためには、事業計画書を立案したり、基本財産として一億円以上を保有していなければいけないなど、ハードルも相当に高い。亨さんも、障害児の親たちから「そんなことできるわけない」と言われたと言う。

 亨さんの背中を押したのはとある人物との出会いだった。知的障害者の権利侵害に関する大事件を数多く担当してきて、その界隈では名の知れた弁護士・副島洋明。昇さんが亡くなった2ヶ月後、施設に通っていた母子家庭の男の子の母親が亡くなった。一家は土地持ちだったが、母親の死後に、その財産が他人に使われていることが発覚。不正を突き止めた亨さんは以降7年間も続く裁判を起こすのだが、その際の担当弁護士が副島だったのだ。
「鈴木さん、立派な福祉施設を建てよう」
 副島にかけられたその言葉が、亨さんを勇気づけた。設立のために、周辺の地主たちにも頭を下げたという。

 2005年、「かたくりの会」は社会福祉法人として認可され、2006年には亨さんの農地の近くに新しい事業所「かたくりの家」が完成した。施設に併設されたレストランでは、通所生による野菜を使用した料理が提供され、ウェイター・ウェイトレスも通所生が務めている。

「昼飯食べにいくじゃん。もう顔が見えると『とおるさーん、とおるさーん』って挨拶してくれるの。中には変わった奴がいて、『じじいがきた、じじいがきた』って(笑)。彼にとってはそれが唯一のコミュニケーションなの。『こんにちは』のつもりなの。なんだろう、そういう風に人と関われることって大事だよ、単純だけど」

紡がれる新しい「農」の物語

 病気を機に酪農を引退してしまった亨さんだが、父親である昇さんと守ってきたこの土地は現在、次の世代へと引き継がれつつある。最後に、この堀之内寺沢の地に新しく紡がれている「農」の物語について話をしておきたい。

画像25

 東京で新規参入の農家が新しく農業を始めることはハードルが高いと言われてきた。その理由は、東京都の農地は、島しょ地域(伊豆諸島や小笠原諸島などの島々)を除くと、66%が「市街化区域」にあることが大きい。2018年9月施行の「都市農地貸借法」によって改善には向かっているが、それまでは、様々な税制上の理由から「市街化区域」の農地を新規就農者に貸し出すことはほぼ不可能だった。

 そうなると残される選択肢は、制限の少ない「市街化調整区域」であるが、ただでさえ小さい東京の農地の中で、さらに面積が絞られてくるということで、農地探しは困難なものになってくる。また、農地を借りるために所有者の理解を得ることができるのか、農業社会に非農家出身者が溶け込めるのか、という課題も考えると、新規就農者と農家の間を取り持つパイプ役も必要となる。

 2012年(平成24)、東京都では5人目、八王子市では初の新規就農者が生まれた。この畑を提供したのが、亨さんである。亨さんの元には以前から、東京都などから若い就農希望者の面倒を見てくれないかと声のかかることがあったが、病気になったことで酪農家を引退していたこともあり、最初はそのような要請を断っていた。

 しかし、里山保全の活動の中で、農家としての独立を目指していた若者と出会ったことで、「やってみるか」という話に発展した。亨さんは土地を貸すだけでなく、農機具やトラクターも貸し出すなど、新規就農者を力強くバックアップした。

画像27

提供:鈴木亨

 亨さんの畑を借りて農家を始めたその若者は、農業のみならず「YUGI MURA Farm」という牧場をスタート。やがて若手農家の仲間たちと農業事業会社を立ち上げ、農業や農地を媒介として、農家、地域住民、障害者をつなげるまちづくり、コミュニティづくりを模索し始めた。2015年(平成27)には、八王子市で初の「農業体験農園」、農家が主体となり、本職の農家の指導のもとに農業体験ができる体験農園もオープン。

 おっさんのもとには、今でも若者たちが次々と集まり、新しい風がどんどんと吹き込まれている。

「よそさまから見ると、あそこんちは何やってるんだって思われているかもしれないけどね。でも僕はね、これまでやってきたこと(若者たちとの関わり)で、今の生活が維持できてると思う。若い人に関わるのはすごい大事。だってそれが未来をつないでいくんだから」

画像21

地権者として、酪農家として、外部の人間を自分の土地に受けれてきた亨さん。牧場のおっさんのブログから次の文章を引用したいと思う。

父や自分は、受け入れてきたように思う。
多摩ニュータウンに障害福祉施設が皆無だった。
その家族を受け入れてきた。
そして、継続のある施設のために
自分は頑張ってきた。
舩木君や若い皆さんの行くところがない、、
何の知識もない中、、
共に歩んできました。
他の人とのかかわりで、
ユギムラ牧場は自立できてるような
気がします。

だから”百姓”っていうの

 亨さんの奥底には常に「怒り」があるように感じる。「あえて言えばね」というフレーズとともに繰り出される、机の上だけで都市計画を語るまちづくりの専門家や、若手農家の育成に関心のない市役所職員などに対する怒りの声。

「反対運動ってどういうことかっていうと、頭使わないとできないわけじゃん。だって相手は政治家とかURとか、土地計画局とか、いろんなまちづくりの行政マンとやりあわないといけないから」

 父親である昇さんの代から堀之内の酪農家たちの姿勢は変わらない。粘り強く、交渉し続けること。時間と知恵と根気、すべてが必要ですねと言うと、「そうだと思うよ」と、亨さんも同意する。そして少し寂しげに「そういうのが僕、今足らないように気がする」とも漏らす。

画像23

 亨さんが語る幾多のエピソードの中で、特に印象的なものがある。国や都、市とのさまざまな交渉を続ける中で、死んだ牛を乗せて都庁に行ったことがあるというのだ。

 処理場へ持っていってから都庁に行くと、時間に間に合わないからというすごい理由なのだが、何よりすごいのが酪農家が自ら死んだ牛たちを運んでいたという事実だ。

「死んだ牛を自分で運ぶ人は、そんなにいなくて、多摩に150軒くらい酪農家があって、自分で運ぶ人は二人くらいしかいなかった。大抵は家畜商さんっていう業者に任せるんだけど、大体一回運ぶのに3万円ぐらい、でも3万を自分で運べば3万浮くじゃん。ガソリン代はかかるけど、その積み重ねって大きいんだよね。ゆりかごから墓場までって、生まれた時から最後まで面倒を見るのが俺の主義だったから、食肉センターも自分で持っていった。最初は吐いたけどね、匂いで。トラックの上に、自分で牛を運ぶ車の枠も作ったよ。ちゃんと正規で作ったら何百万ってかかっちゃうので、パイプとかコンパネを使って」

「全部自分でやるんですね」と感心すると、「だから”百”姓っていうの」とつぶやいた。

「自分で納得しないとヤダっていうのはあったけどね。だから逆にいうと、体を使いすぎて病気になっちゃったのかもしれないけど」

画像28
ユギムラ牧場の堆肥小屋。乳牛を手放した今も、亨さんは運び込まれた家畜の糞をここで堆肥処理して、若手農家に格安で提供しているという。

 土や生き物に触れて生きてきた人たちは本当に強い。大地を踏みしめ、腰をかがめて働いてきた人たちの胆力というやつだろうか。

「だから百姓っていうの」という一言に、亨さんのこだわり、強さ、そして奥底に流れるいらだちや、怒りといったものが表れているように僕は思う。

自由の風を感じる土地

「この土地のことをもっと知りたい」。堀之内寺沢を訪れてから数日後に、亨さんのブログに取材依頼のメールをしてみると、すぐにご返信をいただきZOOMを通じて夜中の0時まで3時間ぶっ通しのインタビューが始まった。

 亨さんは現在、寝たきりの奥さんを日々介護する生活を送っており、ショートステイをしているわずかな合間をぬって、連絡をとってくれたのだ。将来的には施設に入ってもらうことも検討しているが、現在は亨さんが何から何まで自分でお世話をする「全介助」という道を選択している。人によっては過酷とも言われる方法だが「自分はなんでもかんでもやっちゃうので(笑)」という言葉は、まさにこだわりの強い亨さんらしい。

 取材後、あまりにも濃密すぎる内容に、通話を終了した後は、身体が鉛になったような重さを感じた。さまざまな資料に目を通して、少しずつ取材テープの内容を咀嚼していく。それはまさに、土から掘り起こした作物を、丁寧に自分の中に取り込んで、栄養にしてくような作業だった。

画像28
写真、右側の岸壁のようにそそり立つ台地の上には、分譲住宅地が広がる。ニュータウンがギリギリまで迫っている。

 不思議な場所だと思う。計画的に短期間で造成された人口都市に囲まれながらも、昔の面影を残すこの場所は、農地を排除してきた都市空間の中では自然というよりよりも、むしろ「不自然」という言葉がふさわしいかもしれない。

 請願運動の最中、多摩ニュータウン第十九住区が「土地区画整理事業」や「市街化区域」に反対していた時代には、この土地は「事業許可(承認)未定区域」という実にあいまいな括りで存在していた。人の支配の及ばない、あるがまま存在する場所、少し大袈裟な表現かもしれないが「アジール」や「聖域」という表現がふいに思い浮かぶ。この場所にいると、途方もない自由の風を感じる。

画像27

 私たちは都市というものを一面的に捉えてはいけない。
 住宅街の隙間にひっそりと存在する農地、町中に突如として現れる豊かな自然、誰かの帰りを待つように静かたたずむ石仏、そういった小さな痕跡が土地の歴史を紐解くための手がかりだ。観察力を高め、想像力をめぐらし、わずかな違和感も見逃さないように。どんな場所にも物語があり、私たちに耳を傾けられることを待っている。

<参考文献>
金子淳『ニュータウンの社会史』(青弓社)

ユギ・ファーマーズ・クラブ編『「農」はいつでもワンダーランド―都市の素敵な田舎ぐらし』(学陽書房)

鈴木昇「多摩ニュータウンはいらない」,薄井清編『講座日本農民〈1〉現代の農民一揆』(たいまつ社)所収

パルテノン多摩編『多摩ニュータウン開発の軌跡 巨大な実験都市の誕生と変容』(パルテノン多摩)

八王子市市史編集専門部会民俗部会編『八王子市東部地域 由木の民俗』(八王子市総合政策部市史編さん室)

小野淳,松澤龍人,本木賢太郎著『都市農業必携ガイド 市民農園・新規就農・企業参入で農のある都市(まち)づくり』(農山漁村文化協会)
杉本章著『障害者はどう生きてきたか―戦前・戦後障害者運動史』(現代書館)

小国喜弘著『障害児の共生教育運動養護学校義務化反対をめぐる教育思想』(東京大学出版会)

鈴木亨「八王子市堀之内からの新規就農」,多摩ニュータウン学会編集委員会編「多摩ニュータウン研究第14号」所収

岡田航「堀之内の里山ボランティア活動史」,多摩ニュータウン学会編集委員会編「多摩ニュータウン研究第14号」所収

大石堪山「請願運動からみた都市問題としての農業・農村問題一一多摩ニュータウン開発におけるいわゆる「第19住区問題の意味するもの一一」「総合都市研究第12号」(東京都立大学都市研究所)所収

坂根大介「不動産の重要事項説明書における「新住宅市街地開発法」とはなにか」イクラ不動産(最終閲覧日:2021年4月18日)

林浩一郎「多摩ニュータウン「農住都市」の構想と現実―戦後資本主義の転換とある酪農・養蚕家の岐路―」「日本都市社会学会年報 28」(日本都市社会学会)所収都市計画部都市総務課「多摩ニュータウン」八王子市役所(最終閲覧日:2021年4月18日)

公益社団法人 街づくり区画整理協会「土地区画整理事業とは」公益社団法人 街づくり区画整理協会(最終閲覧日:2021年4月18日)日本測地設計株式会社「土地区画整理 Q&A」日本測地設計株式会社(最終閲覧日:2021年4月18日)

北条晃敬「多摩ニュータウンの計画と建設」「総合都市研究第 10号」所収アットホーム「減歩とは」アットホーム(最終閲覧日:2021年4月18日)

ニフティ不動産「市街化調整区域とは?市街化区域との違いは?住宅の売買や土地購入にも建設許可申請がいる?」ニフティ不動産(最終閲覧日:2021年4月18日)

まちなみ整備部公園課「公園アドプト制度」八王子市役所(最終閲覧日:2021年4月18日)

産業振興センター都市農業係「農業体験農園について」杉並市役所(最終閲覧日:2021年4月18日)マイナビ独立「「人と同じことをしたくなかった」。八王子初、たった80万円で事業を始めた新規就農者」マイナビ独立(最終閲覧日:2021年4月18日)

古山萌衣「障害児教育政策の歴史的展開にみる特別支援学校の意義」「人間文化研究16号」所収学制百二十年史編集委員会「一 養護学校の義務制実施への道」文部科学省(最終閲覧日:2021年4月18日)

加地延行監修「社会福祉法人とはどんな法人か?制度と事業の内容を解説」Money Foward Bizpedia(最終閲覧日:2021年4月18日)

坂根大介「生産緑地の2022年問題とはなにかわかりやすくまとめた」イクラ不動産(最終閲覧日:2021年4月18日)

舩木翔平「多摩ニュータウンに子供も遊べる「ヤギ牧場」を作りたい!」READY FOR(最終閲覧日:2021年4月18日)

都市農業担当部都市農業課農業振興係「農業体験農園」練馬区(最終閲覧日:2021年4月18日)

多摩丘陵の牧場のおっさんの環境福祉(最終閲覧日:2021年4月18日)

柳生譲治「高学歴女子が東京の市街地で農業を始める理由」未来開墾ビジネスファーム(最終閲覧日:2021年4月18日)

KOKEGUCHI「おっさん牧場の鈴木亨さん「情報発信することが大事。継続的な発信で良い出会いに巡り会える」(最終閲覧日:2021年4月18日)





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?