見出し画像

ごまめのごたく:ロシアのもろもろ(1)

イントロ

ロシアがウクライナに侵攻した2022年4月のメモ

次の歌詞、ここ一か月、頭の中でリフレインし始めることしばしばです。

特に最後の、ジョージアズ おんまいまいまいまい・・・マーインド

ビートルズの通称「ホワイトアルバム」1968 の第一曲 Back in the USSR。

The Ukraine(ユークレイン) girls really knock me out

They leave the West behind

And Moscow girls make me sing and shout

That Georgia's always on

My, my, my, my, my, my, my, my, my mind

だいたいこの手の歌詞は、聞き覚えで、逐語訳とかほとんどしてなくて、ロシア(旧ソ連)の若者が、アメリカのジョージア州で一時滞在して、州内のユークレインというところで遊行した思い出を胸に故郷ソ連に帰る、

というシーンを思い浮かべてました。

で、今回初めて気になって調べ始めてわかりました。逆です。ウクライナとグルジアなんですね。(ウクライナの東南、今のジョージアは旧ソ連邦のころ、グルジアと表記されていました)。

 ポールマッカートニーは2003年に、モスクワの赤の広場で公演してプーチンも観覧し、かつ個人的に対談してます(タイトル画像)。

 当時も、旧ソ連では、欧米の音楽は退廃文化として公には禁じられていましたが、このBack in the USSRは、今背景を知って歌詞を聞くと、ロシアとウクライナを区別してないんですね。プーチンも、そこを気に入っていたのでしょうか。

 このメモを書いた頃(もう2年もたってしまいました)、ロシアのウクライナ侵攻のニュース、特番はじっくり見てましたが、ジョージアのロシア国境沿いに住んでいる住民は、ロシアが管理している鉄条網の国境が、毎日のようにウクライナ側に進出していて、ある日突然、自分の敷地がうロシア側になっていたとか、やることがせこい。
 しかし、規模の問題で、中国が南シナ海でやってることもおなじ発想、おなじレベルですね。

最近見た映画

ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう

 2021年 ドイツ・ジョージア合作 
 監督はジョージア出身の新鋭アレクサンドレ・コベリゼ。

ジョージアの美しい古都クタイシ。
 薬剤師のリザと、地元のサッカークラブの選手ゲオルグが偶然街角で何度も出会う。
 「何かの縁だね、今度白い橋のカフェで会いましょう」といって分かれるが、「邪悪な目」が彼ら二人が会えないように呪いをかける。
 
 ナレーションがいい。呪いをかける邪悪な目の悪事をすべてお見通しの、空気の精が語っているのだろうか・・・

 この、お見通しの天網(「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず」:天の網は広大で目が粗いようだが、悪人は漏らさず捕らえる。悪いことをすれば必ず天罰が下る)のナレーションのもと、登場人物の会話が進行しているいくつかのシーンではセリフが全く聞こえない。無声映画的ではあるが、何をしゃべっているかはほとんど理解できるような気がする。各々のシーンが動画ではあるが、すごく絵画的で美しい。木陰にたたずんで、空気の精と共に、人々の動きを眺めている、そんな感じ。

 この映画の魔術的、カフカ的な不条理世界の描写もさることながら、映画のタイトルや街のシーンに現れるジョージアの文字にすごく感心しました。
 映画の雰囲気にマッチした文字をわざわざ創作した、とでもいうような丸文字風のかわいらしい文字です。
 エンドロールでは、ジョージア語とドイツ語が併記されていました。

ユネスコ無形文化遺産のジョージア語
sekaiwoman.comより


ウィキペディア「コーカサス諸語」より

ともかく複雑な地域ですね。

最近読んだ本

「シベリアに独立を!」

 『「シベリアに独立を!」諸民族の祖国(パトリ)を取り戻す』田中克彦 岩波現代選書 2013

 近くの本屋さんで、「倉庫に眠っていて行き場のない本」というコーナーにありました。
 著者は1934年生まれで、モンゴル語が専門。

 ポーターニン(1835~1920)という、ロシアの探検家、地理学者、民俗学者の活動に関する話が主軸として述べられています。

 まだ、咀嚼しきれていません。
とりあえず、箇条書き風で、今後の展開のための覚書(Note)です。

ポターニンがシベリアで活動する時代に至る背景

 シベリアへの流刑が始まったのは1593年からだそうで、凶悪犯を集団的に送り込んで、金鉱などの地下資源を掘り出して製錬するために、過酷この上ない懲罰抗、懲罰工場で働かせていた。

 19世紀に入ると、犯罪人の内容に大きな変化が起こった。
ドストエフスキーに代表される知識人や思想犯として貴族の青年たちが「シベリア送り」となった。

略歴

 ポターニンは、1835年、シベリアのセミパラチンスク(今日はカザフスタン共和国領)の近く、コサック軍が駐屯地として常住する村、ヤムィシェスカに生まれた。

 コサックの軍人を父として生まれた男の児は、当時、かならずコサック軍の軍人にならなければならず、かれは、11歳から6年間、オムスクの陸軍幼年学校に入った。

 もともとコサックは15世紀後半にポーランド・リトアニア連合国や南ロシアから、農奴制を拒否し、自由を求めて集まった人々からできた集団で、18世紀半ばからはロシア政府の辺境軍備に仕えた。

 彼らを指すロシア語の「カザーク」は、キルギス語、カザフ語、タタール語などで、「自由、独立の人」を意味するそうです。 

ポターニンは、1862年に地理学協会のの研究員に採用され、「タタール語の通訳」として学術探検隊に参加した。

 ここでのタタール語は、キルギス語をはじめアルタイ地方から西北モンゴルにかけて住む諸族のテュルク系諸方言、いわゆるアルタイ・タタール諸語の広義の意味で使われている。

 土着の人たちとの交渉で、その人たちのことばが使えるのは、かけがえのない能力であり、彼は、トムスク県統計委員会書記の地位についた。

 1865年にシベリアの陸軍幼年学校で、ロシアからの分離・独立を呼びかける宣言文が発見されたことに端を発して、帝政ロシア当局は宣言文所持者を多数逮捕し、流刑に処した。

 ポターニン達59人が拘束されて、オムスク市の監獄に入れられ、その後、要塞司令官直属の軍営倉に移された。

 囚人たちの軍営倉での生活は、どんなに過酷だったろうかと想像されるだろうが、ところがこの軍直属の監獄の方が、市の監獄よりも彼らには寛容であったらしく、後のかれらの活動の基礎となる研究生活を、ほかでもない営倉内で保証された。

 このオムスク軍監獄の自由は、ポターニンによれば、士官たちが、あるいは軍隊全体が、いな「全ロシアが」、当時は自然科学の学習に熱中しているからだという。

 ポターニンの嘆き:「ロシアは、どんなに才能のある人間をシベリア流刑で失っていることか」

そうした最中、ロシアはアラスカを720万ドルでアメリカに売却した

 もともと、ロシアに征服される以前から、シベリアにはシベリアを故郷とし、独自の言語と文化を持ち、そこで暮らす諸民族がいた。

 シベリア諸民族は、見た目も日本人とほとんど区別がつかず、かれらの言語も文化も日本の始原の文化と深いかかわりがある。

 まだ、先が長いと思うので、ここで「インターミッション」です。