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醜意識を鍛える その5 まとめ

美意識の断捨離をしてみよう

今の世の中には無限の美が溢れています。そう書くと大袈裟に感じられるかもしれませんが、田んぼや古民家の長閑な里山風景も、圧倒されるようや自然の超常現象も、はたまた道路の看板も、もちろん美術品も美しいと感じる誰かがいます。

『誰かにとっては美しいが自分にとってはそうでもない』
をまずはしっかりと定義することが大切です。

『いいものかもしれないが、私は求めていない』

つまり、好きかどうかをぼんやりとわかっておくくらいはしておきましょう。

しかし、嫌いだからといって、排除する必要はありません。そういうのが好きな人もいるというおおらかな許容は持ち合わせておきたいもの。

何から何まで、好きと嫌いを竹で割ったようにスパっと切り分ける必要もないと思います。

その上で、嫌悪感を抱くもの、醜いと思うものは言語化できるくらいになっておきます。
この際、なんとなく好きは良いとして、なんとなく嫌いから、苦手を言語化する作業をしておきましょう。


醜意識というのは、死から逃れるために持っているもの
美意識というのは、生の喜びを感じるため持っているのもの

です。
生存を最大の目的とすれば、醜意識を磨くことは不可欠な作業です。

美意識を鍛えることが行動においてのやりたいこと、ありたい姿の倫理観を規定するのであれば、醜意識はやりたくないことをはっきりと規定できます

昨日のノートに書いた例で言うと
『人体の表面を傷つける可能性を排除する』
『街にうんこを撒き散らさない』
『ヌメっとした物体が嫌だから、排水口を常にきれいにする』
といったような、ある種当たり前の行動様式ですが、それを美意識と呼ぶにはおこがましい低レベルのものが定義できるようになります。

美のひとつには無駄の排除がある

僕はそう思ってます。
華美な装飾も美しんだろうなと思いますが、自分ではやらなくていいや、誰かに任せとこう。といったような寛容さや、それもいいねという許容度も持ち合わせていながら、シンプルな美意識を持つようにしています。

逆に言い換えると、もし華美な装飾を好む人であれば、シンプルな美しさもわかるけど、私は盛り盛りのものが美しいと思うわとなればいいのです。

ときどき、両方を追う人も見られますが、それは野暮というもの。そこら辺は九鬼修二のいきの構造を読んでください。

こんがらがることを言いますが、僕は死も嫌悪しないようにしています。好きではありませんが、論理的に考ることで、死をひとつの事象として肯定するようにしています。
醜意識を持って、死から逃れることを礼讃しながらも、死そのものから目を背けないようにしています。

最後に美と醜、死とエロティシズムの人、ジョルジュ・バタイユの言葉で締めたいと思います。

ここまでお付き合いしてくださった方は、音読するか、声に出せない場所なら3回読んでみてください。

生殖は死に緊密に結びついている。いずれも魅惑的なものであり、その魅惑によってエロティシズムを支配しているところの、存在の連続性と死とが同じものであると言うことを示すには存在の生殖と死について語るべきであろう。

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